官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史1 |
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2009年10月07日
官僚制の起源『氏族連合から官僚制へ』~中国史2
周末期~春秋時代…生産性の向上による氏族連合の崩壊
農具の改良と農耕技術の発達による生産性の向上によって、それまでの氏族単位の農業ではなく、家族の長が主導となる家父長的小農民が可能になっていきます。
このような小農民はそれまでの邑付近の農耕地だけではなく、さらに郊外の地を開墾するようになります。そして、氏族の制限に縛られることなく独立した集団を形成できるようになります。
商周以来の氏族制度は揺らぎはじめ、その規制力は弱まり、封建関係にも変質を生じます。
そして、諸侯は氏族の支配を脱した小農民のために灌漑事業などを行って、これを支配し独自の勢力を築くようになります。
この直接支配によって、より強大な勢力を得ることができるようになり、さらに諸侯は土地と農民を求めて、他の諸侯と争うようになります。
このようにして、周辺部に台頭したこのような大土地所有者、新興勢力は次第に実力を蓄え、次第に周王室の脅威となっていきます。
そして、覇者の諸侯が出現すると相対的に周王の権力は衰えていくようになります。
戦国時代…集権的官僚制国家の萌芽
春秋時代の社会変化は、戦国時代になるとさらに加速し、氏族制度は崩壊してしまいます。
そして、邑を基礎単位とする諸侯国はさらに支配力を強め、領土国家となって他国と鎬をけずりあいながら、専制君主国家を作り上げる過程が戦国時代です。
専制君主国家の特徴は、官僚制と郡県制に集約されます。
項目 | 西周 | 春秋戦国 |
支配者層 | 氏族共同体 | 家父長的君主 |
君臣関係 | 血縁・世襲 | 非血族・非世襲 |
俸給 | 土地 | 土地からの租税 |
奉仕 | 封建的契約による奉仕 | 無制限の奉仕(服従) |
地方支配 | 卿・大夫の支配 | 郡守・県公・県君・令・丞 |
兵士 | 卿・大夫の支配 | 郡守・県公・県君・令・丞 |
賦 | 軍役 | 糧秣・馬匹・甲兵・皮革 |
上表にて西周と春秋戦国を比較しましたが、諸侯の支配範囲・権力が拡大していることが分かると思います。
春秋戦国時代になり略奪闘争が激化すると、農民を直接支配する諸侯は、従来の氏族だけでは兵士が不足するため、一般農民を徴兵することが可能であり、強大な兵力を有するようになります。
そして、さらに略奪闘争を繰り返し、領土国家を形成していきます。
この領土国家では分封制度に代わって郡県制が現れ、封建的君臣秩序に代わって官僚制が君主権を支えること=中央集権的官僚制国家の芽生えです。
『群県制』
県は県治の置かれた大郷とその周辺の郷から、都は都官の置かれた都邑とその周辺の邑(離邑)から構成されており、それぞれ、県嗇夫が県を、長官である官長が都を統括しいます。
そして、県と都は郡の下に配置されており、郡の中心には郡廷が置かれ、長官である郡守がこれを統括しました。
また県と都のほかに「道」という地方行政単位がありますが、これは異民族の居住する邑であり、県・都同様の道官が置かれ、道嗇夫が治めていました。
秦代…集権的官僚制国家の萌芽
秦は全国に郡県制を実施し、ピラミッド型の中央集権体制を確立しました。その体制下では、官僚は秦の皇帝に全面的に服従させられます。
秦は隣接している国や異民族の居住地を征服すると、そこに郡を設置し、その下部組織として複数の県や道でこれを構成しました。
これら新設された郡の法制上の位置づけは「属邦としての臣邦」でした。属邦とは、直接・間接を問わず秦の支配下にある国(土地)のことを指し、臣邦とは、秦が直接支配している国(土地)のことを指します。
つまり秦は、①故秦(元々の秦の地)と属邦を区別し、②さらに属邦の中を臣邦と外臣邦とで区別しました。この外臣邦が秦の直接支配の及ばない国(土地)のことです。
【故秦】 | 元々の秦の地。陝西省渭水流域、涇水以西の地。属邦と対等の区分。 |
【属邦】 | (直接・間接を問わず)秦の支配下にある国(土地)。秦の拡大により新たに秦に編入された土地の総称。故秦と対等の区分 |
【他邦】 | 秦の支配下にない国。他国。 |
【臣邦】 | 秦の一定の支配下にある国(土地)。属邦の一部分。郡が設置され、その下に県・都・道が置かれ、さらに秦の支配下にありながら宗廟社稷を認められた君主の地もあった。 |
秦が異民族の君主を封じて外臣とした国(土地)。属邦の一部分。秦の直接統治は及ばず、秦に臣属している国。 |
なお、戦国時代から秦に掛けて、集権的官僚制国家を形成していきますが、秦代も短命であったことを考えると、集権的官僚制国家の確立は秦の後の漢代からであると思われます。
2回に分けて官僚制に起源について見てきましたが、まとめると
商代から秦代につれ、生産性の向上→領土の拡大=集団規模が拡大し、それに伴って、集団・国の中央機能は氏族連合→封建制→官僚制(武力統合)へと変遷したことが分かります。
では、なぜ官吏登用制度が必要となったのでしょうか?
次回は、官吏登用制度の導入まで背景について、漢代以降の体制上の問題点などの抽出から探っていきたいと思います。
参考サイト | |||||
・ | :「商王朝の制度」 | ||||
:「西周史」 | |||||
:「春秋戦国史-概要-」 | |||||
:「春秋戦国時代の制度」 | |||||
:「県と郡」 | |||||
:「秦の身分制」
・ |
古代中国:神聖政治から王による政治支配へ |
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投稿者 yoriya : 2009年10月07日 TweetList
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コメント
投稿者 鯉太郎 : 2009年12月8日 21:51
>農耕は寒冷期という過酷な自然環境の中で、集団が生き延びるために工夫を重ね生み出されたものだと思う。
狩猟採取生産から農耕生産に移ったのは、女性の定住要求(毎日長い距離を移動するより、定住する方が女性・子供・老人にとって望ましいので、採取→農耕へと進んだ)が主要因とする説があったかと思います。
如何でしょうか?
投稿者 中年 : 2009年12月10日 21:17
>農耕は寒冷期という過酷な自然環境の中で、集団が生き延びるために工夫を重ね生み出されたものだと思う。
私もそう思います。
アメリカ大陸では、9000年前くらいから特定の植物を栽培するようになり、長い品種改良の後に5000年前くらいには、メキシコで現在のトウモロコシに繋がる品種ができています。
乾燥化が進行し動物が激減し、植物に期待を強い期待を掛けた結果ではないか?と考えています。
投稿者 Quetzalcoatl : 2009年12月10日 21:58
>農耕は自然外圧に適応するために必要を迫られて生まれたものである<
いつの時代も生産様式の変化は、それなりに必然性があったわけですね。
ただちょっと違うのは、「あるがままの自然に手を加え、自然の摂理を破壊してゆく」・・・・・。
確かにこのあたりから、対象に同化するのではなく自分の都合に合わせる考え方に繋がっていきそうですね。