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2006年11月02日

吉野ヶ里は漢人の日本侵略拠点ではないか

はじめまして 😀 、くまなです。よろしくお願いします。
ブログ「新しい日本の歴史」の内容を紹介します。
当該ブログの論説では、弥生時代を、日本国内での漢人(中国)と天皇(朝鮮)の対立抗争の時代という構図で描いています。その中で、吉野ヶ里遺跡は、日本における漢人(中国)の拠点と位置づけておられます。
【論旨】
漢人(中国系)は、吉野ヶ里を拠点に絹(主に秩父から)の集荷と輸出を行い、九州南部(熊襲:漢人系か?)との協力関係も築いていた。一方、朝鮮人(天皇系)は、九州北部に拠点をもち、吉野ヶ里の包囲網として周辺に神明宮(祭祀:天照大御神)を数多く配置する。とくに漢人と熊襲との結びつきを断つために天草周辺には多く配置し、苗族を入植させた。遠賀川流域の岡田宮を拠点に吉野ヶ里を攻撃した。
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参考に、吉野ヶ里遺跡の見取り図です
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(以下引用)
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吉野ヶ里遺跡だけではなく、その周辺の遺跡の殆どが、漢人のものである可能性大です。それをすべて書きますと、私の資料が不足しているのと、全体の流れが横へそれますので、吉野ヶ里遺跡に絞りたいと思います。
① 現地を訪れたときに疑問に思ったこと。集落内にあまり田が無かったことです。
どれぐらいの人口があったか判りません。この集落は長い年月使用されたものですから、お墓が多いことは予想されますが、一万は優に超えるらしいです。発掘はごく一部始まった所ですから、今後、いくらに増えるかわかりません。人口は多かったと思われるのに、田が少ないということは、どのように考えたらいいのでしょうか?いろいろ考えることが出来ますが、外部から導入したのではないでしょうか? 根拠はありませんが、例えば熊襲との交流があったのではないでしょうか? 熊襲とは、どのような人種かわかりませんが、あまり言葉はよくありません。私はこれも漢人ではないかと考えています。熊のように大柄で、衣を着た漢人(龍)ではないでしょうか? 吉野ヶ里遺跡の人から、絹を受け取って食べ物を供給していたのではないでしょうか? 
② 神武は吉野ヶ里を攻めるにあたって、三つのことをしました。
まず、豊国の宇佐にいき、宇沙都比古と宇沙都比売に会いに行きました。(目的不明)、次に、熊襲との交流を分断するために、天草を近郊に、苗族を入植させました。次に、先祖が築いておいてくれた遠賀川流域に、岡田宮を作りここを拠点にして吉野ヶ里を攻撃しました。
 邇々芸命が伯耆国に天下った理由が、吉野ヶ里と出雲、吉野ヶ里と丹波を分断するためですから、その一つの政略として、遠賀川流域に苗族を入植させました。その証拠として、遠賀川流域には、天孫族を祭った神社が残っています。
馬見神社--嘉穂郡嘉穂町馬見--祭神--邇々岐命、木之花佐久夜比売外
荒穂神社--嘉穂郡大隈町牛隈--祭神--邇々杵命
英彦山神社-田川郡添田町英彦山-祭神--正哉吾勝々速日天忍穂耳尊
高倉神社--遠賀郡岡垣村----祭神--尼照皇大神外
多賀神社--嘉穂郡穎田町勢田--祭神--イザナギ、イザナミ
稲荷神社--田川郡金田町----祭神--イザナギ外
上の地名の中にも、田の字がつくのがあり遠賀川流域の直方平野の主だった村の名前にも田がついていて苗族が入植した形跡が見られます。
(中略)
この辺りは天照大御神を祭った神明宮が多数見つかります。関東の秩父の絹を吉野ヶ里に運んでいた漢人を分断することが目的であったと思われます。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2005-08-07
***
神武天皇が、三番目にしたことは、天草の辺りに苗族を入植させることでした。皇紀2600年(昭和15年)の記念として、いろいろのことが企画実行されました。その内の一つに、神武天皇が祭られている神社の調査があります。
熊本70、福岡16、鹿児島15、佐賀5、大分9、宮崎15、広島37、岡山32、鳥取7 の各社の存在が判りました。佐賀と鳥取県を除いて件数の多い県だけを表示しました。もっとも多い熊本県の70社の内、44社が天草郡にあります。熊本県は肥後国ですが、式内社は4社しかありません。式内社は由緒正しい、古い神社ということになっています。確かに延喜式に掲載されている古い、由緒があるのは確かですが、天照大御神を祀っている神社は殆どありません。
ということは、天照大御神に対して敵対の気持ちがある人たちが式内社に定めた神社です。その数が少ないということは、熊本は天皇系の勢力が強い国であることが判ります。何故強いかといいますと、神武天皇を祀った神社がとび抜けて多いことで判ります。
しかも、天草郡だけで44社ですから、神武天皇が意図的に、苗族の人たちを入植させたことになります。朝鮮から直接九州に来るためには、相当大きな船でエネルギーを使ってはじめてくることが出来ますが、中国の福建省あたりから来ますと、ゴムボートを使って3、4日で到達可能です。
それに比して、隣の佐賀県は僅か5社です。例えば5社の創建をしらべますと、古いものはゼロかもしれません。ここは、吉野ヶ里から中国へ絹を運ぶときの主要港であったはずですから、神武の者とて近寄ることが出来なかったと思います。
式内社は4社です。これは非常に少ないことになります。式内社が制定されたときは、漢人の勢力が無かったことになります。神武天皇は東征する前は、伯耆国にいましたから、当然、一番多くてもいいはずですが、僅か7件です。
神武天皇が伯耆に居たことは、極力書きたくなかった日本書紀の作者は、神武を祭る神社を抹殺し、辛うじて他の神社に合祀されています。日本書紀を書いた人と式内社を制定した者は同一の人間ということになります。その中心人物は藤原不比等ということになりますが、このようなスケールの大きいことは一人の力ではできませんから、多くの漢人がしたのは間違いないでしょう。
福岡はもともと天皇の勢力のあったところです。広島、岡山は、東征のときに7~8年駐留したところです。苗族を入植させて、米が収穫できるようになるまで、最低3年はかかります。このように神社の分布を見るだけで、神武天皇がどのように動いたか説明することが出来ます。
福岡県の神社誌を使って、もっと詳細に眺めますと神武天皇が九州に出かける前に、天孫族の人が、どのように動いたか知ることが出来ます。神武天皇は、吉野ヶ里を攻めるときに、吉野ヶ里から中国へ行く漢人を天草で封鎖し、又、熊襲との交流も妨害しました。神武軍の主流は遠賀川から攻撃したと思われます。この時、ユダヤ人が援護した証拠が地名に残っています。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2005-08-15
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(引用終わり)
苗族:http://www.china.org.cn/ri-shaoshu/miao.htm

投稿者 kumana : 2006年11月02日 List  

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