シリーズ「日本人は、なにを信じるのか?」~第3回:神仏と共に生きた時代 |
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2012年07月08日
シリーズ「日本人はなにを信じるのか」~4.儒教の影響
株式会社ココシスさんよりお借りしました
日本人の信仰心の背景に迫る、シリーズ「日本人は何を信じるのか」
今回は、前回紹介した信心深い平安の頃までの日本人が、武家社会となった中世になってどのように変化していったのか、探ってみたいと思います。
信仰心の深かった日本人が、なぜ現代では無宗教などと言われるようになったのか?
本当に信仰心は無くなったのか?
そのきっかけが中世にありそうです。
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いつもありがとうございます 😀
まずは、前回に引き続き、「日本人はなぜ無宗教なのか」阿満利麿著(ちくま書房) よりの引用です。
【2】儒教の登場
~前略~
南北朝時代と室町時代の武家の家訓を調べた研究によると、神仏を尊崇することを強くすすめる武家たちの家訓に、このころから、儒教の徳目があらたに加わってくるようになる。はじめは、仁義礼智信という徳目を守ることが神仏への信仰とならんで強調されているけれども、やがて、神仏がこの世に姿をあらわすのも、儒教の教え、つまり仁義礼智信を人々に実践させるためであり、一度として、仏の前で手を合わせたり神社の社殿にぬかずくことをしていなくても、こうした儒教の教えを守っているかぎり、神仏もその人間を救うのだと教えるようになってくる。だから神仏をいわば名指しで頼むのは、死後極楽に生まれるようにと祈るときだけであり、平生は儒教が理想とする道徳を実践していれば十分だという主張になったのである(柏原祐泉「武家家訓における儒仏受容の過程」)
哲学ニュースnwkさんよりお借りしました
死後、地獄に堕ちないための神仏への信心がこの世での生活目標であった時代に比べると、この儒教の教えを第一とする生き方は現世中心に大きく変化したということになろう。
つまり、仁義礼智信という人間関係の理想的なありようを追求することになったのであり、神仏を頼むという生き方はいわばつけたりになった、といってもよい。あるいは、宗教は個人の私的な頼み事となってしまったということである。
儒教は、もともと、士太夫とよばれた中国社会の支配階級に属する人々の政治哲学であり、彼らの処世術からはじまった。したがって、儒教でははじめから現実社会における人間の生き方、身の処し方に関心が集中することになり、死後の救済は、ほとんど関心の埒外となる。このような儒教が日本でも勢いをもちはじめたということは、それだけ人々の関心が現世中心になりだしたということにほかならない。
さらにいえば、中世も時代を経て、生産力が次第に上昇をはじめ、人々が現実生活に自信をもちはじめるようになるにしたがい、あるべき主従関係、夫婦関係、親子関係、朋友関係など、人間のあり方や生き方が新たに求められ、全体として社会の新秩序が求められるようになってきた。そしてそうした変化のなかでは、死後の救済祈願は、片隅に追い込まれる一方となってきたのである。
結論だけをいえば、儒教が専門家の間をこえて武家社会や豪商・豪農クラスに広がり始めたことが、「無宗教」、つまり特定の宗派に無関心となる歴史のはじまりでもあるのだ。
こうした傾向をいっそう助長したのが、これからのべる近世の「浮き世」意識であろう。
はないかださんよりお借りしました
中世16世紀の室町時代に儒教が伝播してから、武家の教えを始めとして、神仏への信仰に加えて、徳目を守ることが意識され出します。
そのうち、信仰行為よりも日常の徳目(道徳)を守っていくことが、信心を表すという解釈となり、その道徳意識が第一課題となっていく。
そして、特定の宗教への意識は弱まり、宗教に拘らない意識が形成されていくことになります。
このような意識の変化が、特定の宗教に拘らない日本人を作り出していったのではないでしょうか。
信仰心は無くなっていないが、その信仰的行為が日常の生活に深く溶け込んでいった。だから信仰心が、道徳という言葉に置き換わり、例えば「しきたり」などとして後世まで信仰行為の名残が残っていくことになります。
このように、日本人の信仰心は生活に深く溶け込むことにより、見えにくくなっているのではないでしょうか。
さて、次回はさらに近世に焦点を当てて、日本人の信仰心に迫っていきます。
お楽しみに~ 😀
投稿者 vaio : 2012年07月08日 TweetList
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