縄文ー古代通信 NO2(19年5月号) |
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2007年05月02日
日本における戦争の起源~戦争の考古学的証拠~
😀 くまなです
今回は、日本における戦争(同類闘争=集団間闘争)の起源について数回にわたって紹介したいと思います。
ポイントとしては、いつ、どこで、誰が、なぜ始めたのか。
渡来人が始めたとしたら、縄文人はどうしたのか。
戦争はどのように広がっていったのか。
縄文人が戦争をしなかったとしたら、それはなぜか。
などです。
文字も記録も乏しい時代ですから、何をもって「戦争の証拠」とするかという問題もあります。
証拠の例としては、
●武器
●環濠集落
●首の無い遺骸
などがあります。
(いずれも、吉野ヶ里遺跡で発掘されたものですので、吉野ヶ里では戦争があったといえるでしょう。)
そこで、本題に入る前に、考古学でいう「戦いの証拠」とは何なのかをご紹介します。
その前に、 ポチッと応援よろしくお願いします。
●戦争の考古学的証拠
考古学者の松木武彦さんが、著書「人はなぜ戦うのか」の中で、国立歴史民族博物館館長だった佐原真氏の示した指標を紹介しています。
1つめは、武器。動物を倒すための狩りの道具も「武器」とよぶことがあるが、ここでいう武器とは、人をあやめるための専用につくられた道具と、それから身を守るための防具のことだ。剣・刀・ヤリ、そして盾や甲冑など。さらに、そのような防具をつらぬき、破壊することができる大きくて重い矢、それを飛ばせる強い弓などだ。
2つめは、守りの施設だ。堀、土塁や壁、バリケードなどをめぐらした集落や都市。近づいてくる敵をいち早く見つけ、味方に連絡するための見張り台やのろし台など。
3つめとして、武器によって殺されたり、傷つけられたりした人の遺骸。考古学の発掘で出土する遺骸はほとんどが骨になっているが、この骨に、剣や矢じりの先が突き刺さったままになっていることがある。また、武器によってできた傷が骨に残っていることもあるし、首を切られた遺骸もある。
4つめは、武器をそなえた墓。これは、墓の主が生前、戦闘の場で役割や能力を認められた人物であったことをしめしている。すなわち、戦士の身分や階層があった証しであり、その社会で戦いが日常化していたことの反映だ。
5つめに、武器崇拝。武器を飾り立てたり、おがむ対象として巨大化させたりすること。これもまた、戦う社会ならではの現象だ。
●武器崇拝の例として有柄細形銅剣
これは持ちにくくて、実用的ではありません。偉い人のお墓に埋葬されていたりします。吉野ヶ里遺跡ではこれも出土しています。
最後に6つめとして、戦いをあらわした芸術作品。戦う社会では、戦闘シーンや戦団の行列などを描いた絵画やレリーフ、戦士の人形などが、しばしばみられる。
その上で、松木氏は次のように付け加えている。
3つめの傷を受けた人骨については、対人用の武器以外の道具や利器による例もあり、そういう場合はケンカや殺人などの個人的な争いの痕跡である可能性も高い。
また、ほかの5つは闘争が組織化されて集団間の戦いが始まり、それが社会のなかで認知されて初めて、痕跡として残されるものだ。しかし、このような痕跡を残さない戦いも、大いにありえただろう。
(中略)
私は、傷を受けた人骨以外の5つの証拠は、ただ単に戦っていたことのしるしではなく、戦いが組織化され、それに対する日常的な備えがなされ、その社会で完全に認知された政治的行為まで発展していたことの証しというべきだろう。
こうした状況にいたった戦いのみを「戦争」とよぶというただし書きつきで、佐原氏のあげた指標を、あらためて「戦争の証拠」として扱うことにしたい。
松木氏の考えは、縄文時代に戦争があったかどうかを判断する上でも重要な視点です。
投稿者 kumana : 2007年05月02日 TweetList
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