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2008年04月22日

弥生時代⇒家族の登場

当グループでは現在、縄文末期から弥生にかけての社会構造と縄文人の意識状況について調べています。と言ってもその決定打はなかなか見つかりません。先日naotoさんが末期の縄文時代の状況を諏訪地方の記述からエントリーされましたが、それも一つの事例紹介としては有効だと思います。
つまり人口が1000年間で1/3に減じた縄文社会の食糧事情とは滅亡寸前であったという事です。
縄文から弥生にかけての集団の変化とはそういった外圧状況の中で起こりました。
ただ集団規模や居住形態は縄文末期から弥生前期にかけてほとんど変わりません。集団規模は30人規模で、居住形態は竪穴式住居です。しかしミクロに見ていくと劇的な変化があるのです。
私はそれを大集団の中に登場した家族の存在だと考えています。家族の起源は考古学や人類学でもさまざまでここでは細かく紹介しませんが、人類は家族から始まったとされる極論から大集団と居住単位や婚姻形態を基にする家族とは構造的に異なる存在とする理論と考え方が分かれます。
家族とは一旦、以下の定義をします。
①共同居住 ②血縁がある ③婚姻形態がある ④生産と消費を共同で行う。 ⑤財産の私有権がある
①~⑤までを行う最小単位を家族と仮に呼ぶことにする。
縄文時代も5~6人で共同居住していたが、①~③を満足しても④、⑤は明らかに異なり、生産は集団全体で行い、消費も集団全体で行っていた。当然、財産の私有もなかった。
弥生時代になると子割りした農地を管理する集団が必要になり、5~6人の規模で①~⑤を概ね満たす小集団が登場した。当然経済的な自立は難しく、④、⑤はまだ緩やかなものであった。しかしそれがその後の家族の起源になったのである。
鷲田豊明氏は「環境と社会経済システム」の中でから弥生と縄文の集団に関して以下のように記述しています。は私の意見です。
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縄文時代以前の集落においては血縁性が支配する集落又は氏族共同体の,共同所有にもとづく集団規制が強く,その集団のなかから集落の構成主体が自立性を確保することは困難であった。⇒農耕が開始された弥生時代においてようやく集落内部の小集団があらわれた。(和島家族論)
※縄文時代は集団の中の小集団はなかった。住居は分かれていたが生産も消費も全て共同体の中で営まれていた。それは現代人から見れば集団規制が強いという見方になるが、要するに家族という概念がなかったということだと思う。
逆に弥生時代の集団内部の小集団家族の登場は意識の変化として注目すべきである。
母集団とその下の小集団という概念の登場は裏返せば集団自我の登場でもある。

岡山県の沼遺跡(弥生時代中期)には溝と地形によって区画された領域に同時期に存在した可能性の高い5棟の竪穴住居の跡がみられる。(中略)近藤は,棟の遺跡が一つの単位集団を示しているとし,生産における経営単位でもあったとしている。経営単位とは,ここでは,耕地や水利などでの条件が与えられたもとで,耕作と収穫という点での自立的な計画と作業をおこなう単位と考えればよい。そして,これらをただちに共同体とするのではなく,これらがいくつかのまとまりが水利・灌漑施設*の維持管理もおこなう生産単位としての共同体を形成するとしている。(近藤 単位集団論)
※ここまでいくと今の家族と農協の関係とあまり変わらない。本部から機械や土地、資材は借りるが収穫は自集団(=家族)の所有物という意識が垣間見れる。経営単位とは現代的であるが、要するに頑張った小集団(=家族)がたくさん生産できるというシステムを取り入れたということである。小集団同志の競争が母集団の生産に繋がり、小集団を大きくすることが共同体の中での序列を高めた事は容易に創造できる。そしてそれらを決定的に固定したのが、土地を区分して家族単位の少人数でも生産することが可能になり、余剰生産を可能とし所有意識を作り出した農業という生産様式である。
弥生時代の比較的大集落で竪穴住居跡の配置にそのものが区画されていない場合でも,単位集団の存在が確認されている。神奈川県の大塚遺跡は長径200メートル,短径130メートルの環濠によって区画された内部に同時存在の住居が25~30棟存在し,150人程度の人口を抱えていたと考えられている。都出比呂志はこの集落の住人の共同墓地であったと考えられている歳勝土遺跡における方形周溝墓の配置から単位集団の存在を推定した。
方形周溝墓とは,弥生時代に登場した周囲に溝をもちおよそ5~6体が埋葬されているものである。歳勝土遺跡の方形周溝墓群には規則性があり,一つの世帯が2~3世代営んだユニットが,数個集まって一つの支群を構成している。都出はこの支群が単位集団(都出の世帯共同体*)に対応するものだと推定している。
※方形周溝墓が数個集まって支群を構成している→母集団から見て少なくとも3段階の集団が存在する事を示している。集団の階層化が行われている。
近藤義郎は弥生時代における竪穴住居跡が炉の跡をもたないことからその消費における自立性を相対的に低くとらえ,それにかわって単位集団が経営単位であるだけでなく消費の単位でもあったと論じた。その後,竪穴住居跡単位の消費生活を認めているが,このような単位集団の家族的な緊密性が家族体という名前に反映していると考えられる。
※炉が住居内にある、なしによって弥生時代初期から後期にかけて集団単位が全体から居住集団(家族集団)に変遷した事を示している。まずは生産が、遅れて消費が家族を固定させる行動として作用した。
縄文時代から弥生時代にかけての集団関係の不連続性のなかでも単位集団が再び成立してくる要因を,弥生時代の特殊性のなかから部分的にでもとらえるとすれば,その水稲農耕の特殊性にあるといわざるをえない。
それは,縄文時代における小集団・分散性が生業である狩猟・採集に起因しているとみるのと同じである。弥生時代における小集団性をその水稲農耕との関連でとらえるうえで,第一に,初期の灌漑の小規模性*に注目する必要がある。すでに述べたように,弥生時代の水稲農耕は最初から灌漑をともなうものだった。最初期の水田遺構である板付遺跡においても,小さな河川からの用水が可能な施設をともなっていた。弥生前期における完成度の高い農耕の普及は移住の波によっておこなわれた可能性が高いが,灌漑設備の建設・維持能力の小ささは,移住が小河川や大きな河川の支流にそっておこなわれざるをえなかったと考えられる。
※著者は農耕の初期の形態が大規模な集団農耕という形態を取れなかったとしている。
ここはちょっと検証してみたいという感じは残るが、要するに生業が集団を規定するという著者の理論は一定頷ける。

こうやって見ていくと生産形態の変化により小規模単位の独立した生産様式に変化した結果、私有が可能になった。ただ、私有意識を農耕と同時に移入してきた渡来人の影響が母集団を解体する事と小集団に生産単位を分割したことを付け足しておきたい。

投稿者 tano : 2008年04月22日 List  

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