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2008年09月08日

長江文明崩壊の時⇒日本へ渡来?!

最近、るいネットでは「日本人の起源」についての追求が盛り上がってます その中で、こんな投稿がありました。
世界規模の気候変動が4200年前に起きている。~この時期の流民が縄文人を形成した!?
安田 喜憲氏の著書「環境考古学が示唆する気候変動と人類の歴史・文明の興亡」を参考に書かれた投稿ですが、加えてこんな可能性もるいネットでは示唆されています。
江南人と日本人:::倭人とは何者か?1
江南人といえば、長江下流域にいた人々のことを指します。
今日は、気候変動の文明史
(同じく安田先生の著書より)から、長江文明で何が起こったか?調べてみました。
byさーね
climate_2.jpg
日本人の可能性を探求しましょう!
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温潤地帯の長江文明を衰亡に導いたもの
これに対し、温潤な長江文明地帯でも4200年前の気候悪化は、長江文明を衰亡に導いた。だが、長江文明を衰亡させた原因はそれだけではなかった。気候悪化にともなう北方からの畑作牧畜民の侵入が、つまり民族移動が文明衰亡を決定的にしたのである。
長江文明ある大地は今日でもまだ豊かな穀倉地帯である。長江文明の崩壊をもたらしたのはメソポタミア文明を崩壊させた自然破壊ではなかった。
4200年前に湖南省城頭山遺跡が放棄されたあとも、湖北省石家河遺跡など長江文明の遺跡は継続するが、それらも4000年前には急速に衰退していく。浙江省良渚遺跡さらには四川省龍馬古城宝トン遺跡なども4000年前に放棄される。4200~4000年前が長江文明の衰退期である。この長江文明を衰亡に導いたものはいったい何であったのか。
図には鳥取県東郷池の総硫黄含有量の変遷の図に、長江文明の遺跡の面積の変遷をかさねあわせてみた。すると、興味深い事実が浮かび上がってくる。最古の開地式稲作農耕集落である湖南省彭頭山遺跡や八十ダン遺跡の面積は約5~6万平方キロメートルである。
6400年前にはじまる最古都城遺跡である城頭山遺跡の面積は10万平方キロメートルであった。
さらに暦年代5300年前にはじまる鶏叫城遺跡は15万平方キロメートルである。
徐々に遺跡の規模は拡大しているが、爆発的な拡大はみられない。ところが4500年前の四川省龍馬古城宝トン遺跡になると、突然遺跡の規模は60万平方キロメートルと巨大化する。
さらに同じ時代の湖北省石家河遺跡や浙江省良渚遺跡の面積は100万平方キロメートルを超える巨大なものとなる。4500年前を境として、長江文明の遺跡は突然爆発的に巨大化する。4500年前にメガロポリス時代に突入したとみなされる。
ところがその巨大化した都市は、4000年前に忽然と姿を消すのである。あたかも巨大化した恐竜が絶滅するかのように、長江流域のメガロポリスは4000年前に放棄される。
その背景に何があったのか。現時点ではまだその謎のたしかな解明はできていない。その原因の一つにやはり4200年前の顕著となった気候悪化と民族移動が深くかかわっていたのではないかと私はみなしている。
気候変動の文明史より
-----------------------
★4,200年前:気候の寒冷化→乾燥化
→徐々に様々な部族が長江流域に移動していく。
→黄河の地から遊牧・掠奪部族が侵入→長江流域が戦地へ
→江南人始め、長江の地を追われ→長江文明崩壊
⇒ある部族は南下し、ベトナム、ミャンマー等の地へ
長江流域で航海に長けていた部族が日本あるいは南朝鮮へ
こんなストーリーが描けるのではないでしょうか? 😮

投稿者 sawatan : 2008年09月08日 List  

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コメント

 こんにちわ。関西の古道を歩きながら歴史推理小説を書いている高塚タツと申します。栄山江流域の前方後円墳、とても気になります! よくぞ取り上げてくださいました。
 日韓の古代に、どちらがどちらへ侵出したとかを論じる以前に、そういうものが存在すると、まずみんなで認識しなきゃいけないです。考古学の専門家が、「一般人に教えると騒がしくなるから隠しておこう」と、沈黙したりコソコソやったりするから、現在にまで闇を引きずって、高松塚古墳みたいな問題を起こす体質ができたのだと思います。(古代史ファンの皆様、そうお思いになりませんか?)
 さて、以下はタツの推理の一部ですが、雄略期に来日した百済王族の子や孫が、紀ノ川から葛城地方を狙っていたけれど、継体擁立と欽明誕生で日本に居場所を失ない、彼らを支援していた紀ノ川流域の日本人を伴って韓国に戻ったものの、日本への未練が残って、日本式の墓にしたのではないかと考えます。
 彼らの未練は後の時代にも影響して、政治的混乱を招いたこともあったでしょう。紀ノ川の上流、奈良県の五条市の「栄山寺」が、栄山江と関係あるんじゃないかと気になっています。

投稿者 高塚タツ : 2008年10月25日 11:50

答えは簡単。日本の古墳の方が古く 新しいのが朝鮮半島にあるのは 半島南部が日本の影響下にあったからでしょう。
後に任那日本府 とか半島へ援軍を送っている事からも 日本の方が 半島南部に強い影響力~支配下に置いていたからでしょう。

投稿者 トーリスガーリ : 2008年10月26日 21:52

ということは、韓国ドラマ『海神(ヘシン)』に出てくる「清海鎮」は、日本側から見ると、任那日本府の復活だったのでしょう。

投稿者 高塚タツ : 2008年10月27日 23:06

高塚タツさん、トーリスガーリさんこんばんは!コメントありがとうございます。コメントバック遅くなり失礼しました。また高塚タツさん、ブログより引用させていただきまして改めて感謝します。
>日韓の古代に、どちらがどちらへ侵出したとかを論じる以前に、そういうものが存在すると、まずみんなで認識しなきゃいけないです。(高塚タツさん)
仰るとおりですね!私はこのブログと通して只今考古学勉強中!ってところでまだまだ知らないことが多すぎるのですが、まずはそのような事実収集が必要だと感じています。
>さて、以下はタツの推理の一部ですが、雄略期に来日した百済王族の子や孫が、紀ノ川から葛城地方を狙っていたけれど、(高塚タツさん)
とありますが、何故、百済王族の子や孫が来日したのでしょうか?日本への侵略ではなく、朝鮮半島の戦乱により祖国を追いやられ、日本に逃げてきたとは考えられませんか?と考えると・・・
>継体擁立と欽明誕生で日本に居場所を失ない、彼らを支援していた紀ノ川流域の日本人を伴って韓国に戻ったものの、日本への未練が残って、日本式の墓にしたのではないかと考えます。(高塚タツさん)
日本に居場所を失ったのではなく、祖国奪還の為、韓国に戻った・・・とは考えられないでしょうか?古墳は奪還の印(日本の文化では古墳は支配者の証だった)として祖国に残したとは考えられないでしょうか?

投稿者 mrran : 2008年10月30日 20:00

 mrranさん、ご丁寧なご対応、おそれいります。申し遅れましたが、わたくしは、『源氏物語』の明石巻の謎から始めて、播磨朝の記事を「日本紀の局」の紫式部がどのように解釈したかという問題に取り組み、播磨朝の前後の雄略期と継体期にもストーリーを広げるようになった者です。
 百済王族の来日目的についての鋭いご質問。よくぞ聞いてくださいました。『日本書紀』によると、雄略期初め、池津媛という百済女性が日本にいて、雄略から求婚されたのに、石川楯と結婚したので、暴君の雄略が夫婦を残酷に処刑しました。これに百済王が怒り、「日本には、もう女は送らない」と云って、替わりに王弟の昆支王が来日しました。
 このことから、当時の百済王族が、日本でなんらかの事業経営をしていた可能性はあります。おそらく、材木か海産物の配送業といったところで、百済に産物を送るのが目的で、日本国内においては天皇に従属の礼をとっていたはずです。
 ところが、男性王族が来日すると、日本の豪族の娘と結婚して子どもが生まれ、事業を拡大し、土地所有欲も発生します。おりしも、百済本国は高句麗に圧迫されて滅びかけ、天皇家は雄略の跡継ぎの清寧が虚弱で皇統の危機です。
 この時期、百済から日本に逃げてきた人たちは、かれらの意識としては日本を植民地にできる好機が訪れたわけです。ここで生じたトラブルの解決に、巨勢氏は、調停役として高い評価を得る働きをしたのであろうと考えます。
 栄山江流域の前方後円墳の埋葬者について、とりあえず思いつきです。もっと情報が欲しいのです。インターネットで検索していると、現地へ行かれた方の報告もあるので、これから勉強させていただきます。
 mrranさん、トーリスガーリさん、たいへんいいご指摘をいただきまして、まことにありがとうございました。

投稿者 高塚タツ : 2008年10月31日 19:21

高塚タツさま、
命からがら日本へ逃亡して来た百済人が意識
の上では日本を植民地にする好機と見ていた
のですか?シュールで何かアメリカ漫画のラ
ボラットみたい。実験室の檻の中で体中を針
やチューブに纏われたネズミ同士が毎朝、隣の
檻に向かって同じ会話をかわします。「同胞
よ、今日は何すんの?」「同じ事をする積もり
だ。世界を征服するのだ。」

投稿者 笑韓姫 : 2008年11月3日 07:54

笑韓姫さん
これまた鋭いご指摘。さすがでございますね。
ラボラットのこと、はじめて教えていただきました。
怨霊信仰とは、まさに、そのネズミの妄想が現実に
なる恐怖ではなかろうかと考えます。
インカ帝国は野蛮なスペイン人に滅ぼされ、
イギリスから追われた人々がアメリカを植民地に
しました。
ネズミが媒介したお笑い病原菌が、ヤマト盆地に
蔓延したかもしれないので、油断はできません。
なんのこっちゃ?

投稿者 高塚タツ : 2008年11月3日 15:29

mrranさん
茶化してしまって、ごめんなさい。
タツは、「雄略期に来日した百済王族の子や孫」と
書きましたが、「子や孫」が、日本女性から生まれ、
母方で育てられた可能性に気づきました。
日本人として育ったのに、
百済王族の男系男子DNAを持っていたがために、
半島から逃げてきた人たちの旗印となり、
日本から出されたのではないかと。

投稿者 高塚タツ : 2008年11月12日 13:47

初めまして、皆さん。
私も、高塚タツさんと似たような感想を持っています。民俗学などを少し学んだ程度の私ですが、その民族性というのは、千年、二千年では変わらないものだと私は思います。私の知っている朝鮮人を観察していて、蘇我入鹿が政治力を持っていたのとか、あるいは権謀術数が得意な余り、警戒心で包囲され、ついには暴力的対立に行ってしまう傾向が強いのではないかと。それは民族性というより地政学的な条件を反映した行動パターンかも知れません。それは和の国には受け入れられるはずもない。

投稿者 163 : 2009年8月14日 14:10

163さん、こちらこそ初めまして。
わたくし高塚タツは、じつは会員ではないのですが、この記事にコメントしたのをきっかけに、会員の皆さんの発表から勉強させていただきました。
163さんの知っておられる朝鮮の方々というのは、在日でしょうか? 自分も、付き合いにくい人にむかし出会ったことはありますが、尊敬できる方も知っています。個人はともかく、半島がいまだに統一できないのは事実で、そのストレスを日本人の歴史観に向けたがる傾向は認められるでしょう。
棚上げにされてきた「任那問題」が、NHKでも取り上げられるようになって、光明が射してきたところです。(また暗闇に戻るかもしれないけど…)
さて、そもそものきっかけになったのはmrranさんの上の投稿で、大倭穴友会さんの記事ですが、ちょっぴり学習を進めて読み返しますと、「任那四県割譲のときに巨勢氏はいかなる働きをしたのか?」が問題の焦点にあるのではないかと気づいた次第です。
2009年7月6日のカナさんの「地形で見る古代史~奈良って川がたくさん!」の力作地図のなかの巨勢氏の位置を確認すると、わかりやすいかと思います。奈良のそのエリアで活動していたときに培った技術ノウハウを、半島のどこかの場所に移転させたのではないか???
163さんは民俗学をなさったのなら、御霊信仰のメッカの五条市から楠正成の金剛山、それが幕末の天誅組にまで響いていることにお気づきでしょう。韓国に行ったことはありませんが、光州という都市で、かの国の人々を悩ました事件のあったことは知っています。
千年、二千年では変わらないもの、わたくしもそれに取り憑かれた人間です。

投稿者 タツ : 2009年8月16日 21:10

中国の正史『隋書』
「新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。」(新羅や百済は皆、倭は大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。)
「敬仰」という言葉は従属に近い意味をもっています。つまり新羅や百済は日本の属国だと中国は認めていました。
中国が日本を大国とよんでいたのは驚きですね。
広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢。
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
(百済と新羅は高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。)
三国史記 百済本紀
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。
つまり、日本へ来たのは人質としてですね。
百済が人質を送るのは、対等な関係でないからですよね~。
こういう史書を日本と朝鮮の学者がスルーするのは何故でしょうかね???????

投稿者 なん : 2011年5月6日 08:57

哀号!漢字が読めないので意味が理解できないからです。

投稿者 韓流ファン : 2012年10月2日 00:03

哀号!漢字が読めないので意味が理解できないからです。

投稿者 韓流ファン : 2012年10月2日 00:03

哀号!漢字が読めないので意味が理解できないからです。

投稿者 韓流ファン : 2012年10月2日 00:03

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