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2013年09月17日

「個のない民ケルトから学ぶ」5:物語”耳なし芳一”は何を語ったか?

ケルトに学ぶのシリーズもいよいよ終盤に来ました。
これまで多くの学びポイントを紹介してきましたが、今回志向を変えてケルトの人が日本で実際に伝えた事を追いかけてみたいと思います。日本でも怪談で有名な小泉八雲(洋名ラフカディオ・ハーン)がケルトに深く関わっている事はあまり知られていないと思います。しかし小泉八雲の書いた耳なし芳一や雪おんなの物語を知らない人はほとんどいないでしょう。子供心にその物語を読み、聞き、ぞっとした経験は誰しもあると思います。
今回はラフカディオ・ハーンの生涯や物語を追いかけながら、彼が日本で何を表現したかったのかについて想いを馳せてみたいと思います。
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ラフカディオ・ハーンが日本の地に辿り着いたのは明治23年、54歳で生涯を終えた14年前、40歳の時でした。それまでのハーンの足跡をまずは紹介してみたいと思います。

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ハーンはアイルランド人でイギリス軍医だった父とギリシャ人の母の間で生まれます。出生はギリシャのイオニア地方でした。しかし出世後わずか4年で両親が離婚。両親から離れ、ハーンは父親の出身地アイルランドのダブリンで2歳から17歳までの幼少期―少年期を過ごします。そこはヨーロッパの辺境にある島であり、キリスト教浸透以前のケルトの文化が残存していました。 こういう土地の影響で幼い時から妖精や精霊の存在を感じていたハーンは、一神教にはなじめませんでした。自然の中の神秘を排除していく西洋近代文明にも違和感を覚えていました。
ハーンはそこで厳格なカソリックの叔母からキリスト教を強要されます。少年時代に決定的にキリスト嫌いになったハーンはそのまま、ドルイド教に触れる事になります。ドルイド教については後の記事で扱いますが、森の文化であるケルトが紡いだ万物に神が宿るとした自然崇拝の教えです。そこで得たドルイド教の教えがハーンの考え方の土台になっていきます。
ハーンはその後イギリス・フランスを渡り歩きますが、そこで身につけたフランス語を活かし、20代でアメリカに渡った後はジャーナリストとして頭角を現し、文芸評論から事件報道まで広範な著述で好評を博しました。1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社の通信員として来日し、来日後に契約を破棄し、日本で英語教師として教鞭を執るようになり、翌年結婚します。松江・熊本・神戸・東京と居を移しながら日本の英語教育の最先端で尽力し、欧米に日本文化を紹介する著書を数多く遺しました。
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さて、ハーンはその生涯を通じて表現者として生きた事がわかります。そして様々な国を流転しながら、終着の地である日本でハーンは生涯の伴侶を娶ります。ハーンが日本に来て、どれほど喜びを得たか、アメリカの友人に当てた次の手紙から読み取れます。
「私は強く日本にひかれています。(略)この国で最も好きなのは、その国民、その素朴な人々です。天国みたいです。世界中を見ても、これ以上に魅力的で、素朴で、純粋な民族を見つけることはできないでしょう。日本について書かれた本の中に、こういう魅力を描いたものは1冊もありません。私は、日本人の神々、習慣、着物、鳥が鳴くような歌い方、彼らの住まい、迷信、弱さのすべてを愛しています。(略)私は自分の利益を考えず、できるなら、世界で最も愛すべきこの国民のためにここにいたい。ここに根を降ろしたいと思っています」
小泉八雲と改名したハーンは、西洋では失われた自然への畏敬、八百万(やおよろず)の神々への信仰が、日本では生きていることに驚き、心から共感し、そして、日本の民話や伝説、怪談などを聞き集め、それを作品にまとめて、海外に紹介していったのです。
さて、ハーンの描いた世界を代表作から紹介していきます。ほんの触りだけですが、心の耳を澄ましてその語りを味わってみてください。

耳なし芳一
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今から七百年あまり前、下関海峡の壇ノ浦で平家と源氏の間で長きに渡る争いの最後の戦いが行われた。そこで平家は女も子供も今では安徳天皇という名で記憶されている幼い帝もことごとく滅びさった。それ以来その海と海沿いのあたりでは七百年のあいだ亡霊がさまよっていたという。
別の機会にそこでは平家蟹とよばれる奇妙な蟹が見られると話したことがある。蟹の背中には人の顔が付いているが、それは平家の武者の魂だといわれている。けれどもその海沿いではたくさんの奇妙なことが見聞きされた。闇夜には無数の人魂が水ぎわをさまよっているか、波の上をふわふわ飛んでいた。それは漁師が鬼火と呼ぶ青白い光、魔性の炎の事だ。また風が吹くときはいつも合戦の雄たけびのような大声が海の方から聞こえてくるのだった。

(中略)
やかましい音を立てて重量のある足が縁側に上がり込んできた。その足はゆっくり近づいてくると、傍らまで来て止まった。それから怖ろしく長い沈黙があった・・・芳一は心臓の鼓動が全身を振るわせるのを感じていた。
 やがて間近にしわがれた呟き声が聞こえてきた。
「琵琶はここに有るが、琵琶法師は・・・耳ふたつしか見当たらない・・・成る程、なにゆえ何故返事が無いのか得心がいった。奴は耳の他には何も残っていないから、返事をする口が無いのだ。それなら殿様の為にこの二つの耳を持って行って、これまで尊い使命を果たすために出来るだけの事をしたという証としよう。」
 芳一が鉄の指で掴まれたと感じた刹那、耳は引き千切られていた。猛烈な痛みはあった・・が、どうにか叫び声をあげずにすませた。重々しい足音は縁側を歩いて遠ざかり、庭に下りるとそのまま道の方角へ出て行き、やがて聞こえなくなった。頭の右と左どちらの側からも、どろどろと生暖かいものがしたたり落ちるのを盲目の男は感じていたが、手で触れてみる勇気は無かった。 


雪おんな
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 (前略)
 巳之吉は顔に雪が降りかかるのを感じて目を覚ました。小屋の戸が無理やり開けられていた。雪明りの中、小屋にひとりの女を見た。女は白い着物に身をつつんでいた。女は身をかがめ、茂作に息を吹きかけていた。その息は澄んだ白い煙のようであった。気が付くと女は向き直り巳之吉の前に身をかがめた。巳之吉は叫び声をあげようとしたが、自分では物音ひとつたてる事さえできないのに気が付いた。白装束の女は更に身をかがめ、低く低く危うく顔が触れる所まで近づいた。近くで見ると女はとても美しかったが、その目を見ると恐ろしくなった。女はしばらく巳之吉を眺めていたが、軽く笑うとささや囁きかけた。
 「私は、お前もあの人のようにする積りだったけど、お前が哀れに思えて仕方がない。だから見逃してやる事にするわ。見ればとても若くてかわいい坊やなんだから、巳之吉、今はお前には何もしないであげる。けど、もし今夜見た事を誰かに話したら、たとえそれがお前の母さんでも、私はすぐ分かるからね、その時はお前を殺してやるわ。私の言葉、忘れないで。」
 そう言い残し、女は背を向けると戸口から出ていった。しばらくすると巳之吉は動けるようになっているのに気がついた。起き上がると外を見回した。だが、探せども女の姿はどこにもなかった。ただ雪が烈しく小屋に吹き込んでくるだけだった。

 (中略)
 ある夜の事、子供たちを寝かしつけた後、お雪はあんどん行灯の灯りでぬ縫い物をしていた。巳之吉は横で見ながら言った。
「お前がそこで顔に灯りを受けて縫い物をするのを見ると、十八の若者の頃にあ遭った奇妙な出来事が思い出されるよ。わしはその時、誰かを見たんだ、今のお前のように色白で美しくて・・・確かにあの女はお前にそっくりだ。」
お雪は仕事から目を離さず問い返した。
「どんな話か聞きたいわ。あんたはどこでその女を見たの。」
巳之吉は渡し守の小屋で体験した恐ろしい夜について語った。白装束の女が自分にかがみ込んで微笑みながら囁いた事、老いた茂作の静かな死について。

 (中略) 
 「それは私、わ・た・し・このお雪なの。言ったはずよ、もしあんたが、あの事について話せば殺すって。だけど、ここで眠っているこの子達の為になるなら、いますぐでもあんたを殺してやるのに、今はこの子たちを可愛がってやって、よく世話をしてやって。もしこの子達に不平を言われる事をすれば、いつでもその報いを与えてあげる。」
 彼女の叫びは、やがて風の音のようにかす微かとなった。その姿は澄んだ白い雪に溶け込むと天井のはり梁の上に漂い、ふるえながら煙出しを抜けて出ていった・・・・それ以来、二度と彼女の姿を見ることはなかった。


ほんの一節の紹介でしたがいかがでしょうか?子供の頃の記憶が蘇り、改めて読んでも背筋がぞくぞくとします。そしてこの2つの物語に共通しているのが緻密な自然描写です。風、雪、水、海、光、闇など、ハーンの話はストーリの妙もありますが、この自然描写こそ恐れを導き出す仕掛けなのです。
人が最も畏れるのは妖怪でもお化けでもありません。この自然や自然の奥にある人智が及ばない深い世界です。それがハーンのケルト地方で育んだ原風景であり、日本で感じ取った匂いだったのでしょう。
前の投稿で「継承とは何か」の中で物語の存在を取り上げましたが、ハーンもまた物語を通じて自然へ畏れ、異界への想いを伝え、既にそれが失われ始めていた明治の日本人に残していったのだと思います。表現者としてその生涯を使ったハーンが何を伝えたかったのか、日本の地に来てそれを再確認し、まさに水を得た魚のように伝承者として働き、その生涯を閉じたのでしょう。
小泉八雲の子孫にあたる小泉凡氏は語ります。
「異界は生きる目的を与えてくれると同時に、人間が自然を畏怖しなければいけないことを教えてくれる。だからゴーストの世界は必要なんだ」ということを八雲は言ってるんですが、そうだと思うんですね。人間がすべてをコントロールしていいんだっていうのではなくて、異界を畏怖するというか、もうひとつの世界に気を遣うというか。それによって人間が謙虚さを失わないということを教えてくれるような気がするんです。」こちらより抜粋しました
自然は畏れ多いもの、人間は謙虚に生きるべき、ケルトに育ったハーンはそのような事を怪談という様式を通じて五感に訴えたのだ思います。

投稿者 tano : 2013年09月17日 List  

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