2006.11.09

シュメールってどんなところ?

田村です。
シュメールについて調べていますが、そもそもシュメールが存在したメソポタミヤ南部とはどんな地域なんでしょうか?調べて見ました。
以下、南風博物館より引用
>メソポタミア文明の発祥の地、メソポタミア南部平原の遺跡を、時代ごとにまとめてみた。
 ティグリス・ユーフラテス川が複雑に入り組み、またその多くの支流が織りなして造りだした広大な平野は、ほとんどが湿地帯であった。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/maps/southernmesopotamia.html

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posted by nandeya at : 2006年11月09日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2006.11.08

縄文人の集団規模と共認の関係

ちょっと前に、「縄文集団が小規模なのはなんで?」 🙄 というみつこさんからの投稿がありましたが、ワタクシ、ぴんぐ~も調べて見ました。
縄文時代の集団規模が単位集団(核家族数単位分)であった理由
ポチっと押してから次へ進んでね~ 😛
 
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posted by postgre at : 2006年11月08日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2006.11.07

倭人のルーツ~地図より

タノです。
弥生が熱いですね。 😮
面白いHPがありました。個人の方の資料なのですがよく調べてあり、縄文後期~弥生の倭人の動きと日本列島での移動状況がわかります。
弥生を概観する上で参考になります。以下の文章を読んだ後に地図を見てください。
地図ですリンク
>倭人のルーツを単独に特定することは非常に難しいが、一般的には大きく三つの地域の人種が融合した結果が、現在の日本人を形成していると考えられている。その三つの地域の人々とは、

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posted by staff at : 2006年11月07日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.11.06

エジプト文明はどうやってレバノン杉を手に入れた!?

古代エジプト文明はピラミッド内部の王室や柩を作る際に良質な「レバノン杉」を利用していたという。
では、一体その杉をどこからどのようにして手に入れていたのだろうか??? 🙄
定説ではレバノンまで木こりを派遣して伐採をし、輸入していた。とあるがここでは違った考えをしてみたい 8)
☆ギルガメシュ叙事詩から考察してみよう
かの有名なギルガメシュ叙事詩によるとギルガメシュ王は実在していたのはウルク第一王朝時代である
叙事詩が書かれたのはウル第三王朝時代(今から約2000年前には書き始められていた。)
ここで注目すべきは叙事詩の「第三節~第四節」である

ギルガメシュ王がエンキドゥと【レバノンの森】へフンババ(獣)退治に行くのが記されている
これは驚くべき発見ではなかろうか
そう・・・・・・・・・・・・すなわちウル王朝のレバノン侵攻では
当時のレバノンは【山地】で【緑豊かな国】であった。
ということはメソポタミア(ウル王朝)に住む人から見ればレバノン人は山に住む獣同然だったと伺える :blush:
メソポタミア地方はもちろん河川流域なため材木には乏しい=材木が欲しい 😈 (良質な
フンババ(獣)退治とは勝者の歴史上言えるのであって、ただの侵攻では・・・?? 😥

こうして良質なレバノン杉を手に入れることができるようになった。。。
が・・・しかしその後・・・ 8)
メソポタミア(ウルク含め)地方の国々はエジプトの支配下に・・・
⇒こうして古代エジプトはメソポタミアを介して良質なレバノン杉を手に入れたのでは
こう考えれば使う海路は地中海のみなので古代エジプト文明の造船技術の低さも納得がいく
恐るべし古代エジプト おいしいとこだけ頂いちゃうんやね :blush:

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posted by postgre at : 2006年11月06日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2006.11.05

環壕集落ってなに?

こんにちは、yuyuといいます。
最近、ブログ「新しい日本の歴史」を読んで勉強しているんですが、その中で「環壕集落」がでてきたので、少し調べてみました。
>大和286、河内・和泉175、近江155 この三ヶ所は、最大の環濠集落を有する所です。順番に、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。下之郷遺跡にいたっては、3条の内濠(内郭)と6条の外濠(外郭)の合計9条の構造になっていて、いかに、外部からの攻撃を恐れたかが判ります。
河内・和泉には、池上・曽根遺跡があります。環濠というものの、深さは浅く防御用とは考えにくいですが,河内平野にある巨大古墳は、中国人との関連でみる必要があると思われます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page571.html
(「新しい日本の歴史」No16式内社が教えてくれること その3より)
>環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
(ウィキペディア「環濠集落」より)
なるほど読んで字の如く、周囲に堀をめぐらせた集落のことなんですね。
  iseki.jpg    
  (大塚遺跡) 
  hukugen.jpg
  (大塚遺跡の復元図)
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posted by yuyu at : 2006年11月05日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2006.11.02

吉野ヶ里は漢人の日本侵略拠点ではないか

はじめまして 😀 、くまなです。よろしくお願いします。
ブログ「新しい日本の歴史」の内容を紹介します。
当該ブログの論説では、弥生時代を、日本国内での漢人(中国)と天皇(朝鮮)の対立抗争の時代という構図で描いています。その中で、吉野ヶ里遺跡は、日本における漢人(中国)の拠点と位置づけておられます。
【論旨】
漢人(中国系)は、吉野ヶ里を拠点に絹(主に秩父から)の集荷と輸出を行い、九州南部(熊襲:漢人系か?)との協力関係も築いていた。一方、朝鮮人(天皇系)は、九州北部に拠点をもち、吉野ヶ里の包囲網として周辺に神明宮(祭祀:天照大御神)を数多く配置する。とくに漢人と熊襲との結びつきを断つために天草周辺には多く配置し、苗族を入植させた。遠賀川流域の岡田宮を拠点に吉野ヶ里を攻撃した。
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以下に詳細な記述を掲載させていただきます。

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posted by kumana at : 2006年11月02日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.11.01

古事記って。。。(その2)

前回の続きです~。
つぎつぎと日本各地を征服(平定?)していったイザナギとイザナミはどこからやってきた人たちだったのでしょう

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posted by bunchan at : 2006年11月01日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2006.11.01

古事記って。。。(その1)

はじめまして、ぶんです  よろしくお願いします。
古事記は、和銅五年(712年)太安万侶によって献上された日本最古の歴史書 です。
稗田阿礼が暗誦していた『帝紀』(天皇の系譜)・『旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものです。
上巻(かみつまき)には、天地開闢から日本列島の形成と国土の整備が日本神話の形式で語られています。
天地開闢とともに様々な神が生まれたとあり、その最後にイザナギ、イザナミが生まれた。二神は高天原(天)から葦原中津国(地上世界)に降り、結婚して結ばれ、その子として、大八島国を産み、ついで山の神、海の神などアニミズム的な様々な神を産んだ。
こうした国産みの途中、イザナミは火の神を産んだため、火傷を負い死んでしまった。
そのなきがらは出雲と伯耆の堺の比婆山(現;島根県安来市)に葬られた。イザナギはイザナミを恋しがり、黄泉の国(死者の世界)を訪れ連れ戻そうとするが、連れ戻せず、国産みは未完成のまま終わってしまう。
イザナギは、黄泉の国の穢れを落とすため、禊を行い、左目を洗った時に天照大御神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗った時に月読命(ツクヨミノミコト)、鼻を洗った時に須佐之男命(スサノオノミコト)を産む。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98(ウィキペディアから抜粋)<
実は、この神話の意味って侵略と同類闘争の過程を述べているものだったようなんです!!

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posted by bunchan at : 2006年11月01日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2006.10.29

縄文貝塚は防腐剤?

貝塚を単なるごみ捨て場と思ったら、明らかに間違いであろう。とにかく、いろいろなものがこの遺跡から出てくる。縄文の“玉手箱”である。ここからしばしば、人骨も出土するので貝塚墓地とも呼ばれる。
 県内では八戸市の長七谷地貝塚などでも、人骨が見つかっているが、その代表的なケースが上北町の古屋敷貝塚(縄文前期中葉)だ。ここからは若い成人女性と胎児のそれが出土している。二十歳前後と推定される女性の周囲には、貝殻が敷き詰められていたため残存状態が良好で、ほぼ全体の骨格部がそろっていた。
 三内丸山遺跡もそうだが、概して日本は酸性土壌のため、古い人骨は残りにくいといわれている。それでも、考古学教授の小林達雄さんが書いた「縄文人追跡」によると、これまでに発見された縄文人骨は一万体以上に上り、弥生人のほぼ三倍以上になるそうだ。弥生より古い時代にもかかわらず、縄文人の遺体が多く見つかるのは縄文人自らが築いた貝塚のおかげ、と小林さんは書いている。
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_09.htm
さーねさんから紹介いただいたテーりー東北新聞社のコラムからの紹介です。
貝が遺体の酸化を防いだという事でしょうか?
それにしても縄文人の人骨は1万体も発見されているとは知りませんでした。
弥生時代がその1/3というのは貝のせいもありますが、縄文時代に比べて600年と時代の期間が1/20しかないのも原因かもしれませんね。人口が増えたのも弥生後半になってからだし・・・。
tano
 

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posted by staff at : 2006年10月29日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

2006.10.26

自然を利用する天水農耕と、自然を克服する灌漑農耕

メソポタミア地方では紀元前約4、5千年前にウバイド文化が起こります。時はちょうどそれまでの小氷期時代に温暖な地域を求めてメソポタミア一体に南下してきた人々が、その後のヒプシサーマル/クライマティック・オプティマムと呼ばれる長い温暖の時期に作った文化だと推測されています。
さて、この時代にはメソポタミア南部の低地帯を中心とした”灌漑農耕”と、北部の”天水農耕”の2種類の農耕様式があったようです。その後のシュメール文明を支えていったのは、後に再び寒冷化が始まり(紀元前3700年前ごろ)乾燥化が進んでいった南部だったようです。
何故北部メソポタミアではなく、南部の方が発展していったのでしょう。
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posted by saah at : 2006年10月26日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

 
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