縄文:再葬墓≒死者への同化⇒再生 |
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2008年08月12日
インカ拡大路線のなんで?
All About より 現在のクスコの市外です
先回はインカの統治や租税について、話をしましたが、そもそも私有の意識は薄かったインカ。
しかしインカ自体は帝国と呼ばれるほどの広大な領地を持っていました。
ちょっと矛盾を感じませんか?
インカはなぜ領地拡大に走ったのか?
そもそもそのきっかけは? 戦争、争いはどうだったのでしょうか?
ここが見えてこないと、何かすっきりしませんね。
では その前に
旧大陸では、かつて遊牧部族から端を発した略奪闘争をきっかけに、私権を求めての争いが続き、その末裔であるスペインは明らかに征服(略奪)を目的に新大陸にやってきました。
インカにしても、クスコを中心にした、狭い支配範囲から、南北5000キロにもわたる 広大な範囲を支配するまで、数多くの戦争を行っています。しかし、その戦争はやはり旧大陸とはちょっと違うようです。
まず、どんな違いがあるのでしょう?
1:旧大陸と同様に戦争の始まりは、遊牧部族なのか?
牧畜はアンデスにおいても、なかったわけではありませんが、旧大陸と大きな違いは、リャマやアルパカの飼育方法です。それは遊牧ではなく、定住飼育だったことです。面積は広いですが、アンデス自体は海抜0mから4000mまでの山と谷の連続地帯であって、平野が続く地域ではありません。そのため、旧大陸のような広い地域を巡回するような遊牧は生まれなかったのです。
つまりアンデスの共同体はほぼすべて定住していて、遊牧のように母集団から独立した集団はなかったわけです。この違いは大きいと思います。共同体を破壊するきっかけがなかったといえます。
2:アンデスは互恵の精神が存続していた
互恵とは、「インカ国家の形成と崩壊」より
>互恵は社会経済的な組織体系であって、異なった次元での労働奉仕を調節し、財の生産と分配を関連付ける役目をもった。それは、通貨を知らぬ経済を持つ社会の成員たちの間の関係の調整を果たした。そして全アンデス世界の範囲内に存在し、広い範囲内にある異なった形態の組織の間をつなぐ働きをした。<
簡単に言うと、各部族間において、贈り物や、労働奉仕によって、従属関係や同盟関係が調整されていたということのようです。
インカは直接争って、支配範囲を広げたとは限らず、軍隊を引きつれ、相手の首長たちに圧力をかけ、互恵の精神を用いて、従属を強いています。例としては、海岸地方の征服と呼ばれるチンチャの征服は、直接的な戦争による征服でなく平和裡の征服と呼ばれています。
元々アンデスの文化として互恵の精神が残っている範囲に対しては、これで通用したようです。
逆に、そうでない地方に対しては、それなりに血みどろの争いを行っています。
こうした違いはありますが、それでもなぜインカが拡大路線に走ったのかは見えてきませんね?
大きなきっかけは、チャンカとの争いに勝利したことにあるようです。それまでのインカはさほど広い地域を支配したているわけでなかったのですが、先に拡大路線をとったチャンカがクスコに攻め入り、それに対し最終的にインカが勝利した。これ以降インカが拡大路線をとります。
その後は周りの首長がインカに恭順し始めたこともあり、インカ自体がより力を持ち始めます。インカは拡大するにつれて、互恵の精神を残しつつも、制度を変革していますが、大勢は変わらなかったようです。
これからは仮説ですが、
インカは、争いに勝利した他部族をインカという組織にどんどん組み込んでいくことになりますが、結局首長制部族社会は存続してきます。
首長部族社会での力を維持するためには、常に評価が必要。
そのため、いったん組み込んでしまっても、征服支配とは違い、互恵の精神から、不足のものがあれば、調達し、分配しなければならなくなり、支配した部族のクラカに対する贈与品(反発を避けるために)も増え、そのための土地や、労働力を得るために、さらに拡大する必要が生じたのではないか?
つまり、自転車操業のような?
でも、金銀財宝はやはり、インカ王に集中していたのも事実。このあたりが、次の追及テーマですかね。
投稿者 dokidoki : 2008年08月12日 TweetList
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