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中国における紙幣の発展

こんばんは~  みつこ 😀 です。
さーねさんの「中国文明~春秋戦国~国乱れる時…市場が発達する!」 [1]を興味深く読ませてもらいました。
なんと 、紙幣を世界で始めて発行したのは中国だそうです。宋時代に四川地方で流通した“交子”というものです。
その発達してきた過程を詳しく述べたもの があったので、長くなりますが、紹介したいと思います。
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ありがとうございます


『中国における紙幣の発展』 [4]横山俊雄氏著より
1.唐代に於ける金融機関の発生と発展
①櫃坊と寄付鋪

言葉の意味は「櫃」とは大型の金庫をいうと辞書にあり、「寄付」とは中国では他人に預ける事である。両者は同じ意味で中唐のころ、他人の財物を安全に預かる事を業とした商人が現れた。櫃とは「預かり業」の設備を、寄付とは預かる行為を示したものである。恐らく金銀鋪、絹鋪、珠玉鋪、質戸等の大型で丈夫な金庫を備えた商人の副業であったと思われる。

櫃坊あるいは寄付舗は唐代(618より907年)に発生し、始め預かり業であったが寄付鋪の信用が高まるにつれ「預かり証」の信用も高まり、これが支払いに使用されるようになった。さらに発展して為替手形、約束手形、小切手等を取り扱うようになった。

②銅銭の不足→為替手形→為替手形発行は民営から官営に

銭荒(銅銭の不足)は唐末の税法が金納に代わったのが原因で、貨幣が農村にも浸透しはじめ、社会が貨幣制度の中に突入したため銅銭が非常に不足した。これは、銅銭の価値が低いため多量の銅銭を必要としたためであった。そのうえ中国は銅地金の産出がはかばかしくなく銅銭の製造は需要に達せず、また金銀の産出も少なかった。

③金融機関の発達

銭荒のため銭は貴重となり物価は下がった。このため人民が蓄銭したので銭荒はますます激しくなり、蓄銭は金融機関に預けられた。政府は812年金融機関の蓄銭を吐き出させ銭荒を和らげようとして金融機関に弾圧を加えた。金融機関は始め政府の三司(為替手形取扱い部門)に銭を預け、皇帝の手が三司にのびるや、さらに宦官に銭を預け、ついに「預かった銭」を守りきった。
金融機関があらゆる手を用いて銭をまもったことは金融機関の信用を高めるとともに、その金力が政府に深く食い込んでいたことを思わせる。

個人の資産を国家から守った というところが信用の発祥?のようです・・・ うーん、でもこのあたりはどうなんでしょうね。   ただ、中国でも金融機関は民間から発生したのですね~。
☆さて、そうこうするうちに、中国では五代より宋にかけて産業が発展し、農村も貨幣経済へ巻きこまれてゆきます・・・
銅銭は価値が低かったため、大量に持ち歩く必要があり、不便でもあったようです。
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確かに、こんなの重たくて持ち歩けないし、郵送も大変そうですよね
2.私交子の発展

唐時代の金融機関である櫃坊は、始め預かり業であったが社会的信用がつくと預かり証の信用も高まり、預かり証が現金に代わって取引きに使われるようになつた。中唐の貨幣経済の躍進は預かり証を手形とし、重い貨幣に代わり手形が大口取引きや、高価な物件の取引きに多用されるようになった。

交子には「界」という制度があつた、恐らく始めは券の汚れで一定期間のちに新券と交換することで始まったと思われる。界は最終的には3年を「一界」とし、3年の流通期限で券の引換が必要であった。界の制度は1011年に始まり、またこのとき交子に単位が定められた。単位がどのように決められたかは不明。

3.交子が官営に。そして信用貨幣へ移行

1022年に私交子を禁じたのは、外敵に弱い宋の国内統治に原因があった。統治にさいし最も危険な四川にたいする対策として、四川に経済的圧泊を加え独立運動を起こす経済的余裕をなくし、しかも生活には困らぬ統治をするのが理想的であつた。

制度は民間と同じであったが異なるところは交子を国家公認とし、さらに国家の保証により流通した。始めは人民の要求により発行したので強制通用権は使用しなかったと考える。ここまでは紙幣的に使用された約束手形であった、しかしやがて預り金を財政に使用し、また兌換を積まず交子を発行し軍需品を購入した。交子は信用紙幣になった。

1024年は私交子が官交子になつた直後で、兌換準備金は手形と同金額だったと思われる。しかし、1051年に準備金は西夏の防衛費に使われてしまった。私交子を禁止し官交子にした目的の1つは西夏防衛費の不足に交子の兌換銭を当てる事であったと考えられる。恐らく私交子を禁止し官交子にしたのは差し当たりは防衛費が主目的で、併せて四川の強大になつた交子鋪の力をそぐ伝統的政策に沿うことになり、一挙両得の策として行われたのであろう。

交子は紙幣性を備えた手形から、官の都合で一方的に信用紙幣へと変えられた。しかし交子は界があり界が終わると券の交換または兌換が必要で、その際1000文につき30文の手数料が必要であった。制度からみて、交子には通用期限がある点と、兌換手数料がある点に、手形性がある。すなわち交子はこの時点で手形性が残る信用紙幣の段階に達したといえる。

なるほど~。
当初は換金に足りうるだけの準備金を用意していたのに、国家財政が苦しくなると、ついその後ろだてを「政府信用」という(実態があるのかないのか怪しいもの )にすり替えて、安易に紙幣を発行してしまうようになっていったようです。
実際、紙幣の乱発が信用不安を引きおこし、宋の末期にはその価値は額面の20分の1まで低下した、んだそうです。
長くなってしまいました・・・ 。読んでくれてありがとうございます

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