弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈 |
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2013年03月14日
弥生時代再考エピローグ~日本人の本源性は女によって残された~
このシリーズでは6回にわたってテーマ追求をしてきましたが、今回が最後になります。そこで改めて弥生時代とは(日本にとって)何か?の答えに迫ってみたいと思います。
縄文のビーナス
プロローグで弥生時代とは私権社会の始まりであると仮説を出しました。
農耕の拡大、金属器の拡大は私権社会を拡大するための手段で、目的は渡来人為政者が私権社会を作る事、即ち大衆支配にあったとしました。
この間の追求で見えてきたのは、金属器の拡大にせよ、巨大古墳の拡大にせよ、支配という力の原理だけでは事は進まなかったという事です。むしろ、支配者自信が縄文人の意識の方に擦寄り、彼らの信望を集めることでその頂点に立つという手法を取らざるをえなかったのです。
冒頭の弥生時代に起こった事象をまとめて考えると、弥生時代とは以下のように捉える事ができるのではないでしょうか?
弥生時代600年間がある事によって日本は緩やかに私権社会に移行する事ができた。日本人の本源性が現在でも残存しているのはこの600年間のおかげでもある。
西洋や中国であれば、遊牧系の部族が農耕社会を襲い、略奪闘争から勝ち抜き戦を経て、いきなり私権社会が登場する。すなわち私権社会の最初には統一王国が登場するのである。日本の場合、これがなかった。統一王国が登場したのは大和朝廷の後期、700年頃である。それも戦争も殺し合いもほとんどなく、平和裏に進んだ。
なぜこのような事が可能だったのだろうか?
他の地域にはない3つの理由が考えられる。
1)大陸から日本に渡来したのは負け組みだった。また、勝ち組高句麗であっても日本に送り込んだのは2戦級、3戦級であった。これは海を隔てている事もあり、また大陸が常に外圧の高い戦場だったからで主戦級は送り込めなかった。
2)縄文人のネットワークや縄文人集落の共認力は他地域に比べ圧倒的に高かった。
渡来人はそのネットワークを使う事が支配する上で有利だったし、使わざるを得なかった。必然的に武力より共認支配の手法を取るようになる。
3)弥生人とは江南人と縄文人の混血によって誕生した人種である。
弥生時代初期の渡来人は殆どが江南人であり、比較的本源性を残した部族であった。また、縄文人もスンダランド経由の南方を出自としており、元をただせば文化的、人種的に同系統であったことが融和しやすかった。
彼らの支配とはどのようなものだったのでしょうか?まずは、その手法と意識の両面で見ていきたいと思います。
江南人とは言え、既に大陸で私権社会を経験し、その支配の方法や序列社会を経験した民族です。実態は日本に渡来した段階で明確に支配の意識を持ち、農耕技術の拡大を進め土着人であった縄文人を労働者として使用し、その頂点に君臨していきました。
しかし少数渡来であった彼らはまず縄文集落に近づき、あるいは近接した地域で並存し、交流を持ちながら縄文人の言葉や価値観を吸収します。だからこそ、日本語で話をし、縄文人が好む銅鐸や銅鏡などの青銅器を支配の道具として使ったのです。武器は専ら呪術の象徴や力の象徴として用い、本来の使い方ではありませんでした。
やがて縄文集落を吸収し、その首長に就く時には祭祀と神話を用意し、彼らの信仰心を高め、その神話の中心に自らの首長を位置付けていきます。
即ち縄文人の共認形成を神話や青銅器で仕組み、祭祀システムを完成させることでその中心に存在、それが彼らの縄文人支配の基本構造でした。こうして武力によらない支配=共認支配が行なわれたのです。
しかし武力によらない支配がされたために日本人の本源性(縄文人の資質)は残ったと言えるのでしょうか?実際にはこの支配の過程の中で縄文的特性が逆に渡来人に刷り込まれていったという側面もあるように思います。ただ、なぜそれが可能だったか?
それは女の存在ではないでしょうか。その女とは当然“縄文人の女”です。
縄文集落は長老が村の政治を担いますが、女性が集団の共認統合の頂点に立ちます。土偶の存在や土器を作ったのも女性と言われており、またシャーマニズムを重視した縄文社会では当然、専属のシャーマンとして女性が頂点に立つ事が多かったと思われます。
邪馬台国が日本にあったかどうかは明らかではありませんが、邪馬台国で卑弥呼と言う女性シャーマンが集団統合を担い、政治課題は専ら男性の長老が担った事は事実です。政教分離が縄文社会の原形であり、当然弥生社会でもそれを受け継がれていたでしょう。
渡来人が最も濃く接触したのは縄文の女性であり、シャーマンそのものではなくても、集団の中で共認の中心にあった充足性に優れた彼女たちを娶った渡来系首長は、そこで縄文的価値観に巻き込まれていったはずです。
縄文人の集落を支配統合する上でまずは女性を巻き込む必要がありましたが、逆に縄文女性の側から見れば、婚姻相手の渡来人男性を縄文的共認に近づけることが可能になり、母集団の縄文の男たちからもその役割を担わされていた可能性があります。
従って、渡来人が縄文人集落を支配し、巻き込んだように見えて、実質は縄文人女性から多分に縄文的価値観を刷り込まれていった。これが支配された後も日本社会で色濃く縄文性が残り続けた理由であり、それ故に日本社会はその後も女性原理の社会が継続していったのです。
写真は共同体企業である、類グループで活躍している女性社員たちです。
★弥生時代再考シリーズのインデックスです。
弥生時代再考~プロローグ
弥生時代再考(1)~水田稲作が始まって戦争が起きたのではなく、武力支配の後、耕地が拡大した。
弥生時代再考(2)渡来人が成した金属信仰~青銅に神が宿る
弥生時代再考(3) 古墳の謎を一挙解明
弥生時代再考(4) 出雲とは縄文である!!
弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈
長らくのおつきあいありがとうございました。
次回シリーズは「東にあったもう一つの日本」と題し、正史に残っていないもう一つの日本の存在を浮き彫りしていきたいと思っています。お楽しみに。
投稿者 hi-ro : 2013年03月14日 TweetList
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