2009.05.30
新大陸での拡散、そして農耕へ・・・。
前回まで、新大陸に人類が渡ってきた過程について調べてみました。
その後新大陸の隅々まで拡散して行った人類は、生産様式も狩猟採集から農耕へと変わっていきます。
今日はその生産様式が変ってゆく過程、農耕が始まったきっかけは何か、その原因は何だったのか、についてみてみたいと思います。
いつものように応援の方もよろしく
posted by saah at : 2009年05月30日 | コメント (5件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.30
■気候変動と東アジアの政治情勢::::寒冷期は北方発の戦乱期、温暖期は中原発の中央集権化
歴史を振り返ると気候(冷涼・温暖)と政治情勢(群雄割拠・中央集権)には相関がみてとれる。
大きくは、寒冷期は北方発の戦乱期であり、温暖期は中原発の中央集権化が進む時代である。ただし、北方と中原の双方から攻め込まれる朝鮮半島は、常に戦乱期で中々まとまることが難しかった。
年表にまとめてみました。みなさんのご意見をお聞かせ下さい。(年表は↓です)
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posted by staff at : 2009年05月30日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.29
「十字軍の遠征」の目的(表)
こんにちは
かなり暑くなってきましたね。こんなときは、涼しい映画館に行きたくなりますね。
「天使と悪魔」っていうキリスト教がらみの映画がヒットしていますし…
ただ、その前にここでキリスト教の予備知識を身に着けていかれるとより一層楽しめること間違いなしです
「十字軍の遠征」って知ってますか?
「○○戦争」とかいう名前じゃなくて、ちょっとユニークな名前ですよね 。
名前はかっこいいけど、これっていったいなんだったんだっけ?
遠征と聞くと、真っ先に宿泊先と試合と温泉が頭に浮かぶ純朴な体育会系で
世界史の時間は上の空だった私には、名前から推測するしか術はありません 🙄
「軍」だし「遠征」なので、遠くにいる敵を征伐しにいったということになり、「たぶん人殺しがあったんだろう」ということはわかります。
あとは辛うじて、「キリスト教がらみで、何回か遠征があって、何回か失敗してた」ということはうっすらと記憶に残っています。
今回はこんな曖昧な記憶の「十字軍の遠征」の目的と結果について追求していきたいと思います。
十字軍の遠征は、1096年から1270年頃までのおよそ170年もの間に、歴史に残っているもので7~8回、細かいのも入れると十数回?も行われました。
その目的はというと、『中世に西ヨーロッパのキリスト教徒諸国が、聖地エルサレムを異端であるイスラム諸国から奪還すること』
というのが、おそらく教科書にも載っている表向きの目的です。しかし、いろいろ調べてみると実際は違う目的があったらしいのです。
第一回目は表向きの目的について、第二回目は裏側の目的(とその結末)について書いていきたいと思います。
posted by staff at : 2009年05月29日 | コメント (6件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.28
ローマ帝国の国教となったキリスト教の本質
こんにちわちわわです。
ローマ帝国の国教となったキリスト教ですが、今回はその本質について触れてみたいと思います。
ユダヤ教が生活の規律を重んじ、教育による能力強化に活路を見出し、
イスラム教が掠奪部族を統合するために規範を特化し国家の法律にまで昇華させたのと異なり、
キリスト教は戒律の厳しさを忌み嫌い、現実を捨象して、救いをあの世に求める宗教です。
奴隷や貧困層から拡大していったことからも、もともと権力とは無縁のはずでしたが、キリストの教えをあらゆる人に伝え知らせなければならないとしたことから、布教は広範囲に及び、しかもきわめて熱心なものとなりました。
キリスト教へん?と思った方↓↓ぽちっと!
posted by tiwawa at : 2009年05月28日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.26
日本古来の宗教・修験道の歴史
現代の日本人にも受け継がれている宗教性とは、何か?
日本人のほとんどが無宗教と言われるように「●●教を信仰している」という日本人は、ほとんどいない。しかし、万物の背後に神の存在を見る「八百万の神」のような思想(or感覚)は、日本固有の宗教的感覚だと言われる。
この「八百万の神」(という感覚)は、どのようにして受け継がれてきたのか?神道(神社)と言われることもあるが、神社の祭神のほとんどはアマテラスやスサノオなどであり一神教の色彩が強く、また国家神道とは飛鳥ー奈良時代に国家統合の為に確立されたものである。
民間信仰としての宗教は、神道、仏教、道教などが融合した「修験道」として受け継がれてきた。
今回は、この修験道の歴史を追ってみる。
真言宗高尾山薬王院の大天狗・小天狗
posted by staff at : 2009年05月26日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.26
●修験道とは、どのような宗教なのか?
<HP 大峯修験道 より引用リンク>
最近の記事にもありました、古代日本の成立に大きな関わりを持っていたと考えられる修験道ですが、そもそも修験道とは、どのような宗教だったのでしょう
関祐二さんの著書 『修験道がつくった日本の闇』から、一部紹介します。
その前にいつものヤツをお願いします。
posted by marlboro at : 2009年05月26日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.24
日本では11世紀初頭をもって貨幣使用が途絶えた
日本では和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)が、708年(和銅元年)に、日本で鋳造・発行された銭貨です。日本で最初の流通貨幣と言われています。皇朝十二銭の第1番目にあたります。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)とは、708年(和銅元年)から963年(応和3年)にかけて、日本で鋳造された12種類の銅銭の総称です。これより古い貨幣に富本銭がありますが、これは実際に流通したかどうかは諸説あります。
日本では銭貨が発達しなかったのです。政府が発行する銅銭への信頼は民間では失墜してしまい、使用されなくなります。乾元大宝が発行されたあと、朝廷の弱体化もあり、銅銭は発行されなくなりました。その後、日本では11世紀初頭をもって貨幣使用の記録は途絶え、米や絹などの物品貨幣経済へと逆戻りしてしまいます。
これには、諸般の理由があるので、それを解説(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を一部修正引用)します。
その前に よろしくお願いします。
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posted by norio at : 2009年05月24日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.23
日本史上に現れる “海の勢力・陸の勢力”
古代からの日本史を眺めていると、ごく大雑把ではありますが“海の
勢力”と“陸の勢力”とでも言う勢力が繰り返し現れています。
posted by ihiro at : 2009年05月23日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.21
平氏も源氏も、もとは皇族【平氏は百済系、源氏は新羅系か?】
武家といえば『源・平』がまっさきに頭に浮かびますが、彼らの出自はともに西国の皇族であったという事実は押さえておかなければなりません。
半月城通信 《参照、一部編集》
源氏、平氏の出身はよく知られるように、増えすぎた皇族の処遇から生まれました。そのさきがけは桓武天皇でしょうか。桓武天皇は「朕の外戚は百済」と公言していた天皇ですが、桓武天皇には数十人の妻がおり、たいへんな子だくさんでした。そうしたおおぜいの子孫をいつまでも皇族として待遇していたのでは、ねずみ算式に皇族が増え、財政的に困難になりかねません。そこで天皇は一部の子孫を皇族からはずし、平氏という皇族賜姓を与えました。
具体的にいうと、桓武天皇の子である葛原(かつらはら)親王の子に高棟(たかむね)王と高見王がいたのですが、高棟王が初めて平氏の姓を与えました。したがって平氏の本宗家は高棟王系にあたり、平家の氏社である京都の平野神社の祭祀をつかさどりました。
一方、高見王系は、その子である高望(たかもち)王が平氏の姓を得ました。さらに、高望王の孫で、平将門の乱の鎮圧に功のあった平貞盛の子である維衡(これひら)の系統が伊勢・伊賀地方に所領を得て伊勢平氏となり、平家ではもっとも栄えました。
伊勢平氏は、平安末期に正盛・忠盛父子が白河・鳥羽両院政下の軍事担当武門として台頭し,忠盛の子である平清盛の代に保元・平治の乱(1159)で勝利をおさめ 、「平家にあらずんば人にあらず」とされるほどの平家の全盛時代を築きました。
ここまででも、平氏は百済系といえそうですが、もう少し詳細に押さえておきたいと思います。
応援よろしくお願いします
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posted by naoto at : 2009年05月21日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2009.05.20
屯倉を探る(2)~中央集権化に先駆けた徴税システム~
こんにちは、みっちーです☆⌒(*^∇゜)v
前回の『屯倉を探る(1)~屯倉は大和朝廷の地方支配拠点~』に引き続き、
今回も屯倉シリーズをお送りしたいと思います。
>次回は、屯倉にいた大和朝廷の影の存在基盤とは誰か?
>そして、屯倉は実際にどんな役割を担っていたのか?について追求してみたいと思います。
応援よろしくお願いします
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posted by staff at : 2009年05月20日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList