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2013年06月27日

「個のない民、ケルトから学ぶ」プロローグ

みなさん、こんばんは。
今回のシリーズはケルト。縄文ブログ初のヨーロッパシリーズになります。
ヨーロッパといえばギリシャ、ローマ、後のフランス、スペインなど戦争と宗教に血塗られ、近代市場社会の源流を作り出した張本人です。しかし、このヨーロッパにもかつては古代文明があり、武力や支配の力が届かない地域がありました。現在のフランス、ドイツ、イギリス、スイス、そこにかつてはケルトと呼ばれる民が住んでいました。 :D しかし、なぜ今回のテーマはケルトなのか?
宮崎駿というアニメ作家は縄文や森の世界、自然の摂理を題材に作品を構成します。物語を通じてそれらを読者に感じ取ってもらい、人間誰しもが持っている自然観や優しい感性を取り戻してほしいと語ります。そして宮崎氏が同様に憧憬しているのがケルトの世界です。
キリスト教や産業文明以前の、自然と人間が一体となった世界への敬愛。森や森の生き物に共感し、生き物と交流できたり、森から異界への入り込む森の人への共感。それが宮崎氏が感じたケルトの世界です。
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スタジオ・ジブリの画像からお借りしました
今回、このケルトを特集しようと考えたきっかけが河合隼雄氏の「ケルト巡り」という著書です。この図書からそのきっかけとなった部分を切り取り5つのお話として紹介してこのシリーズの始まりとしていきたいと思います。

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☆日本昔話と似たケルトのお話
ケルトの神話は、キリスト教以前のヨーロッパに生まれたものとして非常に興味深い。それに幸いにもそれは現代まで伝わってきている。物事を研究したり論文を書いたりするときに私たちは、どうしてもヨーロッパ近代の考え方から逃れられず、そのパターンに従ってしまいがちである。言うなれば私たち現代人は、知らず知らずのうちに、キリスト教が生み出してきた文化を規範として思考しているということである。しかし、実際にはヨーロッパの人達も、その背後にケルト的なものを持っているはずである。そう思って調べると、面白いことに、ケルトのおはなし(神話というか伝説というか、その辺はあいまいだが)には、日本の昔話や神話との共通点が多いことがわかっている。
☆今も息づくケルトの文化
ヨーロッパ大陸にも、ケルトにまつわる遺跡が残っているが、イギリスの一部やアイルランドに残されているものは、それらと一線を画している。たとえば、スイスにもケルトの名残はあるが、しかし、それはごくわずかで、いわゆる「遺跡の遺跡」のようなものなのだ。ところがイギリスやアイルランドには、ケルトの文化がいまだに息づいている感じがある。そこが違うのである。さらに最近はイギリスやアイルランドの人たちの間で、意識的にケルト文化に代表される考え方や生活様式を復活させようという動きが出てきていると聞いた。
☆キリスト教以前を知ることは次代へのヒント
キリスト教は一神教であるがゆえに、善悪や「正統と異端」といった、二極的な考え方を持つ。よってキリスト教が厳しく導入されたところでは、ケルトの文化にまつわるものは、ほとんどなくなっている。それも意図的に破壊されたという感じがする。
しかし幸いなことにアイルランドではその影響が少なかった。キリスト教文化のローマから発し、イングランドまでは及んでくるのだが、アイルランドはヨーロッパの辺境にある島だったからだ。日本も大陸の東端にあり、そのことが固有の文化を育てる一因となった。地理と文化の関係は大きい。侵略の及ばないところに従来の文化は残るのだ。(中略)私はキリスト教以前のことを知るのは、日本のこれからを考えるヒントになるのではないかと考えたのである。
☆文字を持たない民ケルト、それ自体が偉大なこと
つまり、ケルトの人たちは、あるもののイメージやそこに内在するものが固定されるのを避ける為、あえて文字を作らなかったのではないか。ケルトのカルチャーは、ある意味で非常に高いレベルに達したが、それゆえに文字を作る事を拒否したというような主旨のことを、ふたりはおっしゃっていた。(中略)
ジェイムズ・ジョイスは言う「近代的な意識だけを重視していてはいけない。それだけが文学だと考えてはいけないと考えた。」
「ここまで洗練された考え方を持ちながら何も痕跡を残していない。これほど偉大なことはない」と言うのである。
☆非言語的に交流する民、ケルト
アイルランドを中心にケルトの名残を訪ねたこの旅で私は、日本人に共通する思いのようなものを、現地の人たちも携えて生きていることを知った。彼らと話をすると、日本人のように「非言語的」に交流するものを持っていることがわかる。

いかがでしょうか?
この本は実際にケルトを旅して現代のケルトに古代(から連なる)意識を探り出そうとしています。そしてそれらの中から日本と共通するものや感覚を手繰り寄せています。この本の引用からだけでも十分にこのブログの記事にできると思いますが、さらにそこから掘り下げて、キリスト教に飲み込まれなかったケルトと日本の共通性、そこから人類が次代に残していくべき認識や可能性を紡ぎだしていきたい。そういう思いでこのシリーズを進めていきたいと思います。
最後にこのテーマの主題である“個のない民”の部分も紹介しておきます。
>近代のヨーロッパに生まれた人間関係は、個人はみな別々だというところから出発している。別々の人間だから、言葉によってコミュニケーションをはからねばならない。そしてそれは可能なのだという信念がある。だから言葉や理論を中心とした人間関係の構築を基本に据えることになっている。そして、言語表現をしない人はコミュニケーション能力がないとか、意思をもっていないということになっている。
それは近代ヨーロッパに生まれた考え方を発展した結果なのだが、もともと人間には「個人」などという考え方はなく、かつてはみな一緒に生きていた。動物の例を引くまでもないが、それぞれが自分の役割を果たしながら、全体としてちゃんと生きているという図式のなかで、人間も近代以前の長い年月、その生活を営んできたのだ。キリスト教文化圏に生きる欧米人と比べると、そんな感覚を私たち日本人はいまだに保持していると言える。ケルト文化の残る地域には、日本が持ち続けてきた感覚に通じるものが多く残っている。
紹介ばかりが続きましたがいかがでしょうか?同様に感じ入っていただけましたか。
そう言えばケルトのことまだ何も話していませんでした。
ケルトとはかつてはローマより北のヨーロッパ全域に拡がっていた文化圏の象徴で、キリスト教拡大と共に迫害され、最後(現代)はアイルランドとイギリスの一部、そしてアイスランドに残されています。文中にもありましたが、言語がなく全ての史実は口承で残されてきました。そして同様に音楽や紋様など言語以外の形で多くの文化的資産が継続してきました。
日本同様に大陸から離れた辺境にあり、古代文明から引き継いだ自然崇拝の思想がそのまま残存しているのも特徴です。
現代、近代市場社会の最先端を走り続けた勝ち組ヨーロッパ、しかしその内実は犯罪、不正、社会の混迷、疲弊、制度の崩壊などすでに近代社会(=私権社会)の枠組みが砂上の楼閣となり、崩壊過程に入っています。一方それらを直視している人々の中には次代の可能性を近代的なるもの以外から求め始めています。ケルト文化が注目されたり、ケルト文化の中で生まれたドルイドへの参加もその萌芽の現象と捉える事もできます。また、80年代には欧米から嫌われたエコノミスト日本は、わずか30年後の今、あらたな可能性として「日本的なるもの」が注目されてきています。ケルトがなぜ注目されているか、日本文化がなぜ関心を持たれるのか、その答えの先には次代の可能性が含まれているように思います。
なぜケルトなのか?その答えはこのシリーズを重ねながら折に触れて考えていきたいと思います。
このシリーズのサブテーマを設定します。下記の内容を順番に扱っていきますのでお楽しみに。
1.ケルトの歴史
2.ジブリとケルト、その相似性
3.ケルトにみる「リーダー論」
4.ケルト~「察し」の文化
5.口承文化に見る認識の伝播力
6.ケルトは宗教か?それとも・・・。
7.小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はなぜ日本に就いたか

投稿者 tano : 2013年06月27日 List  

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