2006.10.26

縄文人って弓矢を発明?したんじゃないの?

るいネットやこのブログにて縄文の基礎情報がたくさん集まってきましたね 😀
今日は、一風変って、新聞社の縄文に関するコラムを読んでみました。その中でも、弓矢の存在に注目しました。
デーリー東北新聞社~縄文紀行 北日本の遺跡~実像に迫る
http://www.daily-tohoku.co.jp/kikaku/tyouki_kikaku/jomon/jomon_menu.htm
参考にしたコラムは
6.韮窪遺跡”新兵器”弓矢の登場
7.大平山元1遺跡 揺らぐ縄文の年代感
です。
上記のコラムを参考に考察すると、もしかして縄文人って弓矢を発明 したんじゃないの (というのはオーバーで、適応するために自ら生み出したのではないか という説です)
shuryoumondoki.gif
縄文後期:韮窪遺跡「狩猟文土器」⇒見事に弓と矢が表現されてます
by さーね
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posted by postgre at : 2006年10月26日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2006.10.25

人口減少に憂う縄文人

縄文時代の人口は気候変動などの要因もあり、中期に最盛期を迎え以後減少してゆきます。
縄文草創期 1万2千年~1万年前  人口不明   
・縄文時代の基礎構築時代
縄文早期  1万年~6千年前    約2万人     
・南九州で縄文文化が開花
縄文前期  6千年~5千年前    約10万5千人
・文化の中心が東日本に移る
縄文中期  5千年~4千年前    約26万1千人
・人口が最高となる・縄文文化の最盛期
縄文後期  4千年~3千年前    約16万人    
・気候の寒冷化・人口激減
縄文晩期  3千年~2千5百年前  約7万6千人  
・出生率の低下・渡来人の帰化始まる
縄文人は人口減少危機に対応するため祭りや文化を発達させていったようです。
土偶は、魔よけや動植物の繁殖、子孫の繁栄を願って製作されました。しかし、縄文中期には全国に26万人いた人口が、後期から晩期には7万5千人にまで急減したと推定されています。藤田富士夫氏は、縄文人がこの事態を新しい祭式を導入することによって乗り切ったと推測しています(「生と死の姉妹土偶」富山新聞2003年6月10日)。これまでの土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。真脇遺跡(石川県能登町)からは天狗のように目をつり上げて怒りをあらわにしている土製仮面(縄文後期)が出土しました。顔を仮面で覆い、呪術者が精霊に化身したと推定されています。
 この仮面祭祀が盛んに行われるようになることで、それまでの土偶の姿にも変化がおこりました。仮面を装着した土偶を製作することで、より一層の呪力や効果を期待しました。
 土偶が大型化し、独鈷石や石刀、石剣などの祭祀・呪術的な遺物が増え、桜町遺跡(小矢部市)のように祭礼の場とみられるウッドサークル(縄文晩期)が造られるなど後期~晩期は縄文時代の精神文化が色濃く表れてきます。
 長岡八町遺跡から出土した土偶は、わざとこわされ、谷に捨てられていました。こわして谷に捨てることによって、新たな命の誕生を願うまつりごとを行っていたと考えられます。2点もの大型土偶が用いられた背景には、縄文時代の長岡八町ムラが周辺地域の村々の人々が集まり、祭祀が行われていた拠点的な集落となっていたと推定されます。当時の人々のよりどころとなっていたのでしょうか。

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posted by tiwawa at : 2006年10月25日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2006.10.24

縄文集団が小規模なのはなんで?

こんばんは~、谷光です。 😀
しばらくインダス文明が続きましたが、縄文も追究続けます
と、言っても、、、 あぁぁ
今日はみんなで鷲田豊明氏の『日本社会システムの起源』を読んだのですが、なかなか理解できず・・・。そこでみなさんに質問 してみようと思います。
どれどれ、答えてやろう 😛 と思ってくれた方は、ポチっとお願いします

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posted by mituko at : 2006年10月24日 | コメント (2件) | トラックバック (0) List  

2006.10.23

インダスの人は装飾好き!?

インダス文明時代、インダスには紅玉髄という石や瑠璃の加工して作るビーズ工房がたくさんあったようです
またインダスから出土されている土偶は、これでもかと思うくらいの装飾品をつけているそうです
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi1/page004.html
さてさてここで少し疑問が
なんでそんなにインダスの人は装飾品をみにつけたのでしょうか
るいネットでもインダス文明についていろいろ議論されていて、こんな投稿を見つけました。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=120651
確かに現代人の感覚だと装飾品=性市場というのは考えやすいですが、当時の装飾が持つ意味合いは“魔よけ”の意味合いが強いと言われています。そう考えるとやっぱり“魔よけ”ためにたくさんの装飾品をつけていたと考えるほうが、妥当な気がします。
それじゃあなんでそんなに“魔よけ”に力を注いでたんだろう 🙄
またまた疑問が湧いてきました
どなたかこの謎が解明できた方いらっしゃれば、ぜひぜひ教えてくださ~いo(^0^)o

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posted by nkktchnm at : 2006年10月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.10.23

インダスの海上交易の不思議

>古代の交易が支配者の威信を維持するための財貨の入手にあるとき、メソポタミアとは違って、インダスには専制的で好戦的な王はおらず、ほとんどの奢侈品は自給されていた。事実、インダスにはメソポタミア産の遺物は、ほとんど出土していない。インダスが、確かにマガンの銅やメソポタミアの一部産品を輸入していたとしても、その輸入量はわずかであったであろう。
>インダスやペルシア湾の商人たちの、きわめて少数の船が少量の貨物を積み、年1回、せいぜい隔年くらいで、それぞれの交易地に訪れる程度であったとみられる。ただ、ペルシア湾内においては、安定的とはいえないとしても、連続的な海上交易が行われていたであろう。
 とあるが、これほどぜい弱な交易であっても、紀元前2500年~1800年までの約700年間は存続していたとされている。何故これほど長い間続いたのか、何が目的で行われていたのか、具体的に何が取り引きされていたのか非常に気になるところだ。
 その具体的なものとして提示されているのが、真珠や象牙、マガンの銅、メソポタミアの一部の産品である。つまりインダスの人々はマガンの銅が目当てで交易を行っていたのでは、と考えられる。もしくは、他の国々が真珠や象牙を目当てにしていたか…どちらにせよ銅の代わりに鉄が使われるようになってからはインダスの人々にとって交易があまり意味のあるものでなくなったのではないかと思う。

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posted by postgre at : 2006年10月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.10.22

始原の都市=シュメールの都市

その昔々、はるかかなたの地、紀元前3500年頃になるとメソポタミア南部にシュメールの都市 が現れ始める。
それは、神殿を中核とした城壁に囲まれた都市 だった。 神殿は神(主神)をまつるもので、時代を下るほど巨大になっていき前3100年頃には街を見下ろすほど巨大になっていく。面白いのは当初は、巨大な神殿はあるが、王の宮殿や王墓などはなく、かなり後になって前2700年頃に登場してくることだ。都市の中心は神殿であり、神官が力を持っていたらしい。この頃文字 も登場してくる。 
shumer_6.jpg

[ウルクの都市予想図、中央にジグラッドが見える]
by Hiroshi

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posted by ihiro at : 2006年10月22日 | コメント (0件) | トラックバック (0) List  

2006.10.21

インダス文明の謎?~インダス文明の担い手は-ドラヴィダ人って?

今晩は  さーねです
インダス文明を調べよう…色々探ってみましたが、謎だらけすぎます!! なので、一つ一つ解明していかないと無理そうです 😥
まず、インダス文明は誰が創ったの?=今最も有力とされているドラヴィダ人に焦点を当てたいと思います。 😮
今日引用したサイトは、●松本正剛の千夜千冊http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1005.html『インド古代史上下)』中村元著の解説より
ドラヴィダ人は、どうやら母系社会であった様。母系社会であるということは何を意味するのか
[採集生産の集団は、なぜ母系なのか?]
>①一般の哺乳類は、若♂放逐が本能原理=自然の摂理。
>②♀は生まれた集団に残る方が安定度が高い=女共認が形成しやすい。
>♀は元々集団収束力が弱い(=首雄に収束する性的存在・充足存在)。
>・集団は、生殖と生産(闘争)課題を包摂している。
>・本能次元では、♀は生殖(と充足)存在、♂は闘争存在。
>・外敵からの防衛を♂が担い、その安全域で出産・子育て・採集生産。
>・それを実現しやすい集団の在り様とは何か? という集団統合課題。
>;その素直な実現態が「母系集団」である。
(るいネット「遊牧の起源と特異性」父系集団の発生とそれによって刻印された問題http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=132199より)
ドラヴィダ人の集団は、女性が安心して暮らせる集団であったということ。この時期イラン高原では、遊牧部族によって玉突き的に掠奪闘争が勃発!多くの部族が掠奪集団化⇒父系制であったのに対して、インダス文明は、母系制=共同体的集団から始まっている!
byさーね
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posted by postgre at : 2006年10月21日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2006.10.14

縄文基礎情報/人口分布

縄文時代の人口分布について、調べてみました。
地域毎の人口一覧表はこちら→http://www.komenet.or.jp/database/culture/culture02/culture02-1.html
>縄文時代で人口が最大になるのが中期で、日本の総人口は約27万人でした。これを地域別にみると、人口の分布(図2-2)は西日本よりも東日本がより密で、東北と関東だけで全体の半分以上を占めています。この人口分布の地域的な差異は、野生動植物の資源量が日本列島の東と西で非常に違うことが原因と思われます。このため、東日本では西日本よりも安定した豊かな生活が営まれていたと考えられています。
地域毎の人口分布を年代別に表わしたのが下図です。

by eto
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posted by postgre at : 2006年10月14日 | コメント (3件) | トラックバック (0) List  

2006.10.13

縄文時代の海水面、気候変動グラフ

【縄文―基礎情報アレコレ】

●縄文時代の海水面、気候変動グラフ

 『縄文人と私たちhttp://www.jamstec.go.jp/jamstec-j/enlight/umihoshi/learning/2_0800.html』から

By 「R」

 

 

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posted by postgre at : 2006年10月13日 | コメント (0件) | トラックバック (1) List  

2006.10.12

縄文の時代区分

縄文の時代区分について、まだ明確にわかっていなかった ので、サイトで探索してみました 😀
以下「縄文文化と東北地方―東北の基礎文化を求めて」からの抜粋です。http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j21jyomontime4.html
>なぜ、土器の形式によって分類するのであろか。
>我々は、通常は時代を、あるエポックメーキング的な出来事・それが何年に起きたのか、ということによって区分していく。その多くは国の成立、支配者の交代など、何らかの権力の移行とそれに伴う社会/文化の変化であろう。
しかし、縄文時代はそのような考え方では分類出来ない。縄文時代の文化は、現在残っているものとして、土のなかから発見される遺物、とりわけその出土量が豊富な土器によってその特徴・広がり等を表さざるを得ない。しかし、土器は、地域・時代によって変化の速度が様々である。従ってこれが年代の数値的な変化を跡づけるものとはなりえない。そのため、山内清男がその研究理念で述べているように、土器型式の研究は縄文文化の相対的な時代区分の指標をつくるという作業仮説なのである。
時代区分の捉え方として、とても面白いと感じたと同時に、日常生活の変化や進化が時代区分となっているということ自体新鮮でした。ある意味、権力がはびこっている世の中ではなかったという表れでもあります。このような人々の意識を捉えた歴史観は、歴史事実を学ぶ時にも重要だと思います。
さーね

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posted by postgre at : 2006年10月12日 | コメント (5件) | トラックバック (0) List  

 
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