弥生時代の解明4~神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立 |
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2012年01月16日
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」 8~諸子百家とはなんだったのか
諸子百家とは、いまから約2600年前からの300年間、中国の春秋戦国時代に現れた多くの思想家(遊説家)たちのことを指します。
なぜ、中国でこの時代、多くの思想家が登場したのか。それはその後の中国にどのように影響したのか。それを明らかにします。まずは、諸子百家の思想がどのようなものだったのか、概要を押さえます。
そもそも諸子の思想の内容は?
時代は春秋戦国、群雄割拠。富国強兵のためには、いかにして人民の生産力を高め、納税・労役・兵役をさせるかが必要になります。そのために、人民をどう治めるかという発想に基づく政治学説が発達しました。
どれほど多くの思想が登場したのか。今から約1900年前、後漢時代の『漢書』芸文志(げいもんし)の「諸子略」には189家、4324篇の書が記されています。中でも代表的なものは儒家、法家、墨家、道家、名家、陰陽家、縦横家、農家、兵家です。
①儒家(孔子2500年前・孟子2300年前・荀子2250年前)
孔子は西周時代初期の政治思想である「礼」の復活をめざした。天命思想を起原とし、従来の貴族政治の形式を尊重しながらも、法制の整備に反対した。家族や親族の間の道徳秩序(孝・悌)を基礎として仁の世界を実現することをめざし、徳をもって民衆をみちびく徳治主義を主張した。孟子は、人の本性は善(性善説)であり、徳をもって天下を治める王道政治を強調した。後の荀子になると、人の本性は欲望に弱いもの(性悪説)であり、その是正に礼が必要であると説いた。礼は国家の諸制度までをも含み、法治主義への道をひらいた。
②法家(商鞅2350年前・韓非2250年前)
商鞅は、儒家の徳治を法治に置きかえて、信賞必罰を政治の基本的手段とすることを主張した(法治主義)。法の有効な行使によって業績をあげる必要と、空理空論を克服し実効をあげる理論を強調した。秦に仕え、什伍制(隣保同責)、分異の法(分家移住)を実施した。のちの韓非は、儒家の荀子に学び、商鞅の法思想を継承した。
③墨家(墨子2400年前)
孔子の仁、家族道徳や礼の形式は、差別愛として非難し、人間相互の広い愛と助け合い(兼愛)を説いた。相互扶助(交利)・国家間の非戦(非攻)を説き、その思想の基盤の上に勤倹節用・薄葬などの具体的政策を展開した。儒家と激しく論争し、強力な教団を形成した。
④道家(老子2450年前、荘子2300年前)
老子は儒家の徳を低次元のものとして否定し、無為自然・小国寡民(自給自足の農村)こそ真の道であると説き、自然と人間の調和や「無為にして化す」平和非戦の政治道徳を強調した。後世、神仙説、陰陽五行説と結合し、道教を生んだ。荘子は老子の「道」に基づき、個人的解脱を重視し、自我を去って万物の絶対性に従うことを説いた。
⑤名家(恵施2380年前、公孫竜2300年前)
論理学、名(概念)と実(実体)の関係を研究。非戦から認知主義を主張するが詭弁に陥った。公孫竜の名言(迷言)に「白馬は馬にあらず」がある。
⑥陰陽家(鄒衍すうえん2250年前)
万物は陰と陽に分類されるという陰陽思想を説いた。陰陽説は、自然と社会の現象を陰陽二元の相反と相互依存によると説いた。その影響を受けて宇宙生成を、木・火・土・金・水の5要素の消長によって説いたのが五行説。
⑦その他
「戦わずして勝つ」ことを最上の策としながらも、戦略戦術を説く兵家(孫子・呉子)、外交政策に特化し、強国秦に対して、東方6国の連合同盟(合従策)や秦と各国の同盟(連衡策)を唱えた縦横家(蘇秦、張儀)、君民並耕による一種の無政府主義を説く農家(許行)、各派の思想を参酌し、総合化しようとして雑家、故事や民間の風俗をまとめた小説家。
このような多種多様な思想家たちがなぜ登場したのでしょうか。
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多くの思想が登場した社会背景はなにか
当時の社会状況や思想の内容・登場時期を照らし合わせてみます。当時の国家(諸侯国)の期待=国家需要に応えるために、儒教を本流としながら、これに対抗(よく言えば新たな可能性探索)するため各思想家が登場しているのがわかります。
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周代末期、周王朝の行き詰まりという現実の中、儒教は周代の思想や学問を基盤とし、その思想の復興・再生を目指します。当時の保守派です。
一方、周代の思想ではうまくいかなかったこと、かつ、戦争(同類闘争)圧力の拡大という現実に対して、新たな社会思想の探索の結果として、まずは戦争という現実を直視し、戦術論に徹した兵家や戦争を否定し、儒家を徹底的に批判した墨家が登場します。
更に、戦国時代、緊張圧力の高まりに対応し、外交戦術を追求した縦横家、農民層の疲弊状況に呼応した、道家や農家が登場します。中でも法家は、儒家の性善的立場の限界から性悪説を徹底し、法治主義を打ち出し、秦の中国統一を通じて戦国時代を制します。
また、思想家たちが登場した直接の目的は、官僚として登用されることでした。したがって、各国が諸子百家といわれる人々を養うだけの経済力を有していたことが不可欠の条件でした。
塩の交易などで当時最も豊かだった斉の国では70人余りの思想家を貴族待遇とし、それを聞きつけた何千人もの思想家を受け入れ、中世ヨーロッパの起源大学のような組織「稷下学宮」を持っていました。これは、中世ヨーロッパにおける金貸し=パトロンの下で近代思想が生まれた状況に類似しています。ギリシャ哲学、仏教(釈迦)、ユダヤ教(預言者)は一部の支配層だけが追求しており、少し様相が異なります。
諸子百家の思想は、具体的にどのように活かされたのか
法家の代表的思想家、商鞅の政策は、当時の農村集落の組織を一変させ、彼が仕えた秦を統一王朝に導いたという意味で、重要です。また、内容を見ると、儒教の「性善説」とは正反対の「性悪説」に基づく、容赦の無い法治主義が如実に表れています。
●第一次変法(約2370年前)
○戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
○一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
○戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
○男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をしたり怠けたりして貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
○特権階級といえども、戦功のない者はその身分を剥奪する。
○法令を社会規範の要点とする。
●第二次変法(約2360年前)
○父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
○全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
○井田(せいでん)=納税用耕作地を廃し田地の区画整理を行う。
○度量衡の統一。
上記の政策の徹底により、共同体的集団は名実ともに悉く解体されたことが窺い知れます。
諸子百家は只者ではない
法家の商鞅にまつわるエピソードから、諸子百家たちの卓越した弁舌・論理性の一端に触れてみましょう。以下の問題に即答できれば、あなたも諸子百家レベルです。
商鞅は魏の国に仕えた。魏の宰相(官僚トップ)が死去する際に、魏の王に自らの後継の宰相として商鞅を推挙した。しかし王はこれを受け入れなかった。宰相はこれを見て商鞅に忠告する。「商鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私は(王に)お前(=商鞅)を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方が良い。」と云った。
Q:商鞅はどうしたでしょう? 答えは記事の末尾にあります。(が すぐ見ない )
この時代の中国に多くの思想家が登場したのはなぜか
諸子百家登場前夜、周王朝は強権的な政治は行わず、徳によって人民を治める徳治主義を貫きました。地方の諸侯は邑という共同体を基盤とし、人民や諸侯の自主性を重んじた封建体制で統治されていました。それが約300年間続き、諸侯は力を付けていきます。
そして2800年前、周王朝は崩壊します。諸侯は力を蓄えており、どの国も覇者になる可能性があります。支配するか、支配されるか、群雄割拠の時代に突入します。現にこの時代、覇者は数十年ごとに入れ替わります。
周りは全て敵、戦々恐々とする状況の中、各国は富国強兵に邁進します。それを既定するのは軍勢を養う生産力、つまり農民(大衆)の活力です。また、戦国時代になると、戦争は長期戦となり、兵力増強のため農民までも駆り出されるようになります。こうなると益々、大衆(農民)レベルまでの活力創出や統制が必要です。
西洋であれば、農民は奴隷扱いであり、力で押さえつければよかったのですが、中国では違います。自然外圧がそれほど厳しくなかったため、支配民族は皆殺し的な戦争には至らず、元々の氏族集団を温存したまま農耕民を支配しました。支配部族が本源性を有していたため、支配の仕方も、被支配民の本源集団を温存し、その自主性を活かしながら統治する服属支配が旨でした。
したがって、武力を背景にしながらも、私権確保の可能性は誰にも開かれていました。非現実世界を説く宗教は必要とされなかったのです。国が戦争に勝利することは自らの農地拡大に直結するように、国家の目的、そのための思想は、末端まで統合される政治思想と直結するものでした。
支配層から大衆までをも一貫する私権確保の目標。これを実現するための統合思想への期待。それを実践する官僚という役割への収束。そして、多くの官僚を登用しうる各国の経済力。中国において諸子百家を登場させた、帝国王朝成立前夜の状況です。
群雄割拠の戦乱期、各国が富国強兵を推進し、覇者となり各国を支配するため求められた高度な思想や制度的方法論。そのような各国の現実的な統合期待(政治的要請)に応えるため登場したのが諸子百家です。
その後の歴史にどのように影響したのか
春秋戦国の世は、法治主義を取り入れた秦が制し、始皇帝が中央集権国家をつくります。しかし、徳治主義に基づく封建体制が色濃く残存する諸侯に反発を買い、浸透せず、長続きしませんでした。
秦滅亡後、漢は周代の思想に回帰し、儒教を国教化します。儒教は、祖霊信仰を基盤とし、血縁的なつながりとその序列の遵守を規範とします。政治的には、これを王朝支配の正当化や官僚組織の統合規範に転化して用います。つまり、諸侯支配と官僚体制に都合がいい思想としてできているのです。
中国は現実思考が強く、宗教が発達しませんでした。したがって、身分上位者は一部の支配王朝(貴族)と官僚です。また、西欧と違い、周囲に常に脅威があり、遊んで暮らせる貴族はいません。中国は有史以来軍事国家だといってよいでしょう。上から下まで、官僚です。それは現代においても変わらないのではないでしょうか。
漢代からおよそ1900年間、その官僚体制を思想面から支えたのが儒教です。また、1500年もの間、都市住民を中心とする大衆の官僚収束を受け止めたのが科挙制度です。
そして、農村部において家族を重視する志向性、苗字を同じくする人々の結束(宗族)などは、儒教社会の伝統です。
※問題の答えです。
商鞅は次のように云い、逃亡しませんでした。
「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、王が私を殺せというあなたの言葉を採用するはずがない。」商鞅の考えどおり、王は宰相がもうろくしてこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに商鞅を登用も誅殺もしなかった。
…当時は、何かあれば即命を奪われる時代。そんな時代の思想家であり、私権闘争の渦中に飛び込んでいくわけであるから、一つ一つの判断や言葉が命懸けであったのです。
そんな商鞅も、自らの政策で恨みを買い、殺害されてしまいます。
投稿者 kumana : 2012年01月16日 TweetList
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