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2009年08月19日

万葉集と親しもう 入門編 1

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残暑お見舞い申し上げます
ただでさえ暑いこの季節、ここ1ヶ月ほど、院政時代前後の探索をし続け、
情念というか怨念というか、白河や鳥羽・崇徳、後白河や後鳥羽・後醍醐といった
同じ日本人とは思われないギトギトした世界をさまよっておりました。
ア~、とにかく暑い!暑苦しい
・・・という訳で、古代の一服の清涼水。となるとやはり万葉集です。
今回から、(ご期待があれば)シリーズで、万葉集の世界をご紹介します。
まずは、入門編その1。
NHKが年初にとったアンケートの結果、「好きな万葉集ベストテン」の
10位~6位を紹介します。
デハデハ、応援よろしくお願いします。 😀
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10位
我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて あかつき露に 我が立ち濡れし 大伯皇女
大伯皇女(おおくひめみこ)は天武天皇の娘。長らく、伊勢の斎宮として神に仕えた方です。母親は天智天皇の娘で、かつこの母親は持統天皇の実姉でもありました(早逝)。この歌は、天武天皇の死後、実弟の大津皇子が、伊勢に大伯を訪ねてきたときの見送りの歌です。大津はこのあと、叔母である持統天皇によって謀反の罪で処刑となります。大津は母親の毛並みからいっても、天武天皇の有力な後継者。能力では劣る我が息子かわいさに、持統は大津を亡き者とします。前夜、本来、伊勢の斎宮は男子禁制なのですが、その禁を破ってやってきた弟のギリギリの心境と、それをわかっていながら見送るしかない大伯皇女の心情が、露に濡れた朝焼けの情景に込められていて見事。思わず浮かんだ言葉は、「悄然(しょうぜん)」でした。
9位
銀も 金も玉も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも 山上憶良
これは、解説の必要もないでしょう。「金銀財宝<<<<子」というのは、1300年前も今も変わらぬ親の気持ちです。山上憶良は、702年に遣唐使として唐に渡り、当時の最新の学問を学んだほどのひとですが(百済人とも言われている)、中央政府ではなく長く大宰府に留められ、大伴旅人(家持の父)とともに「九州歌壇」を作りました。庶民の生活やくらしに根差し、特に貧・病・老・死といった、社会の矛盾を鋭く歌い上げたひとです。貧窮問答歌は教科書に必ず出てきますネ。
8位
熟田津に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 額田王
熟田津(にぎたつ)というのは、現在の愛媛県松山市、道後温泉周辺の港と言われています(今は、すでに陸地になっていると思われます)。661年、難波を出航した船は、途中、この熟田津に逗留します。船に乗っているのは斉明天皇、中大兄皇子(天智天皇)を始めとした朝廷の要人たちです。向かうは北九州。さらにその先にあるのは、白村江。当時、すでに、ひとびとは、月の満ち欠けは潮の流れと大きく関係していることを知っていたのでしょう。百済救済のため、唐・新羅連合軍という強敵に挑むひとびとの気持ちを鼓舞するにふさわしい「期待の歌」で、額田王は巫女的役割も担っていたことが伺えます。尚、古今集・新古今集に押され、長く忘れ去られていた万葉集こそ、日本人の歌≒こころそのものだと言い切ったのは、明治の革命児正岡子規ですが、その背景には、生まれ育った「松山、道後温泉、新田津」という土地柄が少なからず影響しているのかもしれません。
7位
東の 野に炎(かぎろい)の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ 柿本人麻呂
人麻呂が持統天皇の孫(後の文武天皇)に従って、狩に行ったとき、当地(現在の奈良県宇陀市大宇陀の丘)で詠んだ歌、と言われています。簡潔な中に、東の地平から西の果てへ、夜から朝へと、空間と時間を縦横に駆使した表現です。ちなみに原文は
東野
炎立
反見
月西渡
となっています。漢文にも馴染んでいたと思われる人麻呂の言語感覚はすでに人間の域を超えており、後年「歌聖」といわれるようになるのもうなづけます。江戸時代、与謝蕪村は、「菜の花や月は東に日は西に」と本歌どりをしています。
6位
恋ひ恋ひて 逢へる時だに 愛しき 言尽くしてよ 長くと思はば 大伴坂上郎女
大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)は万葉後期を代表する女性歌人です。前期のおんな代表額田王が伝説的存在で、ときには神秘的・中性的なのに比べ、より生活者的、現代的感覚の歌が多いのが特徴です。大伴旅人の異母妹で、家持の叔母、恋多き女といわれており、3度の結婚を経験しています(といっても、古代は、ここまでが恋愛でここからが結婚、なんて境界線がハッキリしていないので、3回くらいは普通かもしれません。結婚しても籍を入れる訳でも、いっしょに暮らす訳でもないので)。最初の相手は天武天皇の8番目の息子、穂積皇子(穂積皇子もおもしろい歌を残しています、これはいずれまた)で、ウンと年上のダンナさんだったということです。2番目は藤原麻呂(不比等の4男)、3番目は異母兄、没落したとはいえ、継体天皇以来の名門大伴家、さすがにお相手は上つ方々です。ところで、この歌、現代のほとんどの女性も、共感できるのと思うのですが、訳は概ねこんな感じです。
恋い焦がれてようやく逢えた時だけでも、優しい言葉をありったけかけてやってください、二人の仲を長く続けようとお思いなら
フムフム。わかるわかる。でも、何だか物足らない。で、最後に自主的意訳。
恋しくて、恋しくて、日々の間隙を縫ってやっと逢えたンですもの。小難しい話は抜き!愛しい言葉、優しい言葉をいっぱいいっぱい投げかけて、体と心を愛しんでくださいナ。だって、愛なんて、人生なんて、永遠に続く訳じゃないんだから。
古代人のおおらかな読みっぷりに、少しは涼やかになりましたか?
うらら

投稿者 urara : 2009年08月19日 List  

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コメント

モンゴル研究は現代につながる中国とイスラムを解くヒントを与えるかもしれませんね。
中世に突然登場した大遊牧民族国家。しかしわずか3代で滅びてしまう。モンゴルが果たした役割と彼らを利用した背後の勢力構造を見ておく必要があります。
そういえば元寇という事件が日本にもありましたが、北九州で武士が対抗する中、元は退却していきました。陸の戦術に長けていたモンゴルでしたが海戦にはまったく素人のようなものだったそうです。ほとんどの船が台風で沈没し、戦う前に戦力は過半を失っていたそうです。その点で元の影響を受けなかった日本はその後も独自の歴史を刻んでいきます。
なぜモンゴルがこの時期これだけの勢力をもって登場したのか?さーねさんはどうお考えになりますか?

投稿者 管理人 : 2009年9月22日 12:58

なぜモンゴル帝国(元)がここまで勢力を拡大する必要があったのか?気になります。(何か急激に拡大をしていかざるを得ない理由があったのではないか?と思うのですが・・・)

投稿者 みちおん : 2009年9月23日 19:04

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