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2007年02月05日

中国文明~手掛かりとなる史料

今晩は、さーねです 😛 Blog Ranking にほんブログ村 歴史ブログへ
中国文明では、様々な史料の名前がありますが、どうも今までどんなものかがわかりませんでした^^;
今日は、中国文明解明のカギとなりそうな歴史書を紹介します。
『ト辞』ボクジと読みます。
『国語』普通に読んでください。
『春秋』これも普通に。
『晏子春秋』アンシシュンジュウと読みます。
『史記』これは有名ですねー⇒司○○さんの著ですね
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ト辞:獣骨に刻まれた甲骨文字
今日参考にしたのは、中国歴史奇貨居くべしさんと世界史小事典(山川出版社)です。
中国歴史奇貨居くべし によれば、歴史書の他に、思想書・兵書・文学書(伝説)等があるようです。こっちもぜひ参考に

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●ト辞(ボクジ)商王朝時代
>甲骨文字。殷墟出土の亀甲獣骨に刻まれた文字が、占ト(センボク)を主体とするためこうよぶ。ト辞は現在5期に区分され、記事内容は殷王に関する祭祀・祈年・風雨・旬夕・田猟・旅行・征伐・疾病などの(うらない)で、殷代研究の基本的な資料である。(※世界史小辞典(山川出版社)より)
商王朝時代を解明する上で重要で唯一の史料かもしれません。祭政一致の社会を示す貴重な史料です。
●国語(コクゴ)B.C.1000年周王朝時代~B.C453年頃までの歴史書
>『国語』は、春秋時代の左丘明の編纂といわれ、周・魯・斉・晋・鄭・楚・呉・越の8国の歴史を記録したもので、B.C.1000頃からB.C.453頃までを範囲としています。
「国」とは国家、「語」は古代の書物の原形であると考えられ、つまり「国語」とは国の書物=歴史であるとされます
つまり周語とは、周の歴史であり、魯語とは魯の歴史ということになります。
『国語』の著者ははっきりしませんが、春秋時代の左丘明であるという説があり、 左丘明が『春秋左氏伝』を編纂していることから『国語』は「春秋外伝」ともいわれるようになりました。ただし、『春秋左氏伝』と『国語』の記述で一致しない箇所が多々あり、 同一人物の著であることに疑問をもつ学者もいます。(中国歴史奇貨居くべしより)
⇒「国」という言葉が明確に出てくる最初の歴史書なんですよね。そう考えると、前の商王朝時代はこのような歴史書がなかった=「国」という意識は人々の中にまだなかったのでしょうか
●春秋(シュンジュウ):B.C.722~B.C481までの歴史書
春秋左氏伝(+春秋公羊伝,春秋穀梁伝)
>五経の一つ。春秋時代の魯の年代記。孔子の整理編集と伝えられる。隠公元年(前722)から哀公14年(前481)までの簡単な記録であるが、その中にある孔子の言外の批判を探ろうとする解釈(伝)が後に発生した。公羊伝・穀梁伝・左氏伝の春秋三伝のうち、公羊伝はもっとも春秋の真意を伝えるとして、漢代に盛行した。これに対して、左氏伝は事実をもっと多く詳細に伝え、後漢以後ひろまった。(※世界史小辞典(山川出版社)より)
⇒中国文明を解明する上で、孔子=儒教は必須かなと。この中でも、左氏伝が最も詳細であるとされています。
●晏子春秋(アンシシュンジュウ)B.C.430年頃?戦国時代?~B.C.221年頃?までの歴史書
>春秋時代斉の宰相晏嬰の書。
晏子春秋は内篇(六篇)と外篇(ニ篇)とからなり、およそ250章に分かれる。晏嬰の政治についてのエピソードが書かれています。
「春秋」と名づけてありますが、普通春秋とは年月を記した歴史記述のことに用いますが、晏子春秋には年月の記載がありません。
晏嬰は霊公・荘公・景公に仕え、 執政は50年に及びました。本書はほぼ年代順に記載されているため春秋と名づけられたのでしょう。
しかし、晏嬰死後のことも書かれてあり、晏嬰の自著でないというのが定論になっています。その時代は戦国時代頃といわれています。(中国歴史奇貨居くべしより)
⇒戦国時代の史料は?ということで、これを挙げてみました。
●史記(シキ):中国最初の通史!始まりは前漢時代!(~以降二十四史へと続く)
>前漢司馬遷著。130巻。黄帝いらい武帝まで(前122)を、12本記(歴朝)・10表(年表)・8書(諸制度)・30世家(諸侯)・70列伝(重要人物)に分けて叙述。<strong>この紀伝体は正史の標準となる。武帝期の高揚した統一意識の所産であり、記述は慎重、文は千古の名文で、人物批評に著者の心境を綴っている。もと「太史公書」といい、魏・晋以後「史記」と呼ばれる。(※世界史小辞典(山川出版社)より)
⇒先代の商王朝なども記述もある、最初の通史です。以後、二十四国に渡る歴史書が続いていきます!ただし、ト辞が出土した後、ト辞とこの史記の記述で若干違いがあるそうです
歴史書は、解釈の仕方が大事だと思います。(実際の歴史書を前にして、読んで解釈しろと言われてもたぶんわからないと思いますが…^^;)
最後に、中国歴史奇貨居くべしさんから。
>古典の解釈には注意が必要です。われわれも歴史を見るとき、基準や前提を現在に設定しがちです現在では考えられないようなことをした人物が登場すると、この人物は異常であると批評してしまいます。しかし、その行為は当時はあたり前のことであったかもしれないのです。
全くその通り!その時代の人々に同化して歴史書を追究していきましょう 😉

投稿者 sawatan : 2007年02月05日 List  

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コメント

環濠は以前誰かも投稿されていましたが、濠に水を溜めた程度で防衛能力としては軽微なものだったようです。
それでも盗人や獣に対しては一定の効力はあった。
弥生時代の略奪圧力はまだその段階だったのでしょう。
クニ同士が戦争を始めるようになると環濠のような軽微な防衛では役に立たなくなり、城壁や人による見回りが必要になったのだと思います。さて、古墳時代、環濠に変わる防衛施設とはなんだったのでしょう。目下それを追求中です。

投稿者 tano : 2007年2月15日 22:13

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