科挙制度に儒教が導入されたのはなぜ? |
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2009年07月08日
ギリシャといえばアルファベット文字
こんにちわちわわです。
ギリシャといえば、ギリシャ文字。今日もっとも普及しているアルファベット文字です。
文字は、迅速・正確・大量に情報を伝達する機能も有しています。船、ラクダ、馬などに乗って人と物が動くようになると、粘土板やパピルスに書かれた情報もいっしょに移動し、短期間のうちに社会を大きく変えることもありえます。ギリシャは、その典型例といえましょう。
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The Purple Chamber World Historyより紹介します。
http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history08.html
アッシリアが大帝国への道をつき進んでいた頃、ギリシアは比較にならないほどの辺境でした。前1200年の大破局によって人口は激減、政治組織や文字も消滅し、前9世紀になってもいまだ人口数千~数万の小国が無数に分立しているという有様でした。
転機となったのは、交易のため頻繁に訪れるようになったフェニキア人からアルファベットが伝わったことです。ギリシア人はこれに母音をつけ加えるなどの改良をほどこして使用するようになりました。楔形文字よりはるかに習得が楽な文字が普及したことで、知識を受け入れる基盤ができたのです。
簿記に必要な文字を手にしたことによって交易も活発になり、ギリシア人自身も海外に飛び出していきました。それにともなって、メソポタミアやエジプトから天文学、数学、医学などが続々と流入してきました。当初は小アジア沿岸のミレトスが舶来知識の窓口でしたが、やがて本土のアテネが知的中心となりました。その要因は、アテネが経済的にもっとも繁栄し、人口が多かったこともありますが、知識を担う人々の層が厚かったことが大きかったのです。
アテネでは、はやいうちに王政が廃止されていたうえ、交易の発展によって商人など新興市民が力をのばし、前6世紀に富裕層が、前5世紀には成年男子すべてが政治に参加できるようになりました。財産のある市民の多くは海外から輸入された奴隷を所有しており、日々の雑務から解放されていたから、政治を動かす名士となることに生きがいをみいだすようになっていました。
アテネの政治は3万人の有権者全員が参加できる市民集会と、6000人からなる陪臣法廷を中心に動いており、政治家として栄達するには演説の能力が不可欠でした。また、法律など公文書を読み書きする能力も必要でした。そのために「教育」がひじょうに重視され、家庭教師や塾も続々と現れました。社交界では幅広い「教養」が求められるようになり、音楽、劇、詩、美術などの芸術も発展しました。こうしてアテネは地中海随一の文化センターとなって、多くの人々をひきつけたのです。
前4世紀前半、プラトンがアテネにつくった「アカデメイア」という学園は、たんに議論に勝つ術を教えるだけの塾とは一線を画していました。ここでは、厳密な思考力を養うために徹底した数学のトレーニングを課し、ものごとの本質を把握する力をつけることを目的とした教育が行われていたのです。知識を論理学・自然学・形而上学などに分類し、それぞれを研究する方法論を確立したアリストテレスなど、多くの秀才がここから世に出ています。プラトンとその門下が「学問」を生んだと言っても過言ではありません。
しかし、政治家としてのプラトンは不遇で、理想と現実のギャップにずいぶん苦しんだらしいです。彼は「正しい知を持った哲学者が政治を行うべきだ」との持論をかかげていましたが、現実の政治は往々にして腹黒い野心家や無知な大衆によって動かされるし、賄賂・陰謀・扇動・暗殺などが横行することもあります。アテネに失望した彼はシチリア島に渡ってシラクサ王を教育しようとしましたが、ここでも監禁されるなど辛酸をなめ、晩年は自らの学園にひきこもってしまいました。
文字の発達が化学や数学などの学問を作り出したのは注目ですが、哲学や政治の世界はあいかわらずドロドロしてますね!
投稿者 tiwawa : 2009年07月08日 TweetList
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コメント
投稿者 sakashun : 2009年8月16日 02:07
よく調べておられますな。感心致しました。普通なら卜部一族など、あまり話しに出て来ない所ですからね。
中臣、忌部、卜部、そしてこれらを司るのが賀茂氏。その権利を譲与したのが秦氏。氏族は、葛城氏、蘇我氏、中臣氏、藤原氏、秦氏、賀茂氏。部族(部民)は、海人族の海部、ヤマト族の武士部(物部)、卜部、忌部。日向族=天皇家によって分けられたそれぞれを整理すると、これらの抗争劇が見えて来る筈です。天皇家は鳳凰。秦氏は鷹と狼と猪。物部は牛と蛇。賀茂氏は鴉と鴨。それぞれの一族を象徴するものも分かれていますね。卜部の吉田神道は、大元神尊・・・。
投稿者 秦 嘉伸 : 2011年10月24日 16:51
間違えていました。大元尊神です。訂正致します。
大元尊神 生命成就 心は即ち一元未生の神明なり 元を元として元の元に入る 本を本として本の心に依ざす 天に登りしてかえりこと申し 日の小宮ととまります 生まれて来ぬ先も 生まれて住むる世もまかるも 神の懐のうち・・・
大元尊神、即ち太極にして、天御中主なり。
卜部神道(吉田)
金鷹、
投稿者 秦 嘉伸 : 2011年10月24日 17:09
秦 嘉伸さん、とても詳しいコメントありがとうございました。私が記事を書くよりも、秦様にご意見を伺ったほうがよほど正確な情報が伝わるのではと思うすばらしいコメントをありがとうございました。有用なコメントを期待しています。
さて、確かに、卜部氏はあまり歴史に出て来ない氏族です。古代の氏族で上記以外に和邇氏や宇佐岐氏も気になっているところです。
コメントでは、「中臣、忌部、卜部、そしてこれらを司るのが賀茂氏。その権利を譲与したのが秦氏。氏族は、葛城氏、蘇我氏、中臣氏、藤原氏、秦氏、賀茂氏。」とあります。
◆卜部氏は、月読命の関係で非常に気になった存在です。壱岐国には、月読命を祀る神社が多く、卜占(占い)を専業とする部族と言われています。航海の安全祈願であろうか?月を信仰対象としたための月読命信仰だろうと思っています。卜部氏の吉田神道は、密教・陰陽道の教理を取り入れたことで、葛城→加茂(鴨)氏の天皇の背後の勢力との繋がりを感じます。
◆気になるのは、秦氏です。かなり古い時代から、日本において卓越した技術力や観念力をもっていたと言われていています。秦氏が大陸からの情報をもたらしたのだろうと思います。現在の日本の勤勉性などは、秦氏と縄文気質が融合したものではないか?とも思いますが・・・
また、推測ですが、徐福伝説と秦氏と関係あり、日本に大規模に移住したようにも思われます。
ここは、ご教示いただければ幸いです。
◆部族同士の抗争劇はもう少し勉強いたします。日本においては、かなり、氏族共同体的な色彩を帯びていて、平和であったように思います。
◆吉田神道の最高神「大元神」は「大元尊神」。アラハバキ神と関係がありそうです。東北に神社が多いとのことで蝦夷、物部氏との関係もありそうです。アテルイとはどうなんだろうか?
面白い歴史です。日本の支配勢力の氏族分析は、他の記事も参考になりますのでご覧になって下さい。
投稿者 2310 : 2011年10月27日 00:27
我が秦一族の本当の話しをお教え致しましょう。
秦氏の祖は‘高木神’こと‘タカムスビ’です。嘘ではありません。そして高木神とは‘月読’の事です。イザナギは最初は九州の日向に居ました。スサノオがイザナギと戦って勝ち、神やらいをされたのはイザナギとイザナミであり、この2神が流されたのがオノコロ(淡路島)でありました。娘のアマテラスは九州に残り、スサノオと一緒になりました。アマテラスとは卑弥呼の事です。嘘ではありません。スサノオと卑弥呼の間に産まれたのが厳島姫です。イチキシマともサヨリヒメとも言います。スサノオが死んだ後に卑弥呼アマテラスと一緒になったのが高木神です。アマテラスが死んだ後、高木神は厳島姫と一緒になり、産まれたのがオオヤマクイです。謎は解明出来ましたでしょうか?
太秦之厳眞(金鷹)、
投稿者 秦 嘉伸 : 2011年12月8日 04:38
秦氏の集いでリンク集!
明けまして、お芽出度う御座居ます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
2012年、平成24年、辰年、ドラゴンへの道!…
投稿者 秦氏の集い : 2012年1月3日 21:26
藤原氏が、その出自の卜部氏の系統を月讀命に置き換えて神になるように記載し、天皇家と支配を分担したことを記紀に記載(契約)したようですね。
そして何らかの関係で卜部氏が葛城氏や秦氏と大元で繋がると書かれています。よく耳にする古い大豪族と新しい藤原氏との関連が掴めてくると面白いですね。次回以降の投稿を期待します。