生贄文化から見える世界観 |
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2007年09月30日
マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか
マヤ低地とテオティワカンの交流:
ティカル-2 からお借りしました
http://www.tuins.ac.jp/~satoh/n_w_a2002/n_w_a2002_5-2.htm
🙄 🙄 マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか? 🙄 🙄
通常どこの地域でも、戦乱に明け暮れた後、統一王朝が成立し、その王朝が倒れると、又戦乱に明け暮れるといった事が繰り返される。ではマヤではどうだったのか?この不思議については多くのマヤ研究者も正確には答えを見つけ出してはいません。
そこでこれからご一緒に探ってみませんか?その前に
マヤ文明に挑むより
ジャングルから頭を出しているピラミッドの写真です
かつて、征服する概念がない?といったようにマヤ文明は戦争の無い平和な文明といわれた時期もあったようですが、研究が進むにつれて、そうではなかった事がわかっています。
各都市国家の王は、記念碑(石碑、冒頭の図版)を残しました。そこに刻まれたマヤ文字の解明や、遺跡の発掘による戦役の痕跡の発見などから、頻繁に国家間での争いが起こっています。
例えば、562年、695年 とカラクルムとティカルの戦いがあり、互いに戦いに勝利した証拠に碑文を残しています。又コパンとキルギアが738年に争っています。しかし互いに完全征服するわけでないのが不思議なところです。
実はいくつかの広域国家が形成された時期と、数多くの小都市国家が存在した時期があるようです。広域国家といっても、200~300キロ四方程度の大きさで、日本で言えば、東北、関東、中部、近畿・・・といったところでしょうか。ひとつの国家になったわけではなく、部族連合のように中心になる王国とそれに従属する王国とに別れていたようです。
代表的な中心になる王国がカラクルム、ティカル、コパンなどです
ではどうしてそうした広域国家が出来上がったのでしょう
~マヤはテオティワカンから来たシヤフ・カックによって都市国家同盟社会になった~
ナショナルジオグラフック:文=ガイ・グリオッタ より
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0708/feature01/index.shtml
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古代の碑文によると、現在のグアテマラにあった都市ワカに男が到着したのは西暦378年1月8日のことで、男は「火の誕生」を意味するシヤフ・カックと呼ばれていた。現在のメキシコ市近くにあった強大な都市国家テオティワカンから派遣されたと考えられているシヤフ・カックの名は、その後の数十年間、マヤ地域各地で石碑に刻まれた。この男の登場をきっかけにマヤ文明は急速に発展し、その後500年にわたる黄金時代を謳歌した。
マヤ文明は長い間、謎に包まれてきた。数十年前まで数十年前まで研究者たちは、壮大な都市遺跡や美しい未解読の文字から、マヤは神官と書記が治める平和な国だったと考えていた。だが、マヤ文字の解読が進むと、王朝間の戦いや宮廷内の権力闘争、宮殿の焼き討ちといった血なまぐさい歴史が浮かびあがってきた。
遺跡の発掘調査や碑文の解読で得られた新たな手がかりから、シヤフ・カックがこの大変革の立役者だったとわかってきた。最近10年で発見された証拠からは、シヤフ・カックがマヤ世界の政治体制を作りかえたことが読みとれる。彼は外交手腕と武力を駆使してマヤ各地の都市国家と同盟を結び、新たな王朝をたて、マヤ地域全体にテオティワカンの影響を広めたのだろう。
シヤフ・カックは、マヤを長きにわたってテオティワカンの支配下に置く先導役を務めたのか。それとも、マヤに起きていた変化に拍車をかけただけなのか。あるいは、もともとマヤには発展の素地があり、たまたま変革の機が熟していただけなのか。彼が果たした役割については研究者の間で意見が分かれているが、シヤフ・カックの登場がマヤの歴史の転換点となったことは疑う余地がない。
マヤの王は天と地の間を取りもつ存在とみなされ、神に権力を授けられた「神聖な君主」という意味のクフル・アハウと呼ばれた。王は人々に信仰と世界観を伝えるシャーマンと、平時においても戦時においても人々を統率する支配者の役割を兼ねていた。
他の文明の国々と同様に、マヤも宗教儀式の体裁をとりつつ、他の都市と同盟を結んだり、戦争をしたり、交易を行ったりした。マヤ地域は現在のメキシコ南部からグアテマラのペテン地方、ホンジュラスのカリブ海沿岸地方まで広がった。踏みしだかれた道や漆喰で舗装した堤道サクベが森を縦横に横切り、カヌーが川を行き交っていた。しかし、シヤフ・カックがやってくるまで、マヤは政治的にはばらばらの都市国家群だった。
ワカは378年時点でマヤの主要都市の一つで、四つの大広場や何百もの建物、高さ85メートルにもおよぶ神殿、漆喰を塗って彩色した儀礼殿があり、宮殿の庭には彫刻を施した石灰岩の祭壇や石碑が置かれた。サン・ペドロ川岸の要衝に位置するワカは交易の中心地でもあり、各地から珍しい品々が運ばれてきた。南の山岳地帯からは彫刻に使われた翡翠や宝石、衣服の飾りになるケツァール(カザリキヌバネドリ)の長い尾羽が運ばれ、西のメキシコ高地、テオティワカンからは武器用の黒曜石や鏡用の黄鉄鉱が運ばれた。
当時のテオティワカンは、人口10万を擁する世界最大の都市だったと考えられている。現時点では解読できる文字による記録は見つかっていないが、シヤフ・カックをマヤに派遣した目的は容易に推測できる。ワカはサン・ペドロ川の支流を見下ろす断崖上にあり、自然の要塞に守られた港は大型のカヌーを停泊させるのにうってつけだった。軍事作戦の「拠点としては理想的でした」と、ワカ発掘プロジェクトの共同責任者で考古学者のデビッド・フリーデルは言う。シヤフ・カックが目をつけたのも、まさにそうした地の利だろう。<
テオティワカンから来た一人の男によって、マヤ世界に変革が起こったとする仮説。
マヤ人にとっては新しい統合軸(私権統合)を得たという事でしょうか。
本源性を残していた小都市国家が連合国家を作るのは、外圧(近辺に強国が出現したとき)によると考えられます。つまり、テオティワカンの存在による外圧が大きな影響をもたらした事はたしかのようです。
確かにマヤは古典期において、上記のような連合国家になりましたが、それでもそれぞれの支配範囲は、決して広大ではありません。又アステカにしても本当はかなりのモザイク国家であって、実際広大な範囲を統一したのは、インカだけです。
まだまだ、統一できなかった(統一する必要が無かった?)原因が隠されているようです。
その辺は又次回に展開してみます。
投稿者 dokidoki : 2007年09月30日 TweetList
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コメント
投稿者 住まいについて : 2007年10月22日 16:34
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