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2013年09月19日

「江戸時代は縄文の再生」~6.“商人気質”とは、社会の当事者としての気概の表出

経済面から見ると、江戸時代は米に基礎を置く武士の経済システムが、次第に貨幣経済に取って代わられていく過程であり、支配階級だったはずの武士階級が、商人が主人公の経済システムに組み込まれていく過程といえます。
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江戸時代を通じて制度上は石高制を基礎とした米本位制経済が幕末まで残っていましたが、いずれにしろ米を換金しなければ武士は実質的な収入を得られない点で、否応なしに貨幣経済に取り込まれていったのが実態です。つまり、経済を動かしていたのは、武力で支配する武士階級ではなく、商業資本を持つ商人階級とだったのです。本来,士農工商の身分制度の最下位にあるはずの商人が,実質的には国家の経済を支配し,幕府といえども意のままに管理すること出来ないのが実態でした。実際、為替差益で大きな利益を手にしたした有力両替商などは,大名に対しても大口の貸し付けをしていたようです。
このように経済面で圧倒的な力を得た江戸の商人は、「西洋の商人=金貸し」と同じように、
・金を貸した大名をけしかけ、互いに戦わせるようし向け、紛争や戦争で膨大な利益をえることも、
また
・農民や町民にはたらかけ市民革命を煽り、武力勢力を倒すことも、
出来たはず、
・・・しかし、江戸の商人は、そのような私権第一の価値観に染まることはなありませんでした。
それは、なぜなのでしょうか?
今回はこの疑問の解明を中心に、江戸時代の商人の実態に迫ります。

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■逆境に置かれた江戸時代の商人
江戸時代の初め、商人は “逆境”に置かれていました。1つは、「士農工商」という身分制度の中で、商人は社会の最劣位に位置付けられた点です。もう一つは、「農工は生産者だが、商は非生産者である。農工が生産したものを、ただ動かすだけで利をを得ている賤しい存在である」という武士階級の商人観・金銭観(「武士は食わねど高楊枝」によく現れている)であり、それが社会的に浸透していた点です。このように、江戸時代の商人は、本人たちの意思とは無関係に、制度的にも精神的にも劣位に置かれます。
しかし、この“逆境”ゆえに、商人はある意味“特典的な立場”に置かれることにもなります。それは、全人口の約10パーセントに過ぎない商人と手工業者は、幕府から事実上全く注意を払われず、いわば無視された存在とされたことです。石高制を取る幕府にとって、手工業者と商人は課税の対象にならず、農民の年貢のような税を取られることはなく、武士からの干渉もほとんど無い状況でした。このように、商人階級は、幕府が彼らを重要視しなかったことによって、農民よりもさらに徹底した自主自立の機会を手にすることになります。
しかし、だからといって、それが即座に逆境からの脱出にはなりません。幕府からいわば無視された存在だった彼らは、居住地を初めとしたあらゆる面おいて、自ら生きる場を自ら築く必要があったからです。
■町づくりの主体としての商人
京都、大坂、長崎、堺、新潟などの直轄領では、蕃府が行政官を派遣していただけで、事実上商人たちによって自主的に運営されていました。例えば、京都の商人と手工業者は町ごとに町内会のような自治組織を設置し、約4000人の世話役(行政官)を選出し、戸籍簿を作成する戸籍係、公正証書や遺言の執行に関する問題を処理する登記係、道路や橋の建設、修理などを担当する土木係など、都市の運営に生じる様々な役割を担いました。
町内会は、種々の同業者組合と合意の上、同業者組合からの運上金、冥加金を取り決め、これを町の最も重要な収入源として全ての公共的な事業が負担されました。商人は、町人であると同時に、何らかの同業者組合の一員だったので、自ら稼いだお金で、町を運営していたのです。
■町人としても商人としても、集団の意思決定は“全員一致が原則”
町人とは地主(持家)階級ですが、町で新しく地主になるには、その町の「地主連合の満場一致」という厳しい条件が必要でした。金持ちがいくら金を積んでも、その町の地主全員から信用を得られない限り、地主=町人にはなれませんでした。町の運営者にふさわしい、社会的に信用される存在であることが求められたのです。
これは、町人に限らず商人としても同じでした。それぞれの商人が独立した営業体だったことは言うまでもありあませんが、ある程度以上の具体的な営業活動は、問屋株仲間と呼ばれる同業者組合に加入しなければ不可能でした。同業者組合に加入した商人の営業活動は、同業者組合内部の自律的な規制の範囲で行われましたが、万一その範囲を逸脱して幕府の規制に触れた場合は、同業者組合加入者全員が連座して処罰の対象となるため、身勝手な行動は許されません。
また、個々の商人の意思がまとまると、それが同業者組合全体の意思として町年寄りや幕府に伝達される仕組みにもなっていました。ここでの決定事項は、同業者組合の意思であり、個々の構成員メンバーの意思です。つまり、全員一致を原則とした加入者の意思の集積が「法人」としての意思となり、それが「民意」となったのです。
このように、商人としても町人としても集団に属し、集団内での意思決定は全員一致を原則とする社会が、商人たちの社会でした。
■商人気質=一商人として、集団として、町人としての行動規範
こうして商人は、生業での “金儲け”を目標とすると同時に、集団全体の“利益”、町人としての“町の自治”、さらに世間に向けた“社会貢献”も求められる立場に置かれます。これらの一見相反するような課題や立場を全うする、という未明課題に突き当たった商人は、その答えとして、いわゆる「商人気質(しょうにんかたぎ)」を形作っていきます。既存の商人規範や儒学や朱子学といった学問では役に立たず、ここでも自ら生きる現実の中から、新たな思想・行動規範を紡ぎ出すことが必要でした。
その典型が、「三方よし」で知られる近江商人の思想・行動規範です。
    三方よし~売り手よし、買い手よし、世間よし
売り手の都合だけで商いをするのではなく、買い手が心の底から満足し、さらに商いを通じて地域社会の発展や福利の増進に貢献しなければならない。
このような商人気質は、商人としての規範であるだけでなく、それ以前に、集団の運営者としての集団規範で有り、同時に町の統合を担う町人としての社会規範でした。さらに、市場経済の発達や全国的な商業圏の拡大にともない、この商人気質の対象は“世間”全般へと広がり、飢饉が起きれば各地に食料を送るなどといった社会貢献にもつながって行きます。
現代は企業の社会的責任の重要性が年々高まっていますが、それ以上に広範な視点を江戸時代の商人は、既に300年以上も前に心得ていたことに驚かされます。
■「自主的な集団自治」の可能性への収束⇒自我・私権を自ら封印
ここで、初めの疑問「江戸の商人が、西洋金貸しのように、私権第一の価値観に染まることがなかったのはなぜか?」に立ち戻って、改めて江戸の商人の置かれた状況とその対応を整理し、西洋の商人のそれと対比してみます。
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武力支配の下、低い身分・社会的立場に置かれたという“逆境”は変わりません。違っていたのは、「自主的な集団自治」の可能性でした。
これまで本シリーズで見てきたように江戸時代とは、各集団の自立した活動に権限をゆだねることで個々の活力を創出し、社会の秩序を維持し統合してきた社会です。商人においても、「自主的な集団自治」の可能性が開かれ、それが社会的な評価に繋がることにより、商人自ら私権第一の価値観に歯止めをかけることを可能にしたのだと思われます。
強制圧力で自我・私権を制御しようと試みても、かえって反発や否定を招き、社会の秩序の破壊に繋がることは、西洋社会の歴史が物語っています。自我・私権を否定するだけでなく、それに代わり“集団自治の共認充足”の可能性が開けることにより、自ずと自我・私権は封印されるものなのではないでしょうか。
その基盤となったのが、日本人の縄文体質(集団自治の共認充足)であり、江戸時代とは、それを支配階級である武士から庶民にまで貫く社会制度として実現した時代なのだと思います。

投稿者 sai-yuki : 2013年09月19日 List  

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