万葉集と親しもう 入門編 1 |
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2009年08月20日
テンプル騎士団の栄光と衰退までの道のり
こんばんは、カッピカピです。
ここ最近、【チーム宗教】では、
『ローマ・カトリック教会と東方正教会って何が違うの?』
『ローマ・カトリック教会が国=皇帝を超えて組織化されたのはなんで?』
で、ローマ帝国の西と東について記事を書いてきました。まだまだ追及していくべき点はあると思いますが、それはオイオイ書いていくとして、今日は、次の論点となる、『十字軍』にまつわる出来事について書いてみたいと思います。
十字軍については、これまで
『十字軍って実は侵略軍だったって・・・ホント!?』
『「十字軍の遠征」の目的(表)』
『十字軍の遠征の目的(裏)とその結末』
で一通りの事は書いてきましたので、今回は十字軍と非常に関わりが深く、且、キリスト教世界で強大な存在となった『テンプル騎士団』について書いてみようと思います。
「騎士団」とは、騎士修道会という別名からもわかるように、修道会の一種としてはじまりました。第一回十字軍が奪還したエルサレムへ向かう巡礼者を保護するために、武器を持って戦闘にも従事する修道会として設立されたのが「騎士団」であり、その最初の騎士団がテンプル騎士団なのです。
騎士団はその多くが個人的な発案・理念にもとづいて結成されたもので、権力者や地方の君主によって大々的に設立されたものではありませんでした。テンプル騎士団も例外ではなく、発足時のメンバーはわずか7人ほどだったと言われています。それが全盛期には2万人を越す騎士が所属する最大規模の騎士団へと成長していくのです。
”テンプル騎士団おそるべし”と思った方、『ポチッ』と押してから続きへどーぞ。
■テンプル騎士団の絶頂期までの道のり
十字軍によって奪還されたエルサレムですが、イスラム勢力はまだまだ衰えておらず、聖地への巡礼には危険が付き物でした。そこで、ユーグ・ド・パイヤンを筆頭とする7人ほどの騎士がボランティアで巡礼者を保護することをエルサレムの国王、ボードワン2世に申し出、許可されて、結成されたのがテンプル騎士団なのです。まるで、エルサレム版新撰組と言ったところですね。
そして、騎士団の献身的な働きに感銘を受けたエルサレム国王ボードワン2世は、彼らを強力にバックアップすることになります。
ボードワン2世は、資金面での援助とともに、かつてのソロモン神殿の一角を騎士団の宿舎として寄贈しました。テンプル(=神殿)騎士団の名はこれに由来すると言われています。
さらに一種の警察権まで与えたことで、テンプル騎士団は徐々に軍事的性質を帯びた集団へと発展していきます。そしてついに、1124年、テンプル騎士団に「軍事宗教組織」という地位が与えられ、キリスト教の名のもとに軍事組織として認められるようになります。
翌年には、教皇直属の軍事組織として認定され、免税特権も与えられ、王族貴族らの権力には介入されないほどのパワーを有していきます。
組織の規模・権力を拡大していったテンプル騎士団はヨーロッパ全土にネットワークを形成し、その支部はイングランドやフランス、ドイツ、シチリアなど1万ヵ所以上にものぼりました。さらに、教会や信者からの寄進、イスラムからの戦利品、戦死した騎士の財産の引き継ぎなどで資産をどんどん増やしていったのです。
■金融業者としてのテンプル騎士団
土地と資産の両方を手にした騎士団は、単なる軍事組織の枠組みを超えて、ビジネスをも展開していきます。
テンプル騎士団が行った事業の中で、特筆すべきは金融業です。当時、ローマ教会は金利で利益を得る金融業務を認めていなかったのですが、唯一テンプル騎士団だけは許可されていたのです。
プールされている資金は王侯貴族らにも貸し出され、フランス王への資金援助まで行っていました。さらに、巡礼者の旅の資金を預かり、預金証明書を発行するという業務を行い、ヨーロッパ各地の支部から引き出せる金融ネットワークを作り上げたのです。ここまでくると、現代の銀行と何も変わらないですね。
■金儲けの批判から、フィリップ4世に目を付けられるテンプル騎士団
金融業によって、資産は右肩上がりだったテンプル騎士団でしたが、その急激な発展ゆえ、人々の反感を買うようにもなっていったのです。
清貧を心がけ、人々を守るための存在だった騎士団が、単なる金もうけの集団に成り下がってしまったという声が聞かれるようになったのです。
もともと、キリスト教社会では、額に汗して稼ぐ商売ではない金融業は、仕事としては一段下に見られていました。そこに拍車を掛けるように「銀行屋で巨額の利益を上げているテンプル騎士団は、騎士道の何たるかを忘れたけしからん奴だ」という気運が徐々に高まっていったのです。
もちろん、これには、支配階級の嫉妬ややっかみなども加わっていたことでしょう。
そして、十字軍の戦況の悪化も重なり、テンプル騎士団を取り巻く状況は少しずつ悪化していったのです。
これに目をつけたのが、当時のフランス国王フィリップ4世です。彼は、「金儲けで堕落したテンプル騎士団を生まれ変わらせる」という名目で、聖ヨハネ騎士団と合体して、自分の支配下に入ることを命令したのです。
これには当然裏があり、実は、フィリップ4世は騎士団から多大な借金をしており、これを帳消しにして、さらにテンプル騎士団の資産をそのまま自分のものにしてしまおう、と画策していたのです。
どーなるテンプル騎士団!?
投稿者 hi-ro : 2009年08月20日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2009年10月9日 02:29
またまた質問です。
>農具の改良と農耕技術の発達による生産性の向上によって、それまでの氏族単位の農業ではなく、家族の長が主導となる家父長的小農民が可能になっていきます。
⇒なぜ生産性が向上すると氏族単位が崩壊するのでしょうか?
また鉄の使用もそれほど行き渡っていなかった周の時代にそれほど生産性が上がったとは思えないのですが・・・。
具体的には農具の改良、農耕技術の発達とは何だったのでしょうか?
>諸侯は氏族の支配を脱した小農民のために灌漑事業などを行って、これを支配し独自の勢力を築くようになります。
⇒この動きは日本の荘園制と同じようなものなのでしょうか?