【縄文再考】縄文土器総論 |
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2021年12月03日
縄文再考:縄文人のルーツ④~旧石器時代から縄文時代への変化~
みなさん、こんにちは!
今回は、旧石器時代→縄文時代の変化について考察します。
これまで当ブログで考察してきた現代日本人につながる祖先集団のルートの仮説は以下の通りです。
①旧石器時代にシベリア経由で到達した(北方ルート)
⇒縄文人への系統
②旧石器時代に華北・朝鮮半島経由で到達した(対馬ルート)
⇒渡来系弥生人への系統
③弥生時代に華北・朝鮮半島経由で到達した(航海による対馬ルート)
⇒渡来系古墳人への系統
④南方から沖縄経由で到達した(南方ルート)
⇒縄文人への系統
旧石器→縄文→弥生→古墳の時間の流れを経て、現代日本人につながる遺伝的ルーツが形成(三重構造)されてきたと考察しました。また、ミトコンドリアDNA解析によるハプログループ分析の結果でも、日本は他国では見られないほどの系統(計10系統)が混在していることが明らかにされています。日本列島への人の流れ、日本人の起源が単一ではないことは確実と言えるでしょう。
◆旧石器→縄文への時代の変化への注目度は案外低い
これまでの追求過程で、少し疑問に思うこともあります。それは、日本列島における旧石器時代の解明度合いの低さです。酸性土壌の日本では、人骨がなかなか良い状態で残らないため、手がかりが少ないことも起因しているかと思いますが、縄文時代と弥生時代に比べて旧石器時代への注目は低いように思います。
当然ですが、日本は、旧石器→縄文→弥生→古墳へと変遷しました。しかし、旧石器時代から縄文時代への変化と、縄文時代から弥生時代への変化は、かなり異質であると言えます。後者の縄文時代から弥生時代への変化では、稲作(水田)が行われるようになったり、金属器(青銅器、鉄器)が使われるようになったりしていますが、これらは、大陸からやってきた人たちが引き起こした変化です。
一方、旧石器時代から縄文時代への変化はどうでしょうか?旧石器時代から縄文時代への変化では、土器がつくられるようになり、定住が始まっています。また、東アジアでは農耕が始まるずっと前から土器がつくられており、どこで土器がつくられ始めたのか、各国で盛んに研究がなされてきました。考古学調査が進み、放射性炭素年代測定の技術が発展するにつれて、不思議な様相が浮かび上がっています。
→つい先日、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集・横断して、日本語の起源に迫る面白い研究報告も成されています。そちらの方も今後追求していくと旧石器時代から縄文時代への変化に迫れるかもしれません。(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった。リンクはコチラ)
◆土器は旧石器時代後期に各地でつくられていた
日本の縄文時代は、今から約13000年前~約2300年前の期間といわれていますが、土器そのものの発生は更に時代を遡ります。日本国内で現在発掘されている最古の土器は、青森県津軽半島の外ヶ浜町の大台山元遺跡(おおだいやまもと)で見つかった土器片といわれています。土器片には煮炊きの痕が残っており、付着していた炭化物の放射性炭素年代測定を行ったところ、約15000年前のものである可能性が指摘されました。これは、現在のところ北東アジア最古の土器で、年代としては、旧石器時代後期に位置づけられます。
同遺跡で発掘された最も古い特徴を持つ土器片は、縄による施文や貼り付けなどの装飾の特徴がない「無文」のものです。土器片が発掘されたポイントの分布を確認すると、柱穴や凹みは認められず、地下への掘り込みも認められないことなどから、この時代の住居はまだ竪穴式住居の形式ではなく、移動式のテントのようなもので、建築物や土地の造成を行わず最小限の土地利用で自然環境に適応した生活を送っていたと考えられています。そうした発掘調査の分析結果から、大台山元遺跡は、日本列島における旧石器時代の遊動生活から縄文時代の定住生活へと生活様式が変化する様子を示す重要な遺跡と位置づけられています。
定住生活がはじまる以前から土器がつくられていたというのは、少し驚きですね。
もう少し世界に視野を広げると、約18000年前~約14000年前ころから、中国南部・日本・アムール川流域、バイカル湖周辺に土器が現われはじめます。しかし、これらの地域の間には同時代の土器が全く発掘されておらず、土器が一つの地域で生まれて他の地域に伝わったという説明は困難な状況と言えます。一般的に、ある地域に新しい現象や状況変化が見られ始める場合、以下の3つのパターンがあると考えられます。
Aパターン:他の地域から大勢の人々が流入して、変化が生じる
Bパターン:他の地域から少数の人々が流入して、変化が生じる
Cパターン:他の地域から人は流入しないで、その地域内で変化が生じる
上述の調査状況から、現状では日本列島における土器の発生は、「Cパターン」と考えるしかありません。日本列島の場合、土器より少し年代が遅れて定住が始まっていることがわかっています。日本最古級の土器は東北で見つかっていますが、定住生活は九州から始まり広がったと言われています。土器と定住は縄文時代を示す重要な特徴ですが、これらは同時に発生して同時に広がっていったわけではないようです。
◆定住生活よりも前に土器づくりがスタートした理由
日本の旧石器時代から縄文時代への変化は、他の地域から人々が全く流入せず、或いは、ほとんど流入しないで起きた変化であったと、当ブログでは仮定します。そうなると、縄文時代の人々については考えるが旧石器時代の人々については考えないというのは、なんともおかしな話です。歴史は連続しているわけですから。
ただ、上の地図が示しているように、これほど近い時期に東アジアの四つの地域で土器が現れたのはなぜかという疑問は残ります。単なる偶然として片づけられるようなものでもないとも思います。土器が生まれたのは食材の調理と保存のためではないかと言われていますが、その可能性は高いでしょう。実際、日本の縄文時代草創期の土器の付着物が調べられ、土器が特に淡水・海洋生物の調理に使われていたことも明らかになっています。
当ブログでは、土器が生まれた変化の一つの仮説として、マンモスやオオツノシカのような大型の動物が獲れなくなってきて、当時の人々の注意・関心が陸上のその他の動物や植物、海や川の魚介類などの対象に向かうようになったことが大きかったのではないかと考えます。
それらの対象の中には、そのまま食べるのに不向きなものも多かったでしょう。東アジアの主食になったアワとイネにしても、そのまま食べるのには向いていません。土器の始まり、定住の始まり、農耕の始まりについては膨大な議論がありますが、いずれも共通してこのような事情と無関係でないと思われます
日本人の起源・日本語の起源を追求するためには、日本とその周辺地域を含む旧石器時代から考える必要があります。起源となる何かが、どこから来たのか明らかにするためには、人類の歴史がどのように展開してきたのかを知ることが始まりとなるでしょう。
次回は、縄文再考でこれまで追求を深めてきた縄文人のルーツの中間まとめを行います。
投稿者 asahi : 2021年12月03日 TweetList
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