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マヤの生贄~何のために行われたのか?

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「戦士の神殿。」ここで敵の捕虜の胸を裂き、心臓を太陽の神に捧げた。
(「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」よりお借りしました)
文明では「生贄(の儀式)」が「政」の中で非常に重要な位置を占めていたと言われています。インカでも、山の神に捧げられた少女のミイラなどが発見されていますが、マヤでは奴隷を生贄にしたという事例も多くインカとは少し違うような感じます。
現代人の感覚で生贄を理解するのは難しいかもしれません。残酷といってしまえばそれまでですが、そこは一歩踏みとどまって、マヤ人に少しでも同化し「生贄」という行為からマヤ文明の一端を読み解けたらと思います。
今回は、マヤ文明の生贄とはどういうものだったのかを探ります。
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【生贄の目的はなに?】

本来マヤ人は精神世界を大切にする部族で、人を殺して神に捧げるといった行為をしてなかったらしいが、マヤの地に、戦闘色の強いトルテカ人がやって来て、お互いの文化が混ざり合った頃から生贄の儀式が盛んに行われるようになったそうだ。彼らは、夕方に太陽が地平線に隠れてしまうことを大変恐れ、 長い夜を通る間、邪悪なエネルギーをたくさん持って再び朝日として昇って来るので、それを清めるために、生きたままの人間の心臓を捧げるしかないと信じていたそうだ。マヤ文明の後期になると、生贄の儀式は毎日のように行われていた。

「マヤ(チチェンイッツア)遺跡・カンクン」~より (リンク [4])
天文学が進んでいたと言われる文明と生贄の儀式・・・これはあくまで自分達の身を捧げることが信仰心の現われだったようです。ただしその方法も、もともとマヤ人にはなかったというのがポイントのような気がしますね。
【生贄の儀式はどんなふうに?】
次の引用はちょっと生々しいですが・・・・

①主に奴隷の中から生贄を選ぶ。
②儀式当日、生贄の全身を青く塗る。
③4人の神官が生贄の手足を押さえて固定する。
④黒曜石という、石で出来たナイフで胸を切り裂く。
⑤生贄の身体から流れ出た血をチャックモールの台座に塗る。
⑥心臓をえぐり取り、チャックモールの台座に置き、神にお供えする。
⑤死体は正面の階段からズルズルと引きずり降ろされる。
⑥階段下にいる人たちが死体の皮膚を剥がす。
⑦剥がした皮をかぶって神への踊りを捧げる。

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チャックモールの台座(同上「マヤ(チチェンイッツア)遺跡・カンクン」~より)
⑦の「剥した皮をかぶって神への踊りを捧げる」なんて、生贄にならなかった人達も生贄と一体になって神へ魂を送ったといった感じでしょうか。
実はこのほかにも生贄の手足をスープにして飲んだというような記述もありました。
【生贄にされた人は誰?】

マヤ人にとってこの球技はゲームではなく、大切な宗教儀式で、勝ったチームの主将は神への生贄として神に捧げられ、負けた方の主将は普通に殺されるという、それこそ命がけのゲームだった。

(「マヤ(チチェンイッツア)遺跡・カンクン」~より )
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写真は「球技選手」(「ナショナルジオグラフィック 2007年8月号」~より)(リンク [7]
どっちも殺されるなんて・・・現代人のような死に対する恐怖心がなかったのかもしれませんね。それでもやはり「生贄」として殺されることが名誉だったんでしょうか。
もう一つ、

7世紀の初め、ティカルで薄幸の運命を背負った二人の王が生まれた。バラフ・チャン・カウィールは幼いうちに、交易の拠点ドス・ピラスを支配すべく現地に送られ、もう一人はティカルの王となる。ティカルの敵国カラクムルは、ドス・ピラスを征服し、その王を捕らえてティカルに立ち向かわせた。ドス・ピラスはティカルを打ち負かし、バラフ・チャン・カウィールは自分の兄弟を含む血縁者を生け贄に捧げた。ドス・ピラスの階段には、「頭蓋骨の山が築かれ、血の川が流れた」と刻まれている。しかし、ティカルとカラクムルの覇権争いは続き、暴力の連鎖は古典マヤ文明に破滅的な結末を招いた。

(「ナショナルジオグラフィック(闘う運命の兄弟)」~より)(リンク [8])
これは、敵を生贄にした事例です。でも敵といっても兄弟や血縁者など身近な集団だったのでしょうか?
また、上段の球技の試合ですが、試合をするのはどちらも奴隷だったという説もあるようです。

川のないユカタン半島では、ため池や地下水をたたえた池をセノーテと呼び、セノーテは水を供給する聖なる場所として祀られていた。直径60m、水深80mにもなるチチェン・イッツァの「聖なるセノーテ」から、大量の人骨や装飾品・宝石などが発見された。この聖なるセノーテは雨の神チャックのすみかと信じられ、定期的に生け贄が捧げられたようだ。生け贄は子供から処女、男性にまで及び、生きたままこの泉に投げ込まれたという。

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(「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」~より)(リンク [10]
この生贄は、敵や捕虜ではないようですね。しかも生贄の舞台が「神殿」ではなく「聖なる泉」で、儀式というにはシンプル(?)に投げ落とすだけで、これも何か目的の違いがあるのでしょうか。
【人々の自然観・死生観は?】

どこまでも自然を愛した人々だからこそ、自然の周期性に気づいたのだし、自然を尊んだ。自然の神秘はそのまま神の所業であると考えられ、自然のあらゆる場所に神々を見出した。現在の多くの人間にとって死は終わりでしかないが、マヤの人々にとって、死は終わりではなかった。彼らから見れば、死を与えることは残虐でもなんでもなかったのかもしれない。

(「神が舞い降りるマヤの都チチェン・イッツァ」~より)
なるほど自然と神が密接に繋がっているんですね。

マヤの人は、この世よりあの世を本当の人生であり、この世は魂が修行をするための世界でしかないと考えていたので、死を恐れていなかったと言われている。神へ捧げられることは、更にステージの高い天国へ行けることを意味していたので彼らにとっては最高に光栄なことだったらしい。

(「マヤ(チチェンイッツア)遺跡・カンクン」~より)
自分達が中心と考える現代人と、神が中心と考えるマヤ人との違いを見るようです。
自分が中心なら死んだらそれでお終いですが、あくまで主体は神であり、あの世に行っても神に仕える事が続いているという考えからは、「死」ということに何のマイナス的な意味はなく、次のステップに進むだけということなのですね。死は終わりではないということです。
るいネットでもマヤ文明と生贄についての考察がありました。
■「るいネット マヤ文明の社会統合軸2 亀若雅弘」 (リンク [11]

さて、もう一つの社会統合軸に当たるのが、「人身御供」という点です。スペインによって徹底的に破壊され、残されている文献も数少なく、またマヤ文字もいまだ解読中なのですが、基本的には「血」を神殿に捧げるという点です。当初は体の一部分を傷つけていたのが、後には自ら命を捧げるということになりました。それが徹底されたのは「アステカ」ですが。
これもマヤの住民に課せられた「社会的役割」と考えられています。毎日のように捧げ物が必要だったようです。特に子ども、女性が多かったと考えられています。
重要な点はこの「人身御供」が強制的な役割ではなかったと考えられている点です。自ら進んで「人身御供」になり、自分の血を神に捧げるのを無上の喜びとしていました。
となると、絶対的に不足するのではないかとも考えられ、都市国家間の絶え間ない戦争の捕虜がその役割を担っていたという説もあります。
また、神殿を中心とする住居エリアに常設されている「球技場」では、「人身御供」を決める役割もあったと考えらています。勝者が「人身御供」になるか、敗者が「人身御供」になるかはまだはっきりとはわかっていないようですが。
このことからマヤの神殿システムが社会統合上、いや、社会統合のためには神殿が欠かせないものとなったのではないでしょうか。

ちょっと盛りだくさんでしたが、生贄は結局誰なのか(誰でも良いのか?)疑問が残りました。次回はこの辺をもう少し探ってみましょう。

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