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日本古来の宗教・修験道の歴史

現代の日本人にも受け継がれている宗教性とは、何か?
日本人のほとんどが無宗教と言われるように「●●教を信仰している」という日本人は、ほとんどいない。しかし、万物の背後に神の存在を見る「八百万の神」のような思想(or感覚)は、日本固有の宗教的感覚だと言われる。
この「八百万の神」(という感覚)は、どのようにして受け継がれてきたのか?神道(神社)と言われることもあるが、神社の祭神のほとんどはアマテラスやスサノオなどであり一神教の色彩が強く、また国家神道とは飛鳥ー奈良時代に国家統合の為に確立されたものである。
民間信仰としての宗教は、神道、仏教、道教などが融合した「修験道」として受け継がれてきた。
今回は、この修験道の歴史を追ってみる。
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真言宗高尾山薬王院の大天狗・小天狗


修験道の祖、役小角えんのおづぬ(役行者えんのぎょうじゃ)は舒明朝に誕生し修行を続けた後、天武天皇に重用され修験道を開く。
(天武天皇の前の)天智天皇は、藤原氏(中臣氏)を重用して中央集権化を進めたが、このとき使われていたのが(中臣)神道であった。全国に張り巡らされた神社ネットワークを基盤にその支配域を広げ、「お祓いした後の米は豊作が約束されているから、一度奉納せよ」という建前の元、徴税の仕組みを確立していく。しかし、この神社支配(藤原支配)に各地豪族は反感を強めた。
この豪族の反感を背景に、天智天皇系から王権を奪ったのが天武天皇であった。彼は、修験道の祖・役小角の重用し、”山の民”のネットワークを使って賀茂氏、葛城氏、尾張氏と連携し、天智天皇系を追放し即位する(壬申の乱)。彼が最初に打ち立てた修験道は、日本古来の山岳信仰と道教系陰陽道が融和したものとして誕生したと言われている。(これは、彼が修行の場としていた”葛城”の地の特異性が関係しているのだろう。)
(※小角の生まれた家の氏は「賀茂役君(かもえのきみ)」と言い、後に京都で賀茂神社を奉る賀茂氏の流れである。この賀茂氏、元は天皇家に匹敵する臣王家葛城氏の子孫の事で、臣に下った後、「一部が賀茂氏を名乗った」と言われている。)
しかし、続く持統朝に至ると、天武天皇時代には冷遇されていた藤原氏が再び実権を握る。その一方で、天武系豪族が姿を消していく。役小角も例外ではなく、遠く伊豆の地に追放されてしまう。
藤原支配の下、”日本”は律令制度の整備に大きく舵を切り始めていた。ここに反藤原、また反律令制の民の結集軸となっていったのが、山の宗教である修験道であった。
奈良時代末期、聖武天皇の娘の代(称徳天皇=孝謙天皇)に至って、天武天皇系の血統は途絶えてしまう。そして、天智天皇の血統であることを正当性の証として、光仁天皇→桓武天皇が即位する。
桓武天皇は、天武天皇系奈良仏教支配から脱し、新たな宗教体制と更なる律令制度導入を模索する。神社においては神階制度を導入し、新たな渡来系神社を設立したことでも知られるが、仏教においては遣唐使を通じて最先端の仏教の取り入れを進める。こうして派遣されたのが最澄と空海であった。彼らは最先端の仏教(⇒密教)を持ち帰り、最終的には両者とも山に寺を開く。この寺(比叡山と高野山)が、密教と修験道との結節点となった。
ちょうどその頃、朝廷組織に陰陽寮が設置される。律令に基づく八つの省からなる中央官庁のうち 天皇と直結する行政の中枢である「中務省」に、陰陽寮は設置された。
それまでの陰陽修験は、もっぱら「山岳ゲリラの鎮圧と恭順」「天皇の密命の履行」などの非公式な活動に終始していた。しかし、陰陽寮が設立されると、正規の職務(天文気象学や暦学、呪詛・占術や信仰の管理)も割り当てられる。しかし、最も重要な職務は、「影の諜報機関」だった。
律令制が根付きつつあった日本において、民間信仰としての修験道は、山岳信仰から始まり、道教、神道、仏教、密教など様々な宗教と融和しながら、今日まで伏流してきた。そして、変化し続ける”修験道”を利用しながら、朝廷による地方支配、民衆コントロールは維持されてきたと考えていいだろう。支配階級(氏族)と被支配階級(民人)の接点が修験原始信仰だったのである。
※後に10世紀に入って、後述の賀茂氏と安倍氏の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。そしてあの有名な安倍晴明が登場する。
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