「次代の可能性をイスラムに学ぶ」5 イスラム世界の拡大(イスラムは変質したのか)~その1 |
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2012年06月30日
「次代の可能性をイスラムに学ぶ」5 イスラム世界の拡大(イスラムは変質したのか)~その2
さて今回は第2段階の拡大を扱っていきます。
第1段階は軍事力を起点にして周辺大国の外圧に対峙していく中で結果として広大な交易網を形成した、その多様な国家、人民の統合の起点にイスラム原理は実に有効に機能したという内容を述べました。
第2段階の拡大もまた外圧から始まります。中東世界でのイスラム帝国消滅という外圧です。
★第2段階の拡大~アジアに広がったイスラムはまさに商圏拡大(13世紀以降)
第2段階のイスラム世界は南アジアから東南アジアに基盤を移していく過程である。中東世界での拡大が閉ざされた13世紀頃からインド、インドネシアにイスラムが拡大していき、その勢いは第1段階と同様にわずか2、3世紀の間に拡大していった。
しかし、第2段階での注目すべき点はその拠点が乾燥地帯ではなく、湿潤地帯であるという事である。それらは明らかに別の勢力、別の思想が介在している事を想起させる。
その中心がこれから説明するスーフィーである。
【スーフィー誕生の状況】
イスラム教は簡単に言えば、金儲け=商業を是としながらもそれを法整備で制御していく体系である。宗教という形をとっているが、実際には規範の体系化である。
イスラム教はムハンマド滅後、巨大帝国の拡大に合わせて複雑化、観念化していき、人々の生活感覚から離反していく。スーフィーはそんな中9世紀に誕生し、より倫理観に焦点を当てた「神との合一、同化」を目指して体感世界の中での体系化を試みていく。それまでのイスラムの根幹である神は絶対であり、神の言葉を伝えたムハンマドは絶対、さらにそれを文章化したコーランは絶対であるという考え方に反するもので、度々スーフィズムは迫害を受けたが、12世紀に社会的に認知され、スーフィー教団が生まれた。
このスーフィー(神秘的イスラム主義)の誕生がその後の東南アジアへの拡大に繋がっていく。東南アジアやインドは多神教の世界で、偶像崇拝や共同体を母体とする体感共認に基づいている。スーフィーは「聖者」という立場を作り、病気を治したり、金儲けに御利益をもたらしたり、恋愛問題に答えたりと、俗世界での願いを受けて様々な聖者が生み出され信仰されていく。スーフィー誕生後のイスラムは民衆にとって非人格的な超越的な神ではなくて、人格的で恩寵に満ちた神として現れてくるのである。
イスラム教はこの時点で明らかに変質してきていた。
【東南アジア拡大の目的は胡椒に代表される生産拠点である】
イスラムは11世紀以降インド西岸グシャラート地域を拠点として東西貿易を継続していた。
グジャラートの位置
13世紀のイスラムの危機に際し、あたらな拠点としてインドを選び、宣教に専念していた。当時のグジャラート商人はスーフィーに属しており、彼らが呪術的、神秘的な世界観でまずはインドの拠点にイスラム教を広げていく。
インドネシアは今日では95%がイスラム教の世界最大規模のイスラム圏である。このインドネシアへのイスラム布教は13世紀に始まるが、その起源はインドにあると言われている。インドから胡椒を持ち込みスマトラ島に移植、合わせて住民をイスラム教に改宗させ、東南アジアの貿易大国マラッカ王国を建国した。
マラッカ王国
インドネシアの住民が当時信仰していたヒンズー教や密教(仏教)の一派と間違えて信仰したのではないかといわれているくらいスーフィズムによるイスラムは軟化し、地場宗教を取り込んで改変されていった。
このイスラム以外の思考法や哲学体系、儀式などをイスラムの教えと上手に混合して残す(悪く言えば詭弁的、あるいは密教的な)スーフィーの手法は、やがてイスラム勢力がインドに攻め込み、ヒンズー教のインド人をイスラムに改宗しようとするときに実に役立った。
【スーフィー手法はイスラムを簡便化し、拡大する事にあった】
スーフィ教団の人々はヒンズー教の社会で認められていない貧しい人々、下層カーストの居住地域でイスラム教を布教し、その際にヒンズー教の哲学や儀式を残しつつ、人々がイスラムを信仰できるように、インドでのイスラム教のありかたを柔軟に設定した。
クルアーンを暗誦し、モスクで礼拝し、豚肉は食べず、一生に一度はメッカに巡礼、女性へはジャブをする。これくらいやれば立派なイスラム教徒である。残りの部分は、イスラム以前の思考や生活体系が残っていてもよい。いったんイスラムに改宗すれば、しだいに人々は以前の信仰を離れ、イスラム的になっていく。このようにスーフィーは宗教的寛容性、柔軟性を武器に布教拡大していった。現在のイスラム教徒の半分以上はこのスーフィー布教の結果と言われ、今日では中国やアフリカにも広がっている。
まとめ
イスラムの東アジア進出はイスラム帝国消滅と期が同一。中東を追われたムスリム商人のあたらな商圏獲得の拠点としてインド、インドネシアが選択された。
その際に用いられたのがスーフィーという手法。スーフィーとはイスラム以外の思考法や哲学体系、儀式などをイスラムの教えと上手に混合して残す手法で、神秘的イスラム主義とも言われている。12世紀に確立したスーフィーニズムはイスラムを他地域に広げるために有効で柔軟な思想であった。そしてそれがその後のイスラム(商圏)拡大のプロトタイプとなっていった。
【考察:イスラムの拡大とは何か、第1段階と第2段階は別物なのか?】
前記事と併せて見てきた史実を材料に、イスラムの拡大について考えてみたいと思います。
イスラムはムハンマドが商人であったことも含めて、布教拡大の直接の目的は商圏の拡大です。実際、前半期のイスラム帝国拡大によって世界で始めて東西の交易網を一国で形成しました。さらに後半期のアジア拡大に至っては、胡椒と言う当時最大の交易の生産拠点を拡大する事で東西交易を優位に進めていきます。
これら大きな歴史の流れを見るだけでもイスラムとは明らかに商売の為の宗教である事は明らかだと言えます。
大きく捉えれば最初の拡大が商人そのものの交易ルートの拡大であり、後者はその商人が交易物資である生産拠点を押さえる為の縄張り拡大です。
一方で、イスラムの注目すべき点は、商売を継続的にする事がイスラムの最大の課題であり、大もうけをする事ではないという事です。
喜捨の制度や利子を認めないイスラム銀行のシステムに代表されます。
なぜならば、彼らが数世紀かけて作り上げたコーランや商売の為の規範群はいずれも商売の秩序を作り、それによって社会が統合される事を求めていました。
言い換えれば商売を生業にして民族が永続するには拡大し、その社会をしっかり統合する必要があったのです。これがまさにムハンマドが求めたイスラムの原点であり、最初に見抜いていた私権社会の負の部分だと思います。
商売という最も私権的性質が強い生産を中心においた民族であるが故に、それと対峙しコントロールする事で生き残る事を求めたのです。だからイスラムとは商売でありながら秩序やルールを最も重んじたのでしょう。イスラムに学ぶという点があるとすれば、私権社会の産物ではありますが、自我を制御し秩序を重んじる厳しい集団共認にあると言えるでしょう。
これは次々回に扱うイスラムの可能性と限界で再度触れていきたいと思います。
さて、次回はもう一つのイスラム世界、オスマントルコを見ていきたいと思います。
これは第3段階というより、別の拡大原理が見えてきます。キーワードはイスラム発ではないイスラムです。お楽しみに!
投稿者 tano : 2012年06月30日 TweetList
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コメント
投稿者 2310 : 2013年6月11日 00:01
母系万世一系・・・
古代豪族のつながりが、この母系婚姻をベースとして形成されていったということがよく分かりました。男系でおっていけば、明らかに、欠史八代、崇神、応神、継体、天武、天智他と皇統が断絶しているのは、わかっていましたが、葛城系統の母方でつながっていたといいうのは明快です。だから、争いもすくなかったのだろうと思います。父系であれば、支配し力の原理で統合せざるを得ないでしょう。母方の血縁関係でつながっていることで、同類闘争を止揚できたのだろうと思います。