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2009年07月20日
江戸時代の参勤交代制と市場拡大
西欧世界において、イタリアのヴェネチアを初めとするイタリア諸都市が発達した契機となったのが、11世紀末から始まった十字軍遠征だと言われる。
十字軍遠征のような『軍隊が長距離移動することで、移動途中の都市に財が投下される』ことで、商業都市が育ち市場が拡大する。特に十字軍遠征の場合、ヨーロッパ域外での略奪行為を伴うため、ヨーロッパで蓄積されてきた財以上のものが原資となり、市場が拡大して行く。
この十字軍遠征に対応するものが、日本では『参勤交代』だった。大名が宿泊する宿場町、宿場町の周辺産業、物資の輸送を請け負う商人、それぞれが潤うシステムが出来上がり、資本の還流を通じて市場が拡大して行く。特に、各大名が江戸という「一箇所」に「純粋な消費者」とした集中すると、その需要が生み出す経済効果は計り知れないものがあった。
■天下普請=公共事業
大規模な公共事業→集積した財を「公共事業」へ⇒需要が需要を生む(=ケインズ政策)
関ヶ原の戦いで天下を取った家康は、全国の大名に命じて、江戸城の城郭築造工事、江戸市街地や水路網建設に当たらせた。このように天下人が諸大名に命じて土木・建設工事をさせることを「天下普請」と言う。これは戦時の軍役と同じ扱いで、必要な資金・人員のいっさいを大名の石高に応じて供出させ、工事・役務を行わせるものだった。
数年に一度命ぜられる天下普請は、大名達に巨額の財政支出を強いた。それは幕府から見れば、敵対する可能性のある諸大名の経済力を削いでおくという防衛的な目的があったが、一方で蓄積された経済力を、平和な「公共工事」に向けるという意味もあった。
■参勤交代
地方で蓄積された富を分配する機能→需要が需要を生む⇒全国統一の貨幣経済の形成
1635年からの始まった参勤交代制によって、大名達は一年を江戸、一年を国もとで過ごすことになった。これも軍役と同様に、禄高と格式に応じた供揃いを義務づけられた。供揃いとは、そのまま戦闘に移れる武装した行軍行列のことで、飲料水と薪以外は、武器・弾薬・食糧をすべて持ち歩かねばならなかった。
蓄積された財が、宿場町に投下され、広域の都市経済が発達して行く。
■需要層の江戸への集中
参勤交代を含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の5,6割を占め、大きな負担となった。大名達は国もとの米を売り払って、貨幣を得て、それで江戸屋敷の生活費や諸経費を支払った。殿様に随行して地方からやってくる大勢の家臣団も、江戸での消費需要を盛り上げ、町人層を潤わせ、市場経済が発達して行った。
■商業航路の発達
江戸での公共事業のための物資運搬/江戸での消費に合わせた商品の運搬
天下普請のための石材など資材の運搬、さらに動員した家来や土木作業員の食糧供給のために水運が発達した。
また江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、日本全国から酒、醤油など多種多様な物産が水運で運び込まれるようになった。
上方の物産を江戸に運ぶために、大阪と江戸の間の民営の定期航路が発達した。二つの組織がそれぞれの定期便を運航して、明治に入るまで、競争を続けた。また江戸時代以前に確立していた北前船(大阪と日本海経由で北海道を結ぶ)、西廻り廻船(大阪と瀬戸内、九州を結ぶ)と合わせて、日本列島全体を結ぶ民間による定期商業航路が完成した。
投稿者 staff : 2009年07月20日 TweetList
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コメント
投稿者 なおと : 2009年9月1日 23:30
naotoさんコメントありがとうございます!
しばらく奈良時代あたりを探求していましたが、久しぶりに縄文に戻ってきました。何か自分の家に帰ってきたみたいで懐かしいです。(^^)
塗り重ね・・・。
そのキーワードがこれからの追求の道標です。
ぜひ皆さんもご一緒に考えていきましょう。
投稿者 tanoyam : 2009年9月3日 20:18
久々の縄文記事ですね(笑)
この間、部分的な追及はかなり進んできたように思いますが、今後の可能性という点では、縄文人がどのように塗り重ねられていったのかを追及する必要性を感じています。
初心に戻って、一緒に追及していきましょう!