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2006年12月29日

渡来人と豪族の盛衰

5世紀中頃(古墳時代後期)から飛鳥時代を経て、平安京が築かれた奈良時代にかけて、それまでの物部・蘇我氏などの豪族と呼ばれる人たちの争いから、藤原氏を中心とする、強固な国家を造ろうとする動きが登場してきました。
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図は「飛鳥の時代」さんよりお借りしています。
藤原氏らは、唐や新羅と争う一方で、中国の制度をとり入れた新しい国家の建設に努め、天武・持統両天皇の時にこの事業はほぼ完成しました。
律令(刑法と行政法)が国家の法典とされ、豪族の支配下にあった全国の民衆は、中央・地方に置かれた役所を通じて中央政府に支配され、694年の藤原宮の完成をもって律令制国家ができあがったといえます。
この豪族の盛衰と国家統合の背後にどのような力関係があったのか、
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改めて、これらの豪族の争いは、どのような構図で行われたのかを整理するために、代表的な物部・大伴・蘇我・藤原氏についてウィキペディアで調べてみました。
【物部氏】
河内国の哮峰(現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒミコトを祖先と伝えられる氏族。
『日本書紀』によると、欽明天皇の時代百済から仏像が贈られた。これの扱いを巡り、蘇我稲目(大臣)を中心とする崇仏派と物部尾興、中臣鎌子を中心とする排仏派が争った。

【大伴氏】
古代日本の有力氏の一つ。天孫降臨の時に先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とする説もある。
物部氏と共に軍事の管理を司っていた。軍事氏族としての大伴氏と物部氏の違いは、あえて言えば、親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏と見ればわかりやすいであろう。

【蘇我氏】
蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。
河内の石川、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族または定着した渡来人という説があり、応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物である、というのが現時点で最も有力な渡来人説である。
渡来系の氏族との関係が深く、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

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図は「飛鳥の時代」さんよりお借りしています。
【藤原氏】
中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族である。
藤原の姓は当初は死を目前とした鎌足に与えられ、壬申の乱は一時衰亡の危機を迎えたが、その次男である不比等が成長し頭角を現すと、藤原氏が太政官を中臣氏が神祇官を領掌する体制となり強大な権力を持つようになった。

さらに、各勢力が関係する史実を時代順に並べると
★大和時代(古墳時代)
479年  雄略天皇死去。後継者争いおこる。
507年  大伴金村が越前より男大述王を迎え、継体天皇として即位させる。
552年  百済より仏教伝来。仏教をめぐる、蘇我氏と物部氏の争い始まる。               
587年  物部氏滅亡
                                
★飛鳥時代
592年  蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺。推古天皇が即位。
604年  憲法17条制定。
620年  聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」と「国記」を編纂
645年  大化の改新。中大兄皇子、中臣鎌足らにより蘇我入鹿が殺害される。蝦夷は自害。
663年  白村江の戦い。日本・旧百済連合軍が唐・新羅連合軍に大敗。
668年  中大兄皇子が即位し、天智天皇となる。
669年  中臣鎌足、藤原の姓と大織冠を与えられるが、その翌日に死去
671年  天智天皇死去。
672年  壬申の乱。天智天皇の子、大友皇子が天智天皇の弟である大海人皇子に敗北し、自害する。飛鳥浄御原宮に遷都。
694年  藤原京に遷都。
701年  大宝律令完成。舎人親王・藤原不比等らがつくる。
 
★奈良時代
710年  平城京に遷都。 
712年  太安万侶が稗田阿礼の語りを元に「古事記」を編纂する。
720年  舎人親王らが「日本書紀」を撰上。
これら大きくは、①物部・大伴氏 → ②曽我氏 → ③藤原氏 という権力の移り変わりと、
Naotoさんが「弥生期以降の氏族系統」で投稿されている
①二世紀前半頃に筑前海岸部へ遷住(いわゆる「天孫降臨」で、「日向」とは筑前国怡土郡から那珂郡にかけての一帯とその近隣地域のこと)、更にその王族庶子が遙か東方の大和へ移動
②五世紀後葉の雄略朝頃の渡来の波(今来の漢人)が大きかった。
③七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入してきた人々も、また大量であった。奈良時代にも、大陸との交流を通じて人々がやってきたが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途断した。
の渡来人勢力の波とはかなり重なっており、大陸からの玉突き的な闘争圧力を受けながら、各勢力が日本に合った国家統合形体を競い合ったのが、邪馬台国登場から大化の改新までの約400年間であったのではないかと思います。
従って、古事記と日本書紀に見られるように、その当時の各勢力が作り上げた歴史書も、各々勢力に都合の良い内容にまとめられ、時代を見えにくくさせているのだと思います。
天皇家を中心とした豪族(朝鮮系)に代わり、ようやく中国系の渡来人勢力によって強固な中央集権国家が作り上げられたのが、藤原氏を中止とした、平城京の奈良時代であったと言えます。

投稿者 simasan : 2006年12月29日 List  

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コメント

少々遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
本年も盛り上げていきましょう。
>1年のはじまりをいまの1月1日の時期に決めたのはローマ帝国
そうですね、カエサルのユリウス暦ですよね。いかにも正月って日本的な感じだけど、カエサルが2000年も前に制度化したのが今の暦、それが全世界を同時に動かしているのだから制度とか標準化ってある意味すごいですね。

投稿者 Hiroshi : 2007年1月5日 01:42

初めまして。yurikoです。
古代史大好きっ子です。
古代史の解明をしたブログみつけました。
古代史が好きな人は是非、読んでネ!

投稿者 yuriko : 2007年5月14日 13:35

yurikoさんこんばんは、
早速拝見しました!
>マルタ遺跡で発見されたマンモスハンターの道具細石刃槍・・
が面白かったです。細石刃ってかなり精巧な武器ですね。
それにしてもマルタ遺跡って巨石とか、地母神像とかいろ
んなものが出てきますね。

投稿者 Hiroshi : 2007年5月14日 23:28

yurikoさんのブログ拝見しました。
なかなかの力作ぞろいで驚きです。
このブログも日本中の縄文ファンが見てくれているんだと思うと元気が出てきます。
みなさん、ぜひ、yurikoさんのブログへも見に行ってコメントしていってください。でもyurikoさんって男性の方なのかしら?

投稿者 tano : 2007年5月15日 02:42

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