ローマ帝国の国教となったキリスト教の本質 |
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2009年05月29日
「十字軍の遠征」の目的(表)
こんにちは
かなり暑くなってきましたね。こんなときは、涼しい映画館に行きたくなりますね。
「天使と悪魔」っていうキリスト教がらみの映画がヒットしていますし…
ただ、その前にここでキリスト教の予備知識を身に着けていかれるとより一層楽しめること間違いなしです
「十字軍の遠征」って知ってますか?
「○○戦争」とかいう名前じゃなくて、ちょっとユニークな名前ですよね 。
名前はかっこいいけど、これっていったいなんだったんだっけ?
遠征と聞くと、真っ先に宿泊先と試合と温泉が頭に浮かぶ純朴な体育会系で
世界史の時間は上の空だった私には、名前から推測するしか術はありません 🙄
「軍」だし「遠征」なので、遠くにいる敵を征伐しにいったということになり、「たぶん人殺しがあったんだろう」ということはわかります。
あとは辛うじて、「キリスト教がらみで、何回か遠征があって、何回か失敗してた」ということはうっすらと記憶に残っています。
今回はこんな曖昧な記憶の「十字軍の遠征」の目的と結果について追求していきたいと思います。
十字軍の遠征は、1096年から1270年頃までのおよそ170年もの間に、歴史に残っているもので7~8回、細かいのも入れると十数回?も行われました。
その目的はというと、『中世に西ヨーロッパのキリスト教徒諸国が、聖地エルサレムを異端であるイスラム諸国から奪還すること』
というのが、おそらく教科書にも載っている表向きの目的です。しかし、いろいろ調べてみると実際は違う目的があったらしいのです。
第一回目は表向きの目的について、第二回目は裏側の目的(とその結末)について書いていきたいと思います。
中世の地中海沿岸は、大きく分けて以下のような国に分かれていました
イスラム教は、7世紀前半に交易都市メッカの商人だったムマンマドが、40歳頃に教祖となり、雑多で血の気のおおいアラブ人集団を、信仰によってまとめるため(つまり、イスラム教徒(ムスリム)の国をつくるため)に作ったものです。初めはエジプトの西半分ほどのものだったイスラム共同体ですが、その後、西南ユーラシアと北アフリカまで広がって一つのウマイヤ朝となり、エルサレムは638年以来、イスラム教徒によって占領されるようになりました。当初イスラム教徒は貿易の利を考えて、キリスト教徒の巡礼を妨害しませんでしたが、1071年にエルサレムを占領したセルジューク朝は東方貿易を独占しようとキリスト教徒を迫害し、さらに小アジア全土をほぼ手中におさめ、キリスト教諸国、中でもイスラム教諸国に接していた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を脅かすほどになりました 😡
そこで、11世紀後半、東ローマ帝国の皇帝が西ローマ帝国の教皇に援軍を要請したのがきっかけで始まったのが十字軍の遠征なのです。
ここまで見た限りでは、表向きの目的は嘘にはなってないようですね
次回は、裏側の目的とその結末です。ポイントは、援軍を要請された東ローマ帝国がどうやって十字軍を集めて遠征させたのかという点でしょうか
>参考サイト
・http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history10.html
・http://www.nazoo.org/cult/crusaders.htm
・http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/kirisitokyou18.html
投稿者 staff : 2009年05月29日 TweetList
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コメント
投稿者 タツ : 2009年7月16日 20:41
いやはやなんともものすごい遷都の回数ですね。
遷都ほど費用が嵩むものはないのではないでしょうか。
本来ならば遷都する理由は、そうすることによってより繁栄がもたらされるとかのメリットがあって然るべきと思うのですが・・・・。
当時の天皇はよほど自分のことしか考えていなかったということでしょうか。
投稿者 サハル : 2009年7月16日 22:47
高塚タツさん、コメントありがとうございます。少し返信が遅くなりました。ブログ作成にあたり聖武天皇が行幸や遷都については調べてはみたものの、どうも決定的といえる理由が見つかっていないようにも感じていたので、お教えいただいた、崇福寺と天智天皇に関するヒントをひとつの手がかりとしてもう少し探求できればと思います。またご教示いただければと思います。
投稿者 yuyu : 2009年7月21日 23:59
サハルさん、コメントありがとうございます。
聖武天皇の時代は律令制が完成を見てた時で、朝廷には比較的資金が潤沢に集まっていただろうとは思いますが、それにしても確かに遷都には膨大な費用が投入されていたと思います。権力闘争が激しかった時代ですから天皇としての権威を高めるためという側面は大きかったとは思いますますが、それだけでは、周囲や民衆の心は離れていくでしょうから、大仏建立や怨霊の鎮魂(≒災害の抑止)という面もあるように人心掌握という側面も同時に視野に入っていたのではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2009年7月22日 00:04
崇福寺は桓武が建てたと聞きました。天智とは関係ないと思うのですがどうでしょうか。しかし、桓武と嵯峨が詔を出しているとも聞きますが。日本書紀改竄との関係はどうでしょうか。
投稿者 白壁 : 2014年9月15日 07:37
—いやはやなんともものすごい遷都の回数ですね。 遷都ほど費用が嵩むものはないのではないでしょうか。 本来ならば遷都する理由は、そうすることによってより繁栄がもたらされるとかのメリットがあって然るべきと思うのですが・・・・。—そう言われて見るとそうですね、ということは遷都という話は作り話ではないでしょうか。実際には逃げ回っていたことをそのように造作したもの。奈良京には本来の王家が続いていた様子です。745年までの舎人親王 日本紀作者の一人で、鈴鹿王は長屋王の弟ですから。
投稿者 白壁 : 2019年6月22日 11:26
yuyuさん、こんばんわ。
「今後の追求課題など」で3点出されたうちの次の2点
>・平安遷都以降、東京への遷都まで京都に都が落ち着いたのは?
・聖武天皇が行幸し遷都を繰り返した理由を、当時の朝廷内勢力状況等よりもう少し分析が必要か?<
わたくしめの関心と重なるので、ご進展に期待させていただきます。
ところで、それに関連して、「聖武天皇の東国行幸と遷都」のマップのなかで、「禾津頓宮」(大津)から“崇福寺”に参拝したことが抜けているので、気になります。
たぶんご承知で、このマップではたまたま省略されているだけと思いますが、わたくしの推理では、“志賀の山寺”とも呼ばれた“崇福寺”に、大津宮造営にあたって天智天皇が与えた大きな権限(もしくは取引)が、聖武の東国彷徨の鍵を握っており、それが、のちに延暦寺と三井寺の争いの元となり、現在に至まで、日本史の闇になっているようなのです。
高塚タツの仮説を押し付ける意図はございません。今後のご探求にいくらかでもご参考になればと思いまして。お邪魔致しました。