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2009年11月02日

日本の官僚制の歴史(1)~科挙が根付かなかった日本

こんにちわ。tanoです。
前回(10月28日)に掲載しました記事は一部内容に不手際がありましたので改めて再掲載させていただきます。
日本の官僚制の歴史は今回を含めて古代~現代まで3度に分けて投稿させていただきます。
今回は古代の官僚制の始まりから見ていきたいと思います。

日本の律令制や仏教の導入は百済・隋・唐に倣ったものであるが、本格的に科挙はとりいれていない。なぜ科挙を取り入れなかったのか?また科挙を取り入れなかった日本がその後どのように官僚制を維持していったのか、古代から今日に至るまでの史実を追いかけてみたい。
まずは日本での官僚制の大きな流れを押さえておきたい。
%E5%94%90%E5%9C%B0%E5%9B%B3.jpg8世紀東アジア勢力図
日本の律令制は大国唐に対抗すべく、中央集権化を急ぐ必要性から7世紀初頭から着手し始め、8世紀中頃には大宝律令―養老律令としてわずか100年足らずで完成した。官僚制もそれに併せて整備され旧くは蘇我氏の時代から始まった官僚制度は奈良時代には省庁の体制確立、官僚数1万人を有する官僚国家にまで成長する。
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唐に対して示威する為、中身よりまずはその体制と物量が必要で当初の律令制とはひたすら体裁を整える為の対外的な国家事業であった。その為、中央・地方の豪族了解の下に進めていく必要があり、律令制は既存の勢力を温存させる中で作られていった。
一方、律令制の主幹として導入された全国土を公地とする班田制や戸籍制という土地制度であるが、結果的には定着せず、代わって荘園制度として地方豪族の私有が認められていく。
位階制度についても形式上は地方豪族の階位を制度が変わるたびに上下させたが、中央有力豪族の位置は揺ぎ無く、世襲制度を解体させる制度にはなりえなかった。

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8世紀中頃から唐の侵略圧力が弱まると、同時に側構造であった律令制も瓦解していく。8世紀半ばから幕府登場までの12世紀末までの350年間はいわば一旦のみこんだ中国の律令制度を日本風に租借・改編する絶好の期間でもあり、さまざまな制度が試行錯誤された期間でもあった。
この間の歴史年表を図解化しました。⇒日本の官僚制の歴史~(律令制から幕府の登場まで)

【科挙が根付かなかった日本】
律令制導入時に日本は科挙を取り入れなかった。中国の場合の科挙の特徴を先の投稿で「設立時には既得権益を持った旧貴族階級を追い出す為」と書いたが、日本の場合は上記で示したように律令制設立時にはむしろ旧豪族の力を結集する必要があり、既得権益を保障する必要はあっても追い出す必要はなかった。
一方、日本でも科挙はまったくなかったわけではない。史実を見れば科挙を取り入れていた時期もあった。むしろ科挙は取り入れたが根付かなかったという方が正確かもしれない。
日本で奈良時代にさかんに行われた大学寮という官僚育成機関は注目される。律令制の始まりは一握りの優秀な人材より、多くの読み書きそろばんができる行政マンが必要だった。当然大学寮の内部でも試験は行われたが、科挙のようにふるい落とす為の試験ではなく、官僚として登用する為の能力判定試験の色彩が強い。大学寮は824年まで継続されるが廃止される。
⇒参考 ウィキペディア 大学寮
科挙に近い試験制度も行われている。菅原道真という優秀な右大臣は中流貴族出身だが、当時の試験制度=対策(献策、文章得業生試、方略試に合格して登用されている。この試験制度はほぼ科挙制度に準拠し、700年代~937年の200年間で約70人の英才を送り出している。しかし道真執政が藤原氏への反発を買い道真は左遷、この制度も廃止され科挙制度の日本への定着はなされなかった。
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この制度の成立の背景には当時絶対的な為政者であった藤原氏への朝廷内の反発があったようで、藤原反対勢力である聖武天皇の時代から始まったとされている。日本での科挙はいわば藤原支配を切り崩す手法として取り入れられたと見るべきかもしれない。
参考~ウィキペディア 対策町人思案橋クイズ 菅原道真
【幕藩体制ゆえに科挙は必要なかった?】
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一方、廃止後長らく科挙が再開されなかった背景には、幕藩体制というわが国独自の体制がある
中国では科挙は文民政治を実践する為にあった。いつ叛乱を起こすかわからない武官をいかに優秀な文官が統治するか、その為の多くの官僚機構が作られたのが科挙を中軸に据えた唐―宋の国家体制である。日本の場合、武士の台頭から幕藩体制に代わることで、文官―武官という区分けがなくなった。武士社会とは例え事務職を担う勘定所であっても形式上は刀を持ち、武官を兼ねた。その意味では幕府により統治された日本は武官が優位に立つ一方で武官を統治する為の文官を作る制度(=科挙)を必要としなかったとも考えられる。
科挙は根付かなかったものの、立法、司法、警護の官僚組織は武士社会を通じて成長していく。官僚の形成過程は古代中国社会でも見てきたように強い外圧状況の中、中央集権化の必要性が働き、その為の常備軍の維持、徴税や支配の前線部隊として必要不可欠な存在であると思われる。官僚とは究極的には軍事の為の組織であるとも見てとれる。
古代の日本の官僚は唐という外圧を途中で失う事で中央集権の意欲を失い、狭い朝廷の中での権力闘争に終始し空中分解し、武家にとって代わられた。
その後の武士を中心とた幕府は以降700年間を為政する。日本の官僚史を見ていく上で武官を上位においた中世の政治社会は中国とは別の様相を呈してくる。
日本における中世の官僚とはどのような役割を果たしたのか?
次回は幕府という組織における官僚を完成形である江戸の社会から見ていきたいと思います。
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投稿者 tano : 2009年11月02日 List  

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コメント

>アイヌにとってのカムイ(神)とは、単に畏れ、崇い、従属するだけの存在ではなく、人間と対等であり、対話をなし得るパートナーとして存在するものでした。
アイヌの信仰を一番表している部分がここだと思いました。
アイヌの神は自然そのものです。
なぜ神を対等としたのか、それは自然と対話し、自然を理解し自然の中で生きていく為に導かれたまさに精霊信仰の真髄だと思います。
よく同化という言葉が使われますが、相手に同化する時に必要なのが”対等”という位置なのかもしれませんね。

投稿者 ken : 2010年1月12日 19:15

自然と対峙し、自然や四季のうつりかわりや、人を含めた生き物の生死などを直視しているからこそ、再生という自然観が生まれてきたように感じました。物の使い捨てが当たり前になり、生命の息吹に鈍感になった現代人にも、よみがえらせたい概念だと思います。
次回のクライマックスが楽しみです。

投稿者 昆布 : 2010年1月12日 19:29

>kenさん
コメントありがとうございます☆
>よく同化という言葉が使われますが、相手に同化する時に必要なのが”対等”という位置なのかもしれませんね。
その通りですね!
対等というよりは同化対象といったほうが良いかもしれません。アイヌにとって全ては同じであり一体である=同化対象だったのだと思います。

投稿者 みっちー : 2010年1月12日 23:43

>昆布さん
コメントありがとうございます☆
>物の使い捨てが当たり前になり、生命の息吹に鈍感になった現代人にも、よみがえらせたい概念だと思います。次回のクライマックスが楽しみです。
ハイ♪楽しみにしていて下さいね!!
私達現代人がアイヌ民族から学ぶことは、本当にたくさんあります。自然観などは、かなり鈍感になっていると感じてしまいますね(*^^*)

投稿者 みっちー : 2010年1月12日 23:49

アイヌの信仰は大変興味深い分野です。
楽しく拝見させていただきました。
ただ、「集団の秩序」と「再生の概念」の繋がりがいまいちわかりませんでした。
どう繋がっているのか?例なども用いながら、もう少し解説いただけませんでしょうか?

投稿者 木学 : 2010年1月13日 15:34

>木学さん
コメントありがとうございます☆
>ただ、「集団の秩序」と「再生の概念」の繋がりがいまいちわかりませんでした。どう繋がっているのか?例なども用いながら、もう少し解説いただけませんでしょうか?
拙いながらも、少し具体的な例を紹介しながら考えてみます。
アイヌがサケやマスなど貴重な食料を得ていた「川」は、サケやマスに姿を変えた神を送る=再生の場そのものです。(例えばマスは『神の魚(カムイ・チェプ)』と呼ぶそうです。)
アイヌはそんな大切な川を女性に見立てて呼んでいます。
>川の中流を「ペッ・ラントム(pet-rantom 川の胸)、川口を「ォ」(o 陰部)とよぶ。(るいネットより引用(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=105335))
女性は、その同化能力の高さから子育てや集団内の仲を取り持ったりと集団の秩序を守っていくためにも欠かせない存在です。
そんな女性を信仰の根幹である『再生』の場と同一視することでとても大切なものとして扱い、その期待(想い)に応合した女性が集団の秩序を守っていくという関係になっていたと推察できます。

投稿者 みっちー : 2010年1月20日 00:07

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