伽耶を知れば古代日本が見える6~日本建国は百済系―伽耶系の権力闘争の果てにあった |
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2013年05月12日
東にあった「もうひとつの日本」~4.防人歌に込めた東国の魂~
みなさんこんばんは。今日はまず風流な和歌からお楽しみ下さい。
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防人(さきもり)に、行(ゆ)くは誰(た)が背(せ)と、問(と)ふ人を、見るが羨(とも)しさ、物(もの)思(も)ひもせず
意味 「防人(さきもり)に行くのはどなたのだんな様?」と何の悩みも無く聞く人を見るとうらやましい。
唐衣(からころむ)、裾(すそ)に取(と)り付(つ)き、泣(な)く子(こ)らを、置(お)きてぞ来(き)のや、母(おも)なしにして
意味 衣の裾(すそ)に取(と)り付いて泣く子供たちを置いてきました。母もいないのに。
我が妻(つま)は、いたく恋(こ)ひらし、飲(の)む水に、影(かげ)さへ見えて、よに忘(わす)られず
意味 私の妻は、とても私のことを恋しがっているようです。飲む水に妻の影さえ映って、忘れられないのです。
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これらの歌は、万葉集に収められている防人の歌です。ご存知の方も多いのではないでしょうか?
とはいえ、防人の歌がなぜ万葉集に多く収められているのか?それが何を意味するのか?まではあまり知られていないように思います。
今回は「東にあったもうひとつの日本シリーズ」のひとつとして、この歌を詠んだ東国の防人たち、防人制度を取り上げてみたいと思います 😀
いつも応援ありがとうございます
防人制度とは?
防人制度とは、663年に白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した朝廷が、日本への侵攻を恐れて整備した徴兵制度です。諸国から防人が難波津(なにわづ)に集められ、船で大宰府に送られ、防人司(さきもりのつかさ)の統率下に入れられました。そして各地に配され、軍務に従事しつつ、空閑地を開墾したりして、食糧を自給していました。一般には3年で交替とされましたが、年限を過ぎても帰郷が許されない者も中には多くいたそうです。
『万葉集』には詠み人の出身や身分が明らかにされていますので、そこから防人には東国の兵士が任ぜられることが多かったことが分かっています。その規模は、737年に諸国防人が廃止され、その帰郷の姿が天平10年度の正税帳(しょうぜいちょう)からうかがうことができ、「周防国正税帳」からは約1900人を数えるとのこと。これに備前児島に向かった者を加えて総勢約2300人前後となるが、これがほぼ防人の構成員であったとみなされます。東海道の遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、安房、上総、下総、常陸、東山道(とうさんどう)の信濃、上野、下野、武蔵から東国防人は徴発されていたようです。
その後、復活・改廃があり九州筑紫(つくし)の兵にゆだねるようになりますが、延喜(901~923)のころには有名無実となったそうです。
画像はこちらより
防人はなぜ、近畿や九州の者でなく、わざわざ東国から徴兵されたのでしょうか?
防人制度は東国を骨抜きにする制度だった?!
白村江の戦いに負け、多くの朝廷軍は捕虜となってしまいます。彼らの多くは九州や四国、関西出身であったといいますから、さらなる唐・新羅の脅威を防ぐにも西国にはもう兵力が残って居らず、東国から集めるしかなかったというのが実態だったようです。とはいえ、これまでのシリーズで見てきましたように、朝廷は東国勢力(高句麗の残影)を心底恐れていたことは明らかです。とすれば、朝廷はこの徴兵制度を利用して、東国の働き盛りの“集団の中心を担う“若者を吸い上げることで、東国の結束力を崩壊させられる!と一石二鳥を目論んだ可能性は大いにあるでしょう。もともと東国人の強さは当時から評判でしたから、「武力に秀でた東国の人々を兵士として集める」というのは朝廷としては表向きの理由としても掲げやすかったことでしょう。
実際に約2000人もの働き手を一気に失えば、東国の存立基盤は揺らいでしまいます。
東国の人々が従ったのはなぜか?
東国勢力がこの無情な防人制度に関して、抵抗した形跡は残っていません。
実際、それ以前に彼らは独自の生活基盤(生業)や交易ルートを確保しておりましたから、朝廷がやいやい言ってはきますが、無用な争いを避けるために表向き受け入れた風を装っていたと思われます。
とはいえ、この防人制度は東国の集団基盤を揺るがす相当な打撃だったと推測できます。イヤだ!と突っぱねることもできたのではないでしょうか?しかし、彼らはこの辛い徴兵を選択し、無給で食も与えられず遥か九州まで赴きます。
それは自己を犠牲にして母集団を守るためだったのでしょう。東国が選んだのは表向きとは言え「朝廷への服従」です。服従している以上、命令に従わざるを得ません。さもなければ集団丸ごと処罰を受ける危機も当然ながら大きかったのです。集団を守るために、一種の取引として若者を(人質的に)差し出す、そういう断腸の選択だったのではないでしょうか。ただ実態としては、誰を防人に選抜するかは朝廷の直轄ではなく、ある程度地域の長に委ねられていたようですから、本当に必要な人材は残す、など制度に対抗する方策は練られていたことと想像します。
万葉集に防人歌が残ったのはなんで?
では、次に視点を変えて、なぜ万葉集に防人歌は集められたのでしょうか?
確かに、『万葉集』は天皇からはじまり庶民まで、さまざまな出身、身分の人々の歌を集めることを意図したと思われる歌集です(これはこれですごいことです)。とはいえ、上述したように防人歌は、別れを惜しんだり、悲しんだりする歌がほとんどで、これでは、暗にそんな強制をした朝廷を批判していることに繋がらないでしょうか?(『日本書記』を初めとして歴史は権力者が都合のいいように作るというのが当たり前の時代、おおっぴらにしていいの?とハラハラしちゃいます )
万葉集は全20巻約4500首が収められています。そのうち、東歌(あずま歌)は主に14巻に、防人歌は20巻に主に整理し集められています。中でも防人歌は、大伴家持が防人関係の仕事をする兵部省(ひょうぶしょう)の役人だった755年に、東国の国々から防人の歌を集めさせたようです。集まった歌は166首でしたが、家持が選んで84首を万葉集に残しました。
編者大伴家持はなぜ防人の歌をあえて取り上げたのでしょうか?
そのヒントは大伴氏にありそうです。
大伴氏は高句麗由来だった!
画像はこちらより
歌人としては誰もが知っている大伴家持。どんな人だったのでしょうか?
大伴家持を知るには、大伴氏の出自から探る必要があります。
大伴氏は朝廷に服属した高句麗系の一派だったと言われています。
るいネットから引用します。
出自の大伴家ですが、大伴氏の氏始祖伝承に神武東征に出てくるヤタガラスの説話がある。鳥類を氏祖とするのは北方系鍛冶神信仰種族の特徴である。また、氏祖伝承に顔を見せる高魂神の後裔とされる氏族は、高句麗系に属すとされている。その中の少なからぬものが、朝鮮半島東岸に沿って南下し、日本海を渡って、弥生時代から次々と渡来し、越から近江路、大和山間部に広がった。こうした高句麗系の山民が、大伴氏が統率する八十伴緒(やそとものお)であるという。
大伴氏は古くから朝廷に使え、祭祀を司った大和の主要豪族ですが、藤原氏が差配する時代になると政治の中心から外れ、冷遇を受けます。家持はその時代の人物でした。「古史古伝は古事記の草稿かー?」さんから引用紹介します。
万葉集の編者として有名な家持ですが、彼は政治家でした。
彼は718年、大伴旅人の長男として生まれています。
この父の旅人が、思想犯として罪に問われた長屋王の新政に助力しています。旅人は、長屋王に批判的な藤原不比等からうとまれ太宰府に左遷されます。このとき家持は、父と共に筑紫に下ります。この翌年、長屋王の変が起こります。(長屋王は謀反人として処刑されてしまう)
―――(中略)――――
さて、その後の家持ですが、738年ごろから聖武天皇の皇子・安積親王と親しくなり、親王死後の746年、 越中守として富山に国守として赴任します。越中での任期は五年間、ここで詠んだ歌が防人の歌です。754年、兵部少輔に任じ、東国の防人を閲兵してその歌を収集しました。万葉集の巻二十は、ほとんどこの防人の歌で占められているといわれます。
このあと彼は、藤原種継によって東北の鎮守府将軍にされて事実上の左遷にあいます。遷都計画に批判的だったからです。
このように、大伴氏の出自や大伴家持の生涯を見ると、彼が防人の歌を集めた理由もなんとなく分かる気がします。高句麗出自の渡来系氏族であれば、東北、東国への親近性は大きかったことでしょう。むしろ朝廷側に立ちつつも心は東国にあったのではないでしょうか。東国の人々に寄り添い、彼らの想いに同化できたからこそ、その想いを家持自身も歌に浪々と詠みあげていますし、そんな東国の窮地を少しでも知ってもらいたい、後世に伝えたいと思い、彼は歌を収集したのではないでしょうか。実際、防人歌には優れた歌も多く、そのような文化的な水準の高さも示したかった側面もあるのかもしれません。
大和朝廷は武力を使わずに東国を締め上げた
この時代の大和朝廷と東国の関係は、先に来る蝦夷討伐の前、水面下の攻防という感じがします。
朝廷側はあからさまに武力で東国を制圧することはせず、防人制度を利用してじわじわと力を削いでいく方策を取ります。大伴家持の取った防人歌は朝廷へのせめてもの抵抗、不条理を世に問うていたのでしょう。そして防人を輩出した東国の国々は面従腹背で大和に従いながらも反旗を翻す機会を狙っていたように思います。
その後、防人制度自体は平安時代に入り廃止になりますが、9世紀には俘囚制度に形を変えて東国への干渉は続いてゆきます。しかし、朝廷の思惑ほど東国の解体は進まず、その中から新たな勢力も立ちがってきます。
それは次回の記事で ! お楽しみに
投稿者 mituko : 2013年05月12日 TweetList
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