馬家畜化の発展には草原が適していた |
メイン
2007年03月17日
商業の発展により、身分制度(士農工商)が強化された
こんばんはetoです。少し間が空きましたね( )
暖かくなってきたことだし、がんばっていきましょう
今日は、中国の勉強をしました。
「士農工商」といえば、江戸時代の身分制で有名ですね。
でもその起源は古く、中国の春秋戦国時代(BC500年頃)にあります。
どのようにして身分制ができたのでしょう?
>中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」を重視されてきた。商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると考えたのである。これを理論化したのが、孔子の儒教である。(ウィキペディア)
時代を追って見ていくと、
●周時代の様子をmaeyanさんが以下のように書かれています。
>この貴族制の確立に伴い、貴族は王族を凌ぐ勢力 を持ち始めます。
>土地経済の発展は、地方豪族の勢力を拡大させ、中央支配の力を弱めていきます。
土地経済の発展により、地方豪族が力を持ち始め、一方で中央支配の力が弱まり、王族は支配の危機感が増大していることが伺えます。
続いて、春秋戦国~漢までの様子を見ていきましょう。
その前に、応援お願いします♪
「文明の周縁」さんより紹介します。
●春秋戦国時代は、
>紀元前400年頃にはじまつた製鉄技術によって、各地で山林藪沢の開拓と囲い込みが行われ、灌漑農耕が展開されるとともに、小型の宗族組織としての家父長制家族が誕生し、そうした家父長制家族を基盤に鉱山資源や玉石財宝を獲得した諸侯が乱立してきたのである
>諸侯国の支配領域では、鉄製農具によって農業生産が高まると同時に地場の手工業も盛んになり、商業活動は地域の境界を越えて広がった。楚・呉・蜀の冶鉄業、斉・燕・晋の製塩業、斉・魯・周の紡績業などはその代表的なものだった。 また国家や豪商の手によつて、刀銭・布銭などの貨幣が鋳造され、諸候国はいかにして商業の利得を獲得して、国家を富強に導くかを競った。
>こうした豪商の活動を抑制するために、商業の国家規制もはかられ、「重農抑商」の措置がとられるようになったが、当時においては商業活動は比較的に自由であった。
●秦の時代になると、商鞅が法治主義を徹底して改革を断行していますが、
B.C.359年の「第一次変法」(法律の改正)では、重農抑商主義として、男子は耕作、女子は紡織すること(農業)を本業とし、商業をする者には奴役をあてることと定めています。(「中国歴史奇貨居くべし」さんより)
●続いて漢の時代になると、
>国内においては秦の軍功爵制を新しい国家的身分制度(漢二十等爵制)に改め、皇帝権力を村落末端の小農民にまで貫徹させ、上は国家の官僚から下は一人の農民にいたるまで、それぞれに身分に応じた爵位を与え、爵位によって土地の保有を許可し、その反面で土地を持たない商人や小作人には爵位が与えられず、土地の保有を許されなかった。
>その結果、春秋戦国期に盛んになってきた商工業は厳重な国家管理のもとにおかれただけでなく、漢の武帝は儒教を国教化し、春秋戦国期以来新たな展開をみせてきた家父長制集団を、国家の手によって官僚-豪族-地主-小農民-小作人の秩序に仕立て上げていったのである。
以上からまとめてみると、
★武力支配
↓
支配者の世襲制(生涯固定の身分制度)
↓
★身分制度・序列(武力支配)からの抜け道として市場(交換取引)が生み出され(るいネット)
↓
商工業の発展
↓
地方豪商の力が増大→国家支配の危機
↓
「重農抑商」政策による商業の国家規制
+
儒教(孔子)による理論化
↓
★身分制度の確立
武力支配からの抜け道として生まれた商業ゆえに、放置すると支配体制自体が脅かされることから(加えて、支配者の富の集中を守るために)、商業を国家管理し、そのために身分制が必要だったという事でしょうか。
投稿者 nishipa : 2007年03月17日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/03/153.html/trackback
コメント
投稿者 Hiroshi : 2007年3月29日 00:06
hiroshiさんレスが遅れてすいません。
難しい質問だったもんで・・・・。
確かにアイヌ人は琉球人と併せて、縄文人と同じ系統だと言われています。当然言語ルーツも同じだと思うのですが、諸説があって未だに決着していないようです。
言語館さんの以下のHPではむしろ縄文語はアイヌ語と近いと述べています。日本語がアイヌ語と異なるのはその後の弥生文化の影響が大きいらしいです。
http://www.dai3gen.net/ainujomo.htm
もう少し調べていきます。 by.tano
投稿者 tano : 2007年4月2日 21:31
レスどうも、ありがとうございます。
う~ん難しいですね。やっぱり縄文語はむしろアイヌ語に引き継がれている、というか残っている可能性が高い。
となると日本語(日本人)の遺伝子は??弥生にカギがある??
投稿者 Hiroshi : 2007年4月2日 23:31
タミル語説ですが、以下の掲示板に結構詳しく日本語と対応させていますが、こういうのはどう評価すべきなんでしょう。素人なのでよくわかりませんが、面白いことは面白い。
http://9102.teacup.com/tsuarat/bbs
投稿者 するめ : 2007年5月9日 07:49
するめさんありがとうございます。
かめばかむほど・・・ですね。
タミル語の評価はまた次回のこのブログの投稿ネタとさせていただきます。ごちそうさまです。
投稿者 tano : 2007年5月13日 00:59
>タミル語の評価はまた次回のこのブログの投稿ネタとさせていただきます。
おっと、次回たのしみにしてます。
投稿者 Hiroshi : 2007年5月13日 14:52
’06,9から 漂って やっとここまで やってきました。
>日本国内のアイヌ語などは日本語とまったく系統的関係がないことが明らかになっている。
これは 金田一京助氏に 起因するようですね。
しかし 梅原猛氏は 「日本の深層」 という著書で
藤村久和氏との出会いで
アイヌ語と日本古代語の「 霊 」に対する言葉は ほとんど同一であり その意味するところもほぼ同じであることを見いだされてます。
それも アイヌ語のほうが 古く・より根源的とか、、
常識も 違和感かんじれば 再検討してみるのも~~
最近 沖縄の右肩上がりのイントネーションに はまってます。。
投稿者 徳田 : 2007年11月3日 20:38
徳田さんコメントありがとうございます。
アイヌの霊と日本古来の霊が同じ言葉を使っていたというのは私も知りませんでした。非常に貴重な資料だと思います。
こういうことではないでしょうか?
言語体系的には別々でもある言語だけは同じ言葉になっている場合、その両者でかなり濃密な交流があった可能性があります。事実、三内丸山では北海道からの黒曜石がたくさん見つかっており、アイヌと東北地方の文化は縄文時代にかなり交流があった可能性があります。
さらに面白いのは、同じというのが霊という言葉だということです。集団の中で最も重要な言葉だけを双方の集団で統一的に使った、これは友好の証であり、単なる文化的交流以上の意味合いがあるように思います。
今後ともよろしくお願いします。
投稿者 tano : 2007年11月4日 15:27
なるほど、古い時代のアジアと太平洋の言語が混交して縄文語が出来上がったのですね。アジア・太平洋の縮図みたいな感じ。
さらに、疑問に思っている点を2つあげてみます。
①本文にもありますが、縄文人の末裔と考えられるアイヌ人の言葉が全く系統が異なるのはなんで?アイヌ語はどの系統?
②日本語の語彙に多く含まれていると考えられるタミル語の影響について。弥生前後にタミル人もやってきた?その後は日本人に同化?
>日本にはオーストロネシア語族(ポリネシア語族の一つか)系の音韻體系(4つの母音)を持つ基層言語があり、そこにタミル語の語彙がかぶさつた。
>そしてタミル語と日本語の中繼地點に朝鮮語があつたのではないかと大野氏は言つてゐる。
(http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/OONO/NihongonoKigen.html)
タミル(南インド)からの影響なんてすごく面白いですね。大胆な仮説がいるのかも。
・・・最近、かの大野大先生も、余りに周りの理解が得られなくて、ギブアップしてるようですが、「100年ぐらいのうちには、私の言っていることが分かる人が出てきてくれる」とも・・・
このブログでも是非突っ込んでいきたいですね。