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ギリシャといえばアルファベット文字

こんにちわちわわです。
ギリシャといえば、ギリシャ文字。今日もっとも普及しているアルファベット文字です。
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文字は、迅速・正確・大量に情報を伝達する機能も有しています。船、ラクダ、馬などに乗って人と物が動くようになると、粘土板やパピルスに書かれた情報もいっしょに移動し、短期間のうちに社会を大きく変えることもありえます。ギリシャは、その典型例といえましょう。
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The Purple Chamber World Historyより紹介します。
http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history08.html [3]
 アッシリアが大帝国への道をつき進んでいた頃、ギリシアは比較にならないほどの辺境でした。前1200年の大破局によって人口は激減、政治組織や文字も消滅し、前9世紀になってもいまだ人口数千~数万の小国が無数に分立しているという有様でした。
 転機となったのは、交易のため頻繁に訪れるようになったフェニキア人からアルファベットが伝わったことです。ギリシア人はこれに母音をつけ加えるなどの改良をほどこして使用するようになりました。楔形文字よりはるかに習得が楽な文字が普及したことで、知識を受け入れる基盤ができたのです。
 簿記に必要な文字を手にしたことによって交易も活発になり、ギリシア人自身も海外に飛び出していきました。それにともなって、メソポタミアやエジプトから天文学、数学、医学などが続々と流入してきました。当初は小アジア沿岸のミレトスが舶来知識の窓口でしたが、やがて本土のアテネが知的中心となりました。その要因は、アテネが経済的にもっとも繁栄し、人口が多かったこともありますが、知識を担う人々の層が厚かったことが大きかったのです。
 アテネでは、はやいうちに王政が廃止されていたうえ、交易の発展によって商人など新興市民が力をのばし、前6世紀に富裕層が、前5世紀には成年男子すべてが政治に参加できるようになりました。財産のある市民の多くは海外から輸入された奴隷を所有しており、日々の雑務から解放されていたから、政治を動かす名士となることに生きがいをみいだすようになっていました。
 アテネの政治は3万人の有権者全員が参加できる市民集会と、6000人からなる陪臣法廷を中心に動いており、政治家として栄達するには演説の能力が不可欠でした。また、法律など公文書を読み書きする能力も必要でした。そのために「教育」がひじょうに重視され、家庭教師や塾も続々と現れました。社交界では幅広い「教養」が求められるようになり、音楽、劇、詩、美術などの芸術も発展しました。こうしてアテネは地中海随一の文化センターとなって、多くの人々をひきつけたのです。
前4世紀前半、プラトンがアテネにつくった「アカデメイア」という学園は、たんに議論に勝つ術を教えるだけの塾とは一線を画していました。ここでは、厳密な思考力を養うために徹底した数学のトレーニングを課し、ものごとの本質を把握する力をつけることを目的とした教育が行われていたのです。知識を論理学・自然学・形而上学などに分類し、それぞれを研究する方法論を確立したアリストテレスなど、多くの秀才がここから世に出ています。プラトンとその門下が「学問」を生んだと言っても過言ではありません。
 しかし、政治家としてのプラトンは不遇で、理想と現実のギャップにずいぶん苦しんだらしいです。彼は「正しい知を持った哲学者が政治を行うべきだ」との持論をかかげていましたが、現実の政治は往々にして腹黒い野心家や無知な大衆によって動かされるし、賄賂・陰謀・扇動・暗殺などが横行することもあります。アテネに失望した彼はシチリア島に渡ってシラクサ王を教育しようとしましたが、ここでも監禁されるなど辛酸をなめ、晩年は自らの学園にひきこもってしまいました。
文字の発達が化学や数学などの学問を作り出したのは注目ですが、哲学や政治の世界はあいかわらずドロドロしてますね!

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