日本の風土が蘇生させた仏教文化~和辻哲郎「古寺巡礼」より |
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2009年02月18日
半島への仏教伝来
韓国はもちろん、日本にも大きな影響を与えた仏教は何時頃、半島に伝わったのでしょうか?
今回は、高句麗・百済・新羅への仏教伝来の状況をまとめてみたいと思います。
三国の仏教の受け入《引用・抜粋》
【三国の仏教受容関連年表】
372年 高句麗に中国の前秦から仏教伝来
384年 百済に晋より仏教伝来(摩羅難陀の到来)
527年 新羅、仏教を公認(異次頓の殉教)
6世紀末~7世紀前半 渡来人系僧侶(行基、慧慈)、仏師(鞍作鳥)らが大和で活躍
「三国史記」によると、高句麗は375年に仏教を公認したとあります。中国の東晋の影響が大きかったといわれていますが、その以前から仏教は入っていたとみられます。百済は384年に東晋の僧侶である魔羅難陀(マラナンタ)が仏教を伝えたといわれます。新羅は仏教公認に至るまでいろいろな余曲折を経て、かなり後の時期である6世紀の前半に公認されたと記されています。
しかし実際は高句麗にはもっと早い時期に伝わったと見られます。4世紀半ばに作られた高句麗の墓からはハスの花の模様も発見されています。高句麗の領土になった今の中国の遼東地域には、既に1世紀ごろには仏教が伝わっていました。高句麗の人々はかなり早い時期から仏教を知っていたと思われます。
高句麗の小獣林王が仏教を公認したのは政治的な必要性によるものと考えられます。社会体制の再整備のための精神的な統合の重心的な役割を仏教に求めたのでしょう。その後、中国から留学僧が帰国したり、あちこちに寺を建てます。今の平壌にあった都の中に寺が9つも建てられたといわれています。
百済では、西暦526年にインドに留学した謙益という僧侶が持ち帰った仏教の経典を翻訳したり、聖王の時には日本の大和に経典と仏像を伝えています。中でも日本に仏教が伝わったのは重要な意味を持ちます。仏教が各地に散っていた皇族集団を中央集権的な律令国家に改革する理念的な装置になったからです。
このように高句麗と百済は仏教の受け入れに積極的でしたが、新羅はやや異なっていました。まずは外来の宗教に対して非常に否定的でした。
高句麗や百済は陸や海の道を通じて中国との交流が盛んに行われ、世界文化との接点がありましたが、新羅の場合、地理的にも中国との直接交流ができないため、高句麗や百済を通じて間接的に仏教を受け入れました。さらに自己の文化への執着が強く、外来宗教の受容に慎重な立場を取っていました。
こうした状況は、言い換えれば、新羅は各部族長の発言力が強く、独特な身分制度のために、国王が貴族を抑え切れなかったという意味になります。
6世紀前半の法興王(ポップンオウ)の時代に新羅は、加羅の征服に成功し、高句麗や百済と争う重要な時期でした。法興王には国の貴族や百姓などを一つに統合する契機が必要だったのでした。このとき、法興王の側近の一人異次頓(イチャドン)は仏教を広めるために、自ら殉教者の役割を買って出ることを王に申し出ました。
イチャドンは死の間際に自分が死んだ後 奇跡がおこるだろうと予言します。
イチャドンの首を斬ると牛乳のような白い血が流れ、周囲が暗くなり 地震が起こり、空からは花びらが降ってきたと言われます。自分の命を犠牲にした姿を目の前にして感動した貴族たちは、国王の仏教公認の決心を認めざるを得ませんでした。法興王(ポップンオウ)は仏教によって、王の権威に挑戦する貴族や有力部族をけん制することが出来ました。そして仏教を通じて体制の整備、中央集権的な政治力量を発揮したのです。
このように三国での仏教の発展は、それぞれ中央集権国家としての改革の過程と重なるという共通点を持ちます。仏教を通じて国民の思想の統一を図り、国王を中心にした中央集権化のために大きな役割を果たしたのです。
その後も仏教は従来からあった土着信仰を吸収しながら、古代国家の成立過程で現れた社会的な葛藤を解消させ、国家の次元を高める役割を果たし、さらに韓国文化の成立にも大きな影響力を及ぼしたのでした。
日本からこの仏教伝来を見たとき、伝来説には私伝説と公伝説とがあります。
522年(継体天皇)説などの私伝説と、552年(欽明天皇)説および538年(宣化天皇)説の二公伝説です。公伝二説中、552年説は『日本書紀』を原拠としていますが、欽明7(戊午)年は宣化3(戊午)年に他ならず、史実上から見て538年仏教公伝説が有力です。
皇室・大臣蘇我・大連物部勢力による三極分立が深まった時代にあたり、蘇我氏は渡来系氏族と関係を早くからもち海外事情に通じた氏族でした。物部氏は軍事・刑獄を主業に祭祀にも通じ、祭祀専業の中臣氏と並ぶ守旧的傾向の強い氏族だったようです。
大臣・大連をそれぞれ蘇我氏・物部氏が勤める欽明朝に伝来した仏教の受否をめぐる抗争は『日本書紀』によると、蘇我氏が〈西蕃の諸国もっぱら皆これを礼す。豊秋日本あに独り背かんや〉と奏したのに対し、物部氏は中臣氏とともに〈蕃神を拝さば恐らく国神の怒を致さん〉と同奏したのを端緒とします。
この対立は587年の物部氏の滅亡時まで半世紀に及びますが、554年(欽明)の百済渡来僧交替、577年(敏達)の百済の律師・禅師・比丘尼・呪禁師・仏工・造寺工の渡来、584年(同13)の仏殿営作と法会の設斎、588年(崇峻)の百済僧9人・寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工の渡来など、この間仏教文化の受容はしだいに進み、推古朝には飛鳥文化の中心である仏教文化の隆盛を見ました。
土着信仰→神道と仏教の関係や、中央集権国家(天皇制)や律令制との関係など、「社会の統合」という観点での追求は、まだまだこれからですね。
他メンバーの記事からも、ますます目が離せなくなってきています。
投稿者 naoto : 2009年02月18日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2009年3月30日 23:51
初歩的な質問で恐縮ですが、
日本では神様の事を「〇〇命」と書きますよね、これはご先祖様という事なのでしょうか?
それと一族神が2つ以上あってもよいのでしょうか?(母方と父方の神様ということ?)
それから「皇祖神」というのは?天皇の先祖という事でしょうか?
沢山質問してすみません。よかったら教えてください。
投稿者 Quetzalcoatl : 2009年4月1日 21:40
tanoさん、Quetzalcoatlさん、ありがとうございます。
tanoさん
>鹿島は古来から知られる鉄の産地です。
そうですね。
鹿島の地は東国支配の拠点だったようです。
詳しく調べてみると結構ややこしいのですが、元々出雲神だったのを天孫神に塗り替えたようです。出雲族が作ったものを藤原氏としては何としても我が物にしたかったのでしょう。
Quetzalcoatlさん
>日本では神様の事を「〇〇命」と書きますよね、これはご先祖様という事なのでしょうか?
なるほどみんな○○命ですね。
実権を握った藤原氏との取引?で、○○神がご先祖であるという「肩書き」を名乗った、あるいは貰った、ということなのだと思います。
>それと一族神が2つ以上あってもよいのでしょうか?(母方と父方の神様ということ?)
いくつもあるっておかしいですよね。
藤原氏の場合は守護神と祖神でそれぞれ二神を祀っていますが、神話の中の神様を名乗ったり、後で盛り込んだものですから、やはり権威の証として欲しかったのでしょうね。
>それから「皇祖神」というのは?天皇の先祖という事でしょうか?
天皇家の祖、天照大神のことです。
これも藤原不比等+持統天皇の時に作られたものです。
分からないが事いっぱいなのですが、ひとつひとつ解けて繋がっていくと楽しいです!
投稿者 nishipa : 2009年4月4日 20:56
丁寧に教えていただいて、ありがとうございます。
アメリカでは特にメキシコのアステカ文明で、伝説の神(雨の神とか、羽毛の蛇の神(Quetzalcoatl)etc.)と王国初期の王を重ねあわせる事が多く、しかもそれが捏造っぽい。後発の氏族が権威付けをするのは同じですね。
投稿者 Quetzalcoatl : 2009年4月6日 22:07
○○命というのは、何らかの命令を受けた神の号のこと。
イザナギなんかも最初はカミだけど、国を作る命令をうけてからミコトに変わる。
古事記をちゃんと読んだことがない人が、古代史を語るの?
投稿者 naomasa : 2012年1月28日 03:43
藤原だ↑
投稿者 藤藤 : 2013年8月26日 01:16
nishipaさんこんばんわ。
なぜ茨城の地の鹿島神社だったのか・・・。
これは重要な視点ですね。
鹿島は古来から知られる鉄の産地です。
葛城も蘇我も鉄のルートを押さえて頭角を現したように鉄は支配者のアイテムとして必須です。ましてや奈良時代の初めはまだ鉄が相当に貴重な時期で東国の鹿島を押さえるのは藤原氏としても当然、最優先の課題だったのだと思います。
そこで鹿島神宮を立て朝廷直轄のルートを構築したのだと思います。