弥生時代以降も継承され続けた縄文文化 |
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2009年01月16日
天皇制度はなぜ存続したのか?~日本の律令制~
みなさん、こんにちは☆
日本になぜ天皇制が確立されたのか?
天皇制と道教の関係とは?~支配層の思惑~
に引き続いて今回は、
『古代から現代までなぜ天皇制度が存続したのか?』
を追求してみたいと思います。
続きの前に、応援 っとよろしく☆
中国をはじめとした海外では、覇権争い(=戦争)とは王朝の交代であり、
新たに正当化された歴史の塗り替え(≒捏造)の繰り返しです。
一方の日本では度重なる戦乱の歴史を経ても、天皇制度は続いていきます。(皇統の断絶論はいったん棚上げとします。)これには制度上の大きな違いが関係しています。
この違いを中国の皇帝制度(律令制)と、日本の天皇制度(律令制)を比較しながら追及してみます。
┌–中書省・・・詔勅の起草等
皇帝 ┼–門下省・・・貴族の意見を反映
└–尚書省・・・執行機関
┌–神祇官・・・祭祀を扱う官庁
天皇 ┤
└–太政官・・・中国の三省同等
中国では高級官僚の人事は皇帝が直接行います。
また中国には最高議決機関みたいなものはなくて、最後の決断は皇帝が下します。
一方、日本では太政官が最高議決機関みたいなもので、もちろん上には天皇がいるんですが大幅に天皇の政治を代行できる仕掛けになっています。ただし天皇のもとには不可欠な機関として、神祇官という祭祀の機関があります。中国では祭祀関係の機関は尚書省の下にある一つの部局として役割が小さいのです。
つまり日本の場合は、天皇は祭祀のほうの比重が高く、政治のほうは太政官というものに任せられる仕組みとなっています。これが日本の天皇制度(律令制)の特徴です。
この太政官の権能が著しくなった出来事が、藤原氏を中心とした摂関制です。摂政・関白には、太政官の最高幹部(太政大臣、左大臣、右大臣等)クラスの地位を持っていないとなれず、これを藤原氏が独裁的に行ったという形態です。
また江戸時代の徳川の将軍は、外国ならば君主にあたる実権を持っているわけですが、天皇から任命されるという形式をとっています。つまり天皇から任命されるということは、天皇制度(律令)の形の上で太政官に政治を委ねるという規制事実の繰り返しとなっています。
つまり日本では権威ある天皇と、実権を握る太政官といった二重構造が律令制によって規定されます。そのため近代に至るまで律令制の実権争いは度重なるものの、権威はあるが実は実権のない天皇が存続したと考えられます。
ではここで天皇に実権のない律令制を当時の天皇はなぜ許容したのか?
(もしくは強要された?)これが大きな疑問として残ります。
まず律令制の確立(明文化)は、大宝律令で実現されています。その後、藤原氏が権力を握っていく過程をみても、藤原不比等が大宝律令の有力な選定権を握っていたと考えられます。
また藤原不比等と持統天皇の関係から、面白い視点が出てきそうです。
日本書紀は誰のために書かれたのか?②~矛盾点から見えてくるもの~
まず一つ目は、天武天皇が亡くなった後すぐに、息子の大津皇子が謀反の疑いをかけられ、自殺に追い込まれている点です。この大津皇子は度量広大で人気があったとされており、しかも、どんな謀反だったのかの記述も特になく、どうも腑に落ちません。
ここで一つの推論ですが、大津皇子は天武天皇と大田皇女の息子であり、しかも持統天皇の息子である草壁皇子よりも人気があったため、持統天皇が息子の草壁皇子を天皇に擁立するために、謀反の疑いをかけて殺したというのはないでしょうか?
もう一つ不思議なことは、壬申の乱で、中臣鎌足が大友(天智の息子)側に就いたために、天武朝では中臣氏は大島を除いてことごとく締め出されているのにも関わらず、鎌足の息子である藤原不比等(大宝律令の編纂に貢献した)という人物が、天武天皇亡き後、持統天皇に種々の大抜擢(息子の草壁皇子の助言者や判事の任)を受け、朝廷の中枢を担っている点です。
引用:るいネット
つまり持統天皇は何としてでも息子である草壁皇子、そしてその亡き後はその息子である軽皇子(文武天皇)に皇位を継がせるために、藤原不比等に後押しを要請し、その見返りとして律令制を容認したのではないかと考えらます。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございます☆
参考文献:道教と古代の天皇制(福永光司著)
歴史のなかの天皇(吉田孝著)
投稿者 staff : 2009年01月16日 TweetList
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コメント
投稿者 らくじん : 2016年3月10日 13:16
御説、ごもっとも。
日本人の知恵は素晴らしいですね。権力の二重構造と云われておりますが、天皇制を維持できた仕組みがそこにあります。