2006.10.11

考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。

こんにちわ ちわわ です。 よろしく 🙄 !
縄文って奥深いですねー。
おもしろい意見があったのでこぴぺ します。
考古学では「少数渡来」、人類学では「大量渡来」。
この全く正反対の結論を、どのように整合させたらよいのか。
この難問に挑んだのが、九州大学教授で形態人類学を研究する中橋孝博氏である。
先ほど甕棺の人骨は、最初の渡来から200-300年が経った時期のものであると述べた。
中橋さんは、この時間差に注目した。
つまり、考古学が示すように、当初に渡来してきた人々の数は決して多くなかった。
しかし数百年のうちに渡来系の人々は、その数を増やして、
人類学が示す渡来系一色の状態が作り出された。
これが中橋さんが両者を矛盾なく説明するために立てた仮説だった。
結論を先取りして言うと、
渡来系の人々は爆発的に人口を増加させる事によって、
あっという間に縄文系の人々の人口を追い越し、福岡周辺の平野を埋め尽くしていったのだ。
中橋さんの研究から、縄文系と渡来人の人々の平均寿命も明らかになっている。
縄文系の平均寿命は僅か 14歳、これに対して渡来系は 👿 25歳である。
このように書くと現在の我々との余りの落差に、どちらも短命だったように見えるが、これは乳幼児の死亡率が非常に高いためである。
渡来系の人々でも成人になるまでに生きられる人は、半分程度だという推計が出ている。
だが、乳幼児の危機を乗り切ったひとが、
その後に何歳くらいまで生きられたかを見てみると、縄文系と渡来系では大きな差が出てくる。
中橋さんは一例として15歳の女性の平均余命(=15歳の女性が平均して、あと何年生きられるか)を挙げている
それによると縄文系が 16年なのに対して、渡来系は 30年を超えている。
これは単に、その人が長生きでおめでたいと言うだけの話ではない。
女性を引き合いに出したのは、わけがある。
つまり15歳を出産開始年齢と仮定すると、子供を産める期間が16年から30年へと倍増しているのである。
これは渡来系の人々の方が、縄文系の人々より、かなり子だくさんだった可能性が高い 🙄 事を示している。
水田稲作という安定した生産基盤が持つ高い人口支持力。
良好な栄養状態に支えられた長い寿命と多産。
渡来系の人々は、縄文系の人々に比べて遙かに増殖力の高い人達だった。
これが人口爆発を引き起こし、容易に縄文系の人々の人口を逆転できた要因だったのだ。
渡来人は年に十数人しか渡来しておらず、専従縄文人と対立するほど集団の体を成していなかったのではないでしょうか。

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2006.10.10

縄文人はどうやって渡来人を受け入れた?

縄文人は、突然やってきた渡来人を特に争いもなく受け入れ、一緒に集団を作っているのが不思議だなぁと思ったのですが・・・
私も不思議 🙄 と思われた方、ポチッとお願いします
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2006.10.07

メソポタミア文明:女性の意識

メソポタミア文明の婚姻制は概ね一夫一婦制で、極端な父系社会であったようです。
メソポタミア文明は様々な王朝の興亡=戦争の歴史が示しているように、支配の歴史でもあります。
そのような、支配圧力の中で部族間圧力も強かったようで、男上位の社会になったものと思われます。
しかも、極端な男尊女卑だったようです。
女性の意識に焦点を当てると、なぜそんな男尊女卑の世界になったか がわかると思います。
さーね

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2006.10.07

メソポタミアの文書は初期何に使用されたか

メソポタミア文明では、現在のところ最古の文書として残るのは、農作物や家畜の数を記録した粘土板だそうです。メソポタミア人にとって所有するということを記憶したり、証明するために文書が必要とされたのではないでしょうか。

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2006.10.03

古代文明の追求 その2 (当面のテーマとして)

世界の古代文明を探っていくにあたって、
当面追求していく必要のある点をまとめてみました。
基礎データを収集し、追求していく上での視点をまとめてみたものです。

●基礎データの把握 
(メソポタミア、次いで巨石文明、エジプト、インド、中国、メソアメリカ)
・気候変動、生業、掠奪・戦争、集団形態・婚姻形態、
集落、都市・神殿の変遷、身分制、税制、金属器、武器、
神話・信仰、交易、文字や数学・文学・・・と多岐に渡る。

 →年表の作成で時系列的にて関係性をおさえる。
 →そのためにも、基礎情報の収集投稿をしてください。
・さらにディティール情報として項目毎のデータ蓄積と整理:
A:都市、家屋、服装、
B:生業全般(食料、職業、技術全般)
C:掠奪と戦争、武器
C:社会制度全般(部族社会→神殿と国家、階級、税制)
D:集団形態と婚姻制
E:市場と交易
F:神話と信仰
F:文字、数学、文学
G:他

→上記のネタ、見つけたらお願いします。
ちょっとしたものでも結構です。    
  
●追求する上で、実現論をベースにしつつ以下4つの視点が追求ポイントになると思います。かつ、この点はメソポタミアのみならず、他の文明でも追及ポイントになるはずです。
それぞれの視点での事実収集と構造化が課題です。(但し、巨石文明は、別途要)
もちろん、360度からの追求が必要なので、抜けなどがあればどんどん投稿お願いします。

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2006.10.03

古代文明の追求課題 -そのⅠ-

縄文に続いて、世界の古代文明の追求へ!・・・・
>人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られている。
どこから見直すか・・・・、世界は広すぎて少しとまどってしまいますが、古代文明が始まった最初の部分にやはりカギがあるはずです。
古代文明は、都市国家の成立時期から推測すると以下のような伝播ルートが想定されます。
メソポタミア(前3400年頃)
   →エジプト(前3100年頃?)
   →中国 草原の道を通って黄河流域へ(前2000年頃?竜山)
   →インド(インダス文明 前2500年頃→ガンジス流域の都市国家)
   →地中海の都市国家群(フェニキア、ギリシャ)→古代ローマ 
これはメソポタミア近辺で掠奪闘争が開始され、玉突き的に世界各地へ伝播していったこと、そして掠奪闘争の勝ち抜き戦を通して、その覇者が各地で古代文明(都市国家→国家)を成立させたことを伺わせるものです。
従ってまず・・・

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2006.10.02

オリエント―遠隔地交易人の登場

長い古代メソポタミアの歴史のなかで交易は発達したが、その中心は遠隔地交易にあった。この遠隔地交易は支配者の必要を満たすものとして、常にその独占と統制の下に置かれた。交易商人は、宮廷の官吏あるいは御用商人、一定の出自を持つ自国人商人、そして居留外国人商人という構成になっていた。
そうした中で、交易都市の形成、関税や通行税の徴収、度量衡の制定、そして法典の制定の必要性が生じてきた。
>この私権「文明」は、人類を含めて全ての生物がその中で育まれ、進化してきた本源集団を破壊した上に築かれている。しかも、

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2006.10.02

メソポタミア文明におけるハンムラビ法典の概要。

紀元前3500年頃、メソポタミア(現在のイラク)に、最古の文明が花開きました。その担い手は、シュメール人といわれています。
彼らは、都市国家を作り、金属器を使い、世界最古の文字を発明しました。この文字は、粘土板にアシの茎を斜めに切ったもので刻まれ、その形状から楔形(くさびがた)文字と呼ばれています。
そして、前1800年頃、この文字を使って書かれた全237条の法典が登場します。これが、「ハンムラビ法典」です。ハンムラビとは、当時メソポタミアを支配していたバビロニア王国の国王の名だそうです。
現代でも言われる「目には目を」。あまりに強烈な印象を与えるこの言葉は、実は、ハンムラビ法典に由来しています。
しかし、その意図は現代の解釈とは異なっている。
現在一般に「やられたらやりかえせ」の意味で使われるが、元来はハンムラビ法典196条に由来している。この法令は、復讐を認めた法と曲解されることがあるが、倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐのがこの条文の本来の趣旨である。
その内容を見ていくと・・・「もしある市民が、他の市民の目をつぶすならば、彼の目をつぶさなければならない」←この部分が「目には目を!」ですね。
また、第200条には、こうあります。
「もしある市民が、彼に対等の市民の歯を打ち折るならば、彼の歯を打ち折らなければならない」
「歯には歯を」なのです。この、「同害復讐」の原則こそ、人類が初めて制定した法なのです。
もっとも、ハンムラビ法典は、カンペキな同害復讐法だったというわけではなく、身分によって刑罰が違っていたようです。たとえば、奴隷の目をつぶしても、自分の目をつぶされることはありません。傷つけた相手が奴隷だからです。その場合には、罰金だけで済みました。あくまでも、支配者階級の法律だったんですね。
また、ハンムラビ法典に基づく裁判は、かなりいいかげんな部分も多く、立証不可能な訴訟に関しては、容疑者を水に投げ込んでみるんだそうです。そして、おぼれて死んだら、彼は有罪、浮かんできた場合は無罪となり、逆に原告の方が虚偽の告発をしたかどで死刑となったんだそうです。(!?
「・・・!?」絶句の一言に尽きますね・・。
補足をしておくとこの場合の投げ込む「水」というのは「選ばれた川」のことである。
当時は川は神聖な場所とされており、川に投げ込むことで審判を神に委ねるといった解釈で行われており、最終審判として行っていたようです。
以下参照。
『フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2006.09.30

縄文晩期の気候変動が農耕につながった?

るいネットの衛藤さんの投稿にタイムリーな気象データーがありました。
日本列島のヤンガードリアス期後の1万年前からのデーターです。縄文時代の気候状況
>10200~10000年前  再び急速に上昇
10000年前  -2℃日本列島分離
10000~ 7500年前  ここからはゆっくり上昇
(9500年前まで漸暖期)
(8000~5000年前ヒプシサーマル(高温期))
7500年前  0℃
7500~5000年前  さらに上昇
(6500年前~照葉樹林)
(5700年前~スギ林)
5000年前  +2℃最高期縄紋海進期海面+5m
5000~4000年前  急速に下降
4000~3000年前  0℃かすかに上昇がみられる
(3500年前サントリーニ火山の大爆発)
3000~2500年前  急速に下降
(2500年前まで減暖期海面0m)
2500年前  -1℃極小期
2500~2000年前  急速に上昇
2000年前  0℃現在まで続く
注目していただきたいのは太字の部分です。BC1000年、この時期は世界的にも大きな気候変動が起きています。気候変動は同時に世界の文明史を大きく動かす事になります。
中国は安定した殷の時代が終わり、この後戦国時代に突入します。
また西アジアではアッシリアができ、ユダ、イスラエルが登場し各国がせめぎあう時代に入ります。
ヨーロッパでは鉄器時代に突入し、ギリシア支配が始まります。その後しばらくしてギリシャ哲学が生まれます。つまりBC1000年~BC0年は世界中で思想(宗教や哲学)がはじまり現在の国家の原型がでいあがる時代です。
当然、縄文時代においてもこの時代に大きな変化が起きているはずです。
その上で3000年ー2500年の気候変動の動きは一つの軸になるのではないでしょうか?
海岸線が変わるほどのこの時期の気候変動、どれほど凄まじかったのだろうか?
大阪平野もこの時代に生まれたと言われています。
何か情報がありましたら投稿願います。
追記に縄文時代の主要な遺跡と気候に関する情報をまとめてあります。大雑把に縄文時代を押さえるのに使ってください。
(tano)

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2006.09.07

縄文ブログがリニューアルしました!

今月から旧「縄文時代を探索しよう!」が新たに「縄文と古代文明を探索しよう!」にバージョンアップしました。これまでの縄文関係のテーマに加えて、世界の4大文明+中南米の古代文明を含めて探索していこうという試みです。
さらに、記事の執筆者も、主旨に賛同していただいた方々も加えて、このブログを盛り上げていこうと考えていますので、みなさんよろしくお願いします。
さて、歴史に学ぶとよく言われます。また温故知新とも言われます。しかしそれらの言葉の本質は以下の言葉に結集されています。つまり歴史を学ぶスタンス・目的を実現論では端的に表しています。
>人類の原基構造を解明できれば、その構造のどこが不変部分でどこが可変部分かを知ることが出来る。そして現代社会の諸問題(諸欠陥)と突き合わせれば、どこが変えてはならない部分でどこが変えるべき部分かを突きとめる事が出来る。つまり、その構造体のどこをどう変えれば良いかの答えを導き出す事が出来る。(実現論より)
ちょうど「原基構造の不変部分と可変部分」というるいネットの田中素さんの秀作投稿リンクが最近ありましたので紹介します。

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