2006.11.21

縄文人の食卓

9/13カッピカピさんの『縄文人の主食「木の実」について』の記事に引き続き縄文人の食べ物シリーズです
前回は木の実や山菜、サケやマス、イノシシなどを食べていたことがわかりましたが、なんと今回は驚くべき発見を
なんと、ハンバーグを食べていたそうです。
縄文人ってなかなかグルメ
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posted by pingu at : 2006年11月21日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2006.11.19

中国文明~なぜ漢字=表意文字か?超国家を統合するためだった!?

中国4000年の歴史~とよく言いますね 😀
黄河文明や長江文明~夏王朝をきっかけとした様々な王朝の興隆 …いろんなサイトに、その長さと数々の興亡 が記されています
今日は、黄河・長江文明後のいかに国家を成立させたか
漢字=表意文字であることが、実は国家を成立させるのに非常に重要な役割を担っていた
ちなみに今日は歴史サイトからの引用ではなく、面白いことに中国ビジネス系のサイトからの引用です
中国産業レポート  上海平野磁気有限公司  董事長 平野 信幸
第11回 <歴史に中国を観る> 第壱項
http://www.chinawork.co.jp/e-hirano/hirano-11.htm
ちなみに第弐項もなかなか面白いですよ~
日本人も普段使っている漢字
日本人なら読んでおかないとー

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byさーね 🙄

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posted by sawatan at : 2006年11月19日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2006.11.18

長江文明の担い手『苗族』が日本に渡来し、稲作文化を伝えた

苗族(ミャオ族)って知ってますか?
ウルルン滞在記でも時々紹介されているらしい。
今も中国の貴州省や雲南省に住む少数民族http://www.china.org.cn/ri-shaoshu/miao.htmで、その祖先が長江文明の担い手だったと言われています。
彼らは長江流域で稲作を営み、太陽・鳥・蛇を信仰し、太陽族・鳥族・蛇族の三苗と呼ばれました。
その彼らが、4000年前頃の気候変動(寒冷化)に伴い、北方の牧畜民(漢民族の祖先)が南下し、牧畜民との戦いに敗れ?、あるいは移動せざるを得なくなり、長江文明も滅んだとされています。
そしてその際、苗族は長江奥地の雲南省などに移動したわけですが、一部は船に乗って九州へ渡り、稲作文化を伝えたとされています。
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posted by nishipa at : 2006年11月18日 | コメント (6件) | トラックバック (0) List  

2006.11.17

中国・朝鮮から日本への渡来ルートを探る

clip_image002.jpg
縄文から弥生にかけて、大陸の人が東シナ海や朝鮮ルートを通って九州北部に渡来してきた。その後、縄文人と混血したり戦争を通じて国家統一を成し遂げた、というのが定説になっているようですが、「「新しい日本の歴史」
にこれと違う見解が書かれていましたので紹介します。
>丹後半島の中国人  その2
中国人が九州にいっぱいやって来たことは、書きました。九州に限らず、日本海の各地には流れ着いたと思います。韓国から九州に直接来ることは相当エネルギーが必要です。中国の福建省あたりを出発しますと九州に到達します。韓国辺りを出発すると島根半島から丹後半島の間と思います。
魏志倭人伝に倭国の国々の名前が挙げられています。九州の末盧国から始めますから、日本史は訳の解らないものになりました。やはり、松江に最初に着いたことにすれば、邪馬台国は吉備の辺りになります。

であれば、出雲や丹後半島の伝説でよく知られる
イザナギノミコトや天照大神系の人たちは朝鮮から渡来
九州北部に到達した人たちは中国南部から渡来
ということになりますが、実際どうなんでしょうか?
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posted by postgre at : 2006年11月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.11.15

ユダヤ人は弥生時代に日本に到達している!

こんばんわ!tanoです。 🙂
この話はかなり有名な話で聞いたことのある人も多いかと思いますが、私は最近知るようになりました。最近勉強させていただいているブログ「新しい日本の歴史」でもかなり力を入れてこの事が書かれています。
著者の説によるとユダヤ系民族は紀元前に朝鮮半島から日本に渡り、主に岡山県を活動拠点としていたようです。
神の付く地名が岡山県にたくさんあり、ユダヤ人は主にその地を渡って絹を運んでいたのではないかと考えられています。また有史では初代天皇とされている9代神武天皇はユダヤ人という説もあり、神武天皇の吉野が里征服、国家統一にユダヤ系渡来人が大きく寄与したとの事です。

以下ブログからの転載です。
岡山県小田郡笠岡町に神ノ島があり、その南隣が、神武天皇が八年駐留したと言われる高島です。この地域の式内社の分布は、美作11 備前26 備中16 備後 17 安芸3 というように、全部あわせても、73社です。他地域に比べて圧倒的に少なく、これだけしか式内社を獲得できなかったと言うことでは、漢人が入る余地がなかったことなり、天皇勢力の強かったことは確かです。
これらのことから、ユダヤ人は、早い頃から、天皇の側についていたようですし、神武天皇の東征のおりには、いろいろの面で援助したことが推察できます。また、神武天皇が、安芸に七年、吉備に八年駐留した理由も説明がつきます。
それでもユダヤ人が日本に来た、さらに天皇家の血に流れている、というのはまだ根拠が不足しているのでは・・・・
と疑う方は以下を読んでみてください。 8)
isemark.jpg
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posted by staff at : 2006年11月15日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2006.11.15

弥生期以降の氏族系統(2)

弥生期は、様々な異民族が日本に流れ込んできた激動の時期だったようですね。
引き続き、その様子を見ていきたいと思います。
【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm
その王家の支族は二世紀前半頃に筑前海岸部へ遷住(いわゆる「天孫降臨」で、「日向」とは筑前国怡土郡から那珂郡にかけての一帯とその近隣地域のこと)、更にその王族庶子が遙か東方の大和へ移動して(いわゆる「神武東遷」。後記)、二世紀後葉に原初大和朝廷を形成した。
この王家一族の後裔諸氏の多くは、皇別(皇親)や神別の天孫に属したが、初期大和朝廷の王統(皇統)自体はこの部族内で交替があったとみられる。天皇家のほかでは、物部連、出雲臣、額田部連、服部連、鳥取連、玉祖連などを代表とする。
  この種族の源流は、中国古代の周・殷・羌族などの東夷系(北狄ともかなりの混血があったか、習俗で似通ったものがある)に通じており、箕子朝鮮の王族ないし扶余王族の流れとしてよさそうである。地域的には、朝鮮半島南部の伽耶(とくに安羅)→忠清南道北部→中国の遼西→山西省南部、さらにはその遠い源としては西域まで遡る可能性がある。また、西域から四川省に進出し、古代三星堆文明を築いた種族も同族とみられる。
  この一派として別途、遅れて日本列島に渡来したのが天日矛の一族であり、子孫が一旦朝鮮半島に戻って暫時留まった後、その子孫(この引率者も同名の「天日矛」として伝える)が再来日して但馬の出石地方に定住した。出石定住は三世紀前半頃とみられる。
  以上の三ないし四の種族・部族が主となって融合して、現代の日本人の多くにつながってきたものとみられるが、当然ながら、日本列島の中でも地域により混血の対象・程度に濃淡の差がかなりある。
なお、古代の蝦夷・熊襲・隼人などは、弥生文化を拒絶して辺地に居住した部族のようであり、古来からの山祇系の色彩が強い
(4) その後も絶え間なく、大陸や朝鮮半島から新しい文化や技術・信仰などをもって人々が渡来してきた。なかでも、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての応神朝頃の渡来の波(このときは弓月君を中心とする秦部族や、阿智使主を中心とする東漢部族が二大要素)、五世紀後葉の雄略朝頃の渡来の波(今来の漢人)が大きかった。
  七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入してきた人々も、また大量であった。奈良時代にも、大陸との交流を通じて人々がやってきたが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途断した。このころから一千年超の期間、現代日本人にむけての形成・融合の過程が着実に進行することになる。
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posted by naoto at : 2006年11月15日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2006.11.14

弥生期以降の氏族系統(1)

イザナギ、イザナミ、スサノオ、天照大神・・・ずっと、神話の世界の作り話だと思っていました。
でも、あれこれ探求してみると、実在していたようですね
だとしたら、彼らは何者?
ちょっと長いのですが、わかりやすく説明されているサイトがあったので、2回に分けて、紹介させて頂きます 🙄
【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm
○ 現代日本人は単一民族の後裔ではない。中国や朝鮮半島の国々と同様、上古以来、周囲から日本列島に流入したいくつかの種族が長い期間のうちに混合融解して形成されたものとみられる。その形成の時期・過程については明確には記述し難いが、言語や神話・祭祀などから、大づかみに把握することは何とかできそうである。
(1) 日本列島の形成が一万年ほど前のこととして、その前後から原日本人が居住していたことが考えられる。この主体を縄文人とか「山祇族」と呼ぶとして、わが国では狩猟・漁労、焼畑農業をしていたものであろう。
  この種族は、いまのクメール族(カンボジア人)や中国古代の三苗とか苗族と呼ばれる人々に類似の要素が見られ、本来、アジア大陸北方に居住していたが、次第に南方に居を移して、中国古代の南蛮と呼ばれるものの主力を構成していたものとみられる。この後裔諸氏の多くは、神別の天神に属したが、中臣連や大伴連・久米直・紀伊国造などを代表とする。
(2) 次に、中国江南沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部(忠清南道南部の松菊里遺跡に関係か)を経て、紀元前の時代(明確にはし難いが、前三~前二世紀か)に日本列島に到来してきた種族がいた。主として筑前・肥前北部の沿岸地域に居住し、水稲耕作農業を行い青銅器を使用して、わが国の弥生文化前期の主力を担ったもので(「弥生人」は、前者(1)との混血の結果生じたもので、語の用い方に注意を要する)、航海・漁労に優れた能力をもつ人々であり、「海神(綿積)族」と呼んでよかろう。
  この種族は、中国のタイ語族(現代の主要民族としてはチワン族など)やタイの人々に類似する要素が大きい。この後裔諸氏の多くは、神別の地祇に属したが、出自を仮冒して皇別や神別(天孫)に分類された諸氏も、また多い。阿曇連や和珥臣、尾張連、三輪君などを代表とする。
(3) 三番目に、中国東北地方の内陸部を原住地として、朝鮮半島を経、その南部を根拠として紀元一世紀代頃に日本列島に到来した種族がいた。鉄器文化や鳥トーテミズムをもち、支石墓や後期の朝鮮式無文土器にも関係したとみられる。古代朝鮮の箕子朝鮮、扶余・高句麗や百済・新羅、あるいは渤海を建国した部族とも同族の可能性が強く、「天孫族」と呼んでおく(これもやはり弥生人の一大構成要素であったことに注意)。
  この種族は、松浦半島に上陸して松浦川に沿って溯り、天山南方の佐賀平野を西から東に進んで、筑後川の中・下流域、水縄山地(身納山脈)の北麓~西麓の辺り、筑後国の御井・山本郡を中心とする地域に定着した。これが、『魏志倭人伝』に見える邪馬台国の前身たる部族国家(いわゆる「高天原」。ただし、この呼称はそれまでの居住地についても用いられた可能性あり)であり、こうした原始国家を二世紀初頭前後頃から形成し、それが魏朝のときに最盛期をむかえ女王卑弥呼などを出した。
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posted by naoto at : 2006年11月14日 | コメント (6件) | トラックバック (0) List  

2006.11.10

縄文土器の形・文様の意味~~自分たちの存在や仲間意識を示すマークでは!

日本最古(16500年前)の土器が青森県大平山元遺跡から出土しています。 縄文土器の特徴は、形は大きく色はあか茶色で大胆な印象を受けます。縄目、火炎および渦巻き模様が施されておりかなり複雑な装飾です。メソポタミア、エジプト、アメリカ、中国、ジャワ、チリ、エクワドル、南太平洋バヌアツ共和国で類似土器が出土しています。 🙄 縄文土器の発明はさーねさんの投稿にあるように食生活を大きく変えました。それだけではなく、移動型の狩猟生活から定住型の狩猟・漁労・採取の生活へ、生産様式にも大きく変化をもたらしました。
 狩猟採集を中心とした生活では、つねに移動することを強いられますが、食べものを貯えられるようになって、人びとは集落をつくって暮らすようになりました。そして持ち運ばずにすむようになると土器などの生活道具はしだいに大型化して行きます。
縄文土器の変遷を写真で説明したサイトを紹介します。
http://www2.airnet.ne.jp/shibucho/joumondoki.html http://www.gunmaibun.org/guide/6/6-2-2.html

土器の形はその時代の生活様式を物語る! ぜひ読んでみてください!

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posted by mukai at : 2006年11月10日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.11.10

縄文土器:必要だった!⇒貯蔵・煮炊きによって食生活が圧倒的に飛躍した

考古学上、土器は時代区分のモノサシの意味合いがあります。そうすると、~型式土器,~文土器のようにどうしても時代区分を示すだけのもの…そのように思いがちです
しかし、縄文人の意識を推察するに、やはり必要だったから土器をつくったのだと思います。なんで必要だったか?そこを解明することによって、縄文人の生活を推察することができると思います 😀
そこで、土器の形に注目して、一体どのように使われていたか を探りたいと思います。
財団法人 横浜市ふるさと歴史財団 埋蔵文化財センターhttp://www.rekihaku.city.yokohama.jp/maibun/mb14/tame14.html
からの抜粋です
byさーね
土器の形はその時代の生活様式を物語る!
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土器の形
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posted by sawatan at : 2006年11月10日 | コメント (4件) | トラックバック (0) List  

2006.11.09

遺跡分布図から見た生活様式の変遷

 旧石器時代・縄文時代・弥生時代の遺跡分布から当時の人口・気候・生活様式の変遷を推察
■旧石器時代
kyusextuki.bmp
 旧石器時代には定住化がまだ始まっておらず、住居や墓などの「遺構」は非常に少ない
遺跡は一部を除き、関東平野を含む西日本に集中。当時の海面は現在より100m程度低かったが、多数旧石器時代の遺跡を残していることから、狩猟採集を生活の糧としていた旧石器人は、動物たちの移動を観察しやすい高台で生活していたのでは
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posted by postgre at : 2006年11月09日 | コメント (1件) | トラックバック (0) List  

 
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