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2006年11月01日
古事記って。。。(その1)
はじめまして、ぶんです よろしくお願いします。
古事記は、和銅五年(712年)太安万侶によって献上された日本最古の歴史書 です。
稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものです。
上巻(かみつまき)には、天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が日本神話の形式で語られています。
>天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナギ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。
こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。
そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。
イザナギは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98(ウィキペディアから抜粋)<
実は、この神話の意味って侵略と同類闘争の過程を述べているものだったようなんです!!
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page668.html 「新しい日本の歴史」からの引用です。
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イザナギとイザナミは、ヒルゼン高原の中蒜山の中腹に、オノコロ島を作り、そこに天の御柱を立て、八尋殿をたてました。その後、二人でどんどん子供が生まれるストーリーになっていますが、子供の名前は、島の名前ばかりです。イザナギは隠岐島からやってきましたが、それは島後のことです。出発地点ですから、書いてありません。島前の事は、隠岐の三子島と書いてあります。西島、中島、知夫里島の三つの島のことです。
最初は水蛭子だったので、葦舟に乗せて流したとあります。おのころ島のことで、結果的には、後になって放棄したことを言っているのでしょうか? 次は淡島を生んだとあります。淡路島のことです。島後とオノコロ島と淡路島は、イザナギとイザナミが二人で、作り上げましたので、「子の例に入れざりき」と古事記は書いています。
最初に平定したのが「子淡道之穂之狭別島」でこれは島根半島でした。米子から北に伸びる夜見半島は、まだ洲の状態だから淡い道です.米子が「子」、境港は「穂」でした。島根半島は古代には斐伊川は直接日本海に注いでいたので島で、しかも山脈が南北に分けた狭い島の意味です.地名がないので苦心した表現法です。稗田阿礼は、高尾山に登ったことでしょう。この島には名前が無かったので、苦労してつけて、長い名前になりました。
その後、讃岐国、またの名、飯依比古。粟国、またの名、大宜都比売というように、別の名が書かれています。出陣した人の名前、または、その後の統治者の名前でしょう。九州の豊国は豊日別とあり、「別」の字が付けられています。天つ神でないということでしょう。
三子島のまたの名は、天之忍許呂別とあり、天津族でないと思っていたら、「別」が付いていますので、私の説は揺らぐことになります。前の天は、出身地で、雲南省の?ですが、漢字が無かったので、天を用いたと説明すれば、どうにか説明になるかも知れません。
最後に、両児島が生まれています。岩波文庫の翻訳書では、長崎の男女群島となっていますが、その理由は書かれていません。
古事記に書かれている島は、天武天皇が古事記をつくるときに、希望したことに関することばかりが書かれています。男女群島はなんら、重要ではありません。神武東征のときに、高島宮がおかれ、八年滞在したことになっているのに、その高島がありません。
古事記に書かれている高島は、現在、候補地が4ヶ所あります。この夏、岡山県笠岡市の神島から船で、候補の一つの高島に渡ってきました。神島までは、現在、車で行くことが出来ます。名前が神島とあるだけに、昔は島でした。ここは、ヒルゼン高原の最高峰である毛無山の真南に位置します。神武東征において天皇に援助をしていたユダヤ人の島だと思います。高島宮は高島に置かれたと思われますが、相当数の船と軍隊が駐留していました。高島と神島の双子の島で、一つの島の機能をしていたから、両児島と呼んだのでしょう。
「子淡道之穂之狭別島」「両児島」「オノコロ島」「淡島」「水蛭子」、実際に呼ばれていない島の名前を使われた為に、日本書紀の作者は、大混乱です。古事記に、少しずつ合うように、一書によればをを連発しまして、説明を企てています。そのため、日本書紀は多くのページを割くことになりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・引用おわり
イザナギとイザナミって日本をつくった神様なんだーくらいにしか思ってなかったですが、ナントそのころの日本を征服した一派だったんですね~。
では、イザナギ 8) とイザナミ はどこからきたのでしょう?
答えは次回に続きます
投稿者 bunchan : 2006年11月01日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2006年11月5日 01:28
tanoさん、コメントありがとうございます!
>弥生時代の解明が難解を極めているのは歴史書に中国の主観が入っているからだと言われています。特に魏志倭人伝や日本書紀はいずれも中国の書籍または漢人が書いた書籍だから内容については眉唾がかかるわけです。<
書いている人の主観が歴史として後世に伝えられていくのってコワイですね!もしかしてこれまで学校で習ってきた歴史と事実は様相が異なるのかも。。。
投稿者 匿名 : 2006年11月7日 00:52
日本は地図で見ると世界の東の端にあります。大きい太平洋があり、さらに東に行く事はできません。
その地理的特徴は裏返せば西から逃げてきた人が最後は日本列島に到着したという事を意味しています。
弥生時代は中国の周後期の戦国時代の直後に誕生しています。
中国の歴史を知る事はその後の日本の歴史を知る事でもあるのです。
弥生時代の解明が難解を極めているのは歴史書に中国の主観が入っているからだと言われています。特に魏志倭人伝や日本書紀はいずれも中国の書籍または漢人が書いた書籍だから内容については眉唾がかかるわけです。弥生時代を解明するには書籍に頼るより、事実としてはっきりしている遺跡や古墳が中心になるのだと思います。