2007.09.16

縄文時間ってなに?

simasanさんの投稿 環太平洋圏の海流・気流は縄文人をどこに導いたか? に「九州と東北はおそらくは1年以内、縄文時間ならば事実上のゼロ時間で接続されるわけです」とありました。この縄文時間って何でしょう? 時間がゆっくり動いていることだと思うのだけれど・・・
そこで調べてみました。
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posted by mukai at : 2007年09月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2007.09.15

縄文:鹿を狩る縄文人の意識とは?

今晩は、さーねです 😮 今まで食料といえば、堅果類や穀物などが注目されてきましたが、今日のるいネットサロンで、動物にも注目してみよう!ということになり、今日は鹿を調べてみました 😀
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写真はエゾシカ すごい角…こんなのを捕まえるって…
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posted by sawatan at : 2007年09月15日 | コメント (10件) | トラックバック (0) List  

2007.09.14

マヤの生贄~何のために行われたのか?

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「戦士の神殿。」ここで敵の捕虜の胸を裂き、心臓を太陽の神に捧げた。
(「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」よりお借りしました)
文明では「生贄(の儀式)」が「政」の中で非常に重要な位置を占めていたと言われています。インカでも、山の神に捧げられた少女のミイラなどが発見されていますが、マヤでは奴隷を生贄にしたという事例も多くインカとは少し違うような感じます。
現代人の感覚で生贄を理解するのは難しいかもしれません。残酷といってしまえばそれまでですが、そこは一歩踏みとどまって、マヤ人に少しでも同化し「生贄」という行為からマヤ文明の一端を読み解けたらと思います。
今回は、マヤ文明の生贄とはどういうものだったのかを探ります。
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posted by saah at : 2007年09月14日 | コメント (0件) | トラックバック (1) List  

2007.09.13

マヤ文明って何?

未分類

アメリカには、15世紀にヨーロッパの貿易商人や侵略者がやってくるまで、ユーラシア大陸の文明とは別に進化した文明があります。
南米のインカだけでなく、中央アメリカにも広い地域を統合しピラミッドなどの遺跡を残したマヤ・アステカといった文明があり、これらは古代文明社会全体を俯瞰するためには注目すべき文明だと思います。
そこでインカに続いて「マヤ」を見ていきたいと思います。
というのは、アメリカの古代文明といっても地域と時代によってかなり違う様相を呈しており、それぞれの文明を掴む必要があるからです。例えば南米では、ナスカやワリといった地域の文明が興った後に14世紀にインカが南米東地域の全域を中央集権的に統合しますが、一方、中央アメリカのマヤやアステカはそうではありません。
 「マヤ」は、ジャングルに2000年間にわたって栄えた都市国家文明として有名ですが、一体どういう社会だったのでしょうか?  
なぜ、2000年間栄え、統一国家とならずに衰退したのでしょうか?
(都市国家と一言でいってもメソポタミヤのシュメールもあれば、日本の縄文や弥生、古墳時代もあります。)
 また、マヤには戦争や死を掛けたスポーツ関する多くの記録があるし、(アステカほどではないにせよ)生贄もかなり行われていました。戦いや死に対する意識はどのようなものだったのでしょうか?
いろんななんで?が出てきますが、
まずはマヤってどんなところ?
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↑NHKさんから借用
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posted by nandeya at : 2007年09月13日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2007.09.11

中国における紙幣の発展

こんばんは~  みつこ 😀 です。
さーねさんの「中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!」を興味深く読ませてもらいました。
なんと 、紙幣を世界で始めて発行したのは中国だそうです。宋時代に四川地方で流通した“交子”というものです。
その発達してきた過程を詳しく述べたもの があったので、長くなりますが、紹介したいと思います。
応援おねがいしま~す
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ありがとうございます

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posted by mituko at : 2007年09月11日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2007.09.10

イギリス東インド会社②:儲けを求めて、貿易→徴税権(征服)→アヘンの三角貿易へ

イギリス東インド会社は、産業革命と前後してインド征服と中国へのアヘン売り込みとやりたい放題始めます。東インド会社の成功を見たイギリスの他の商業資本も、東インド会社の独占貿易を崩して進出しはじめます。
東インド会社:インドや中国という古代的国家を収奪・解体した怪物会社 の続きです。
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ロンドンにあった東インド会社

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posted by ihiro at : 2007年09月10日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2007.09.09

中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!

今晩は。さーねです 😮 先月のなんでや劇場にて、市場論が扱われました 😀 (詳しくは、Trend Reviewの8/11なんでや劇場「ブログ『晴耕雨読』の市場論に学ぶ」の論点を見てください。)
最近は、BRICsと言われるように、中国も投資対象国=経済成長著しい新興国として注目されています 😉
今日は、このブログらしく 古代中国の市場を遡り、戦国時代の市場の状況について、アップしたいと思います
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戦国の中国~まさに国乱れる…
古代文明も現代に繋がる認識がある
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posted by sawatan at : 2007年09月09日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2007.09.08

竪穴式住居

竪穴式住居 ってどんなもの
縄文時代から平安時代初期までの住まいであった、「竪穴式住居」はどんなものかを調べました。いろんな効果、工夫があることがわかります。
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「千葉市の貝塚」というブログで紹介されていましたのでまとめました。
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1.<竪穴式住居のかたち> 深さ数十cm~1m、直径 5~20㎡の円形の穴を掘り、円錐形の屋根を作った家です。縄文人は円形の住居が好きだったようです。5000~10000年前には、方形の住居がありましたが、4000~5000年前にはほとんどが円形になりました。3000年前には方形の住居がまた作られました。
2.<保温機能>穴が深いほど、土の温度は一定(17~18℃)になります。北海道の竪穴式住居には、2mの深さのものがあります(北海道南茅部町大船C遺跡、函館空港遺跡など)。深さ2mのものだったら、竪穴式という言葉がはっきり当てはまると思います。竪穴式住居は貯蔵庫としていい機能を持っています。”竪穴式住居”に深さ1mの穴を掘り、土器を埋めれば、食料を地表から2mの深さの恒温倉庫に保存できます (今から40年前、冷蔵庫が普及する前、台所の床下の穴に、梅酒や醤油や食料品の一部を保存していました;今は床下貯蔵庫という、単なる収納スペースを確保しているものはあります)。
深さ1mの地面は、それなりの恒温状態です。深さ1mの地面は、冬はぬくもりがあり、夏は涼しさがあります。竪穴式住居は、縄文人が自然の冷暖房を利用するために、地面を掘り下げたのではないでしょうか
3.<家の排気システム>がどうかによって、その家が過ごしやすいか否かが変わります。遺跡に復元されている家を見ると、屋根の構造がこんな簡単でよいかと考えさせられます。初期の竪穴式住居には炉跡はありませんでした。縄文人は、毎日バーベキューをしていました。しかし、約5000年前には炉を住居の中に入れ、煮炊きをするようになりました。炉を家の中に入れると、室温だけでなく、排煙の問題があります。縄文人は、排気システム、涼暖房システムを考えたはずです。
隙間風が入るため、排煙効率は良く、排煙に問題はなかった、煙による薫蒸があり、屋根のカヤは腐りにくくなっていたなどの話もあります。縄文時代の住居は中二階方式で、中二階に寝たと言う説がありますが、中二階はどう考えても夏暑く、冬寒い所です。物置や煙による防虫効果しか期待できないので、貯蔵庫だったかもしれません。
4.<防水機能>竪穴式住居は、屋根や壁が地面に接する場所に盛土をしています。雨水が家に流れ込むことを防いでいます。竪穴式住居の入り口は盛土部分を一段か二段上がり、穴部分の階段を数段下がる構造になっています。
5.<出入り口>一般的に、竪穴式住居の出入り口は南向きが多いと思っていました。しかし、加曾利貝塚の住居跡の出入り口は、様々な方向を向いています。出入り口が南にあると、冬に陽光が差し込み、暖かになります。夏はひさしがあれば、太陽の高度が高いため、灼熱が直接差し込むことはありません。南向きは合理的なのですが、実際は、集落の中の”道”に向って出入り口を作っていたと考えられます。みんなとの交流を優先したということですね。ツマ付き住居であれば、排煙や夏場の温度上昇の問題を解決できます。北海道栄浜遺跡で発見された家形石製品のように、入母屋風の上屋を示す例もあります。

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posted by norio at : 2007年09月08日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2007.09.07

環太平洋圏の海流・気流は縄文人をどこに導いたか?

mukaiさんの縄文の海洋技術:自然の注視が可能にした 縄文の海洋技術:『縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ』でも言われていますが、既に1万年前から6000千年前に、縄文人は太平洋を航海していたのではないかと多くの考古学者が述べているようです。
中には、インディアンの祖先やポリネシア人の祖先は縄文人ではないかと言われる人もいますが、そんなことがあり得るのでしょうか?
実際、ノルウェーの人類学者、ヘイエル・ダール博士は、筏船で、ペルーのカヤオ港から南太平洋のツアモツ島まで4,300マイル(8千km弱)の横断を試み、102日間でたどり着いたそうです。その他にも、tanoさんが
黒潮に乗って でも紹介しているように、この環太平洋を流れる海流の作用はコマを流す実験でも実証されているようです。
果たして、インディアンやポリネシア人の祖先が縄文人かどうか分かりませんが、少なくともエンジンも海図も持たない古代人が、遥か何千キロも先の大陸や島々に舟を運ぶのに、地球の海流や大気の流れはどのように影響するのでしょうか? 
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posted by simasan at : 2007年09月07日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2007.09.06

新旧モンゴロイドの混血による縄文人の形成

😀 くまなです
前回の「縄文人の故郷、スンダランド」の続きです。前回は2万年前までの状況を紹介しました。
約2万年前は氷期のピークで、今よりも平均気温で7~8℃低かったと考えられています。その後1.3万年間で温暖化し、約1.2万年前(縄文時代の始まる頃)には現在と同等の気温まで上昇しました。この気温の上昇に伴って、氷期に形成された(主に極地方の)陸上の氷や雪が融解したのと、海水の膨張により、海水面が100mほど上昇したと考えられています。
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(当ブログ内のRさんの記事縄文時代の海水面、気候変動グラフを参考に、「海のほしと私たち」よりお借りしました)
スンダランドは赤道直下(北緯15度~南緯10度)にあります。現在は熱帯雨林気候ですが、氷期には温帯だったと考えられます。氷期において赤道直下の地域は温暖湿潤な気候であり、その行き止まりの半島部分に多くの人類が行き着いたと考えられます。
その上、海や川からの豊富な食糧、片面が海という防衛のしやすさ、侵食等により隠れ住む洞窟の多さが考えられ、しばらくすると人口も増加し、多くの人類が縄張りを接するように暮らしていたと考えられます。
そのような状況下で、気候が温暖化し、海水面が徐々に上昇し始めます。海岸沿いに住む人々は、住みか(洞窟)が失われ、縄張りが減少していきます。
内陸に進出しようとしても他集団がいます。一部には合流した集団もいましたが、大半は海側を島伝いに新天地を求めて出て行ったと考えられます。その第一波は、すでに5万年前、南東端の沿岸地方に住んでいた人々が、東に漕ぎ出し、島伝いに現在のオーストラリアに到達しています。
温暖化がすすみ、現在のフィリピンやマレー半島に囲まれた大陸棚地域も水没しはじめると、その地域の人類は同様に海側に新天地を求めて漕ぎ出していきます。その場合に、ちょうど黒潮の海流に乗ることができます。ただし、当時は大海原に漕ぎ出したわけではなく、漁業の技術も近海や河川でのものでしたので、あくまで島伝いに新天地を探索したと思われます。
現在でも、フィリピン近海から台湾、沖縄、日本をつなぐ海域は浅く、現在よりも島(陸地)も多かったのではないかと考えられます。
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海面の上昇に伴って、同様にして海に出て行く人々が増えますが、皆同じような航路を取るため、途中の島々にはすでに先行して流れ着いた人々がおり、安住の地を得られず、さらに次の地を目指して漕ぎ出します。そのように、時代が進むにつれ、黒潮に沿って北へ北へと進んでいきます。
温暖化は1.2万年前まで続きますが、1.8万年前には上記のようにして沖縄に到達した集団がいました。それが港川人です。(湊川人の骨格はインドネシアのワジャク人に似ている日本人はるかな旅展
そして1.2万年前には日本本土に到達しています(志風頭遺跡、栫ノ原遺跡など日本人はるかな旅展)。
スンダランドを出た旧モンゴロイドは、2万年前から、海面が再上昇する7000年前までの1.3万年の間に日本に到達します。船での移動なので人数は限定的ですが、波状的に多くの人々が渡来したと考えられます。
彼らは、温暖化と共に北上していったことから、環境の変化とともに、それまで培った生活技術(生産様式等)が可能な土地へと移動していったと言ってもいいでしょう。漁労技術や広葉樹林からの木の実を煮炊きする土器、小動物を捕獲する弓矢を持ち、その後の日本で人口を増やしていったと考えられます。
一方、北からのルート(新モンゴロイド)はどうなったのでしょうか。
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posted by kumana at : 2007年09月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

 
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