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2012年05月14日

シリーズ「潜在思念の原点・カタカムナ」~日本人の可能性1

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写真はこちらからお借りしました。

前回は、古代人の思考=万物の間に類似性や共通性を見出す「類化思考」と、現代人の思考=物事の違いに着目する「別化思考」の違いを見てきました。
その中で現代人の「別化思考」の起源は、私権意識を正当化するための陰陽道を契機として変化していった支配者層の思考にあったことを見てきました。
現在、私権意識、近代観念が社会全体に拡がり人々が別化思考を続けてきた結果、人類は滅亡の危機に直面するところまで来てしまいました。
そこで今回は、人類滅亡に対する突破口の可能性として、私権時代以前の思考方法=古代人の類化思考に着目して見ていきたいと思います。
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私たち現代人は、自分にとって都合の良いことを考え、都合の悪いことは捨象する思考方法を無意識の内に取っています。
例えば、自分の自由は何より大切にし同時に他人の自由も認めるかのように思考していますが、実際に他人の自由を認めれば自分の自由は阻害されること、つまり万人の自由はあり得ないということは捨象しています。
また、環境問題を重要視しながら、より環境を破壊する経済活動や快適な生活は手放したくないと考えています。
つまり、現実全てを対象化するのではなく、都合のよい一部だけを対象化してしまう思考方法を取っているのです。
その結果、現代社会は環境破壊、精神破壊、経済破綻など、人類滅亡の危機に直面するところまで来てしまいました。
一方、カタカムナ人に見られるように、古代人の徹底した類化思考(同化思考)とは、自分にとって都合の良いもの、悪いものという区別無く、現実全てを対象化し、自然や環境、同類に対して徹底的に同化していく思考であり、事実の追及そのものだと言えます。
  
  
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写真はこちらからお借りしました。  
  
 
カタカムナ人が到達した(現代科学を超えるほどの)自然法則まで見通す思考は、徹底した現実対象化の結果です。
都合の悪い事象は捨象し、細分化し限定した前提・仮定条件下で研究を行う現代の科学者とは、同化のレベルが全く違うと思われます。
現代人の思考方法は正に別化思考であり、それは近代観念そのものが別化思考だからです。
例えば自由、平等などの近代観念は、現実社会においては決して実現できませんが、私権意識を抱える以上、頭の中の自己正当化には不可欠なものとなっています。
日本において支配者層の思考は、陰陽道を契機として私権意識を正当化する別化思考となり、私権意識の深化と共に大衆にも広がり現代まで続いています。
一方、日本に色濃く残る共同体性には、類化思考の名残を多々見つけることができます。
いくつか具体的な事例を見てみましょう。
  

●自然災害によって醸成された日本人の意識
『緊急企画 「東日本大震災は日本人に何を覚醒させるのか!」第7回 地震・災害は日本人の性格をどのようにかたちづくってきたか?』

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写真はこちらからお借りしました。

このような世界各国に驚かれる日本人の性格は、日本人の自然観に由来しているのではないか?という観点でまとめているブログがありましたので紹介します。
以下、『ぼやきくっくり 独特の災害史観を持つ日本人は何度も立ち向かい乗り越えてきた』より転載します。リンク 
 
(以下引用)
(中略)
そして、このような「脆弱な国土」と繰り返し起こる災害によってはぐくまれたのが、「自然災害史観」「震災史観」ともいうべき、日本人の独特の精神性であるというのです。
歴史をひもとけばわかりますが、日本の先人の多くは紛争ではなく災害で亡くなっています。中国やヨーロッパでは災害よりも圧倒的に紛争で亡くなった人が多いのだそうです。
紛争、つまり「人為」で命を落とした場合は、相手を恨んだり、なぜ負けたのかを考えます。次に備えて論理で考える思考が得意になり、それは都市設計にも影響してきます。
例えば中国の長安は高い城壁で町を囲んでいましたが、平城京は城壁を採用しなかった。その違いは、「外から敵が攻めてくる地かどうか」でした。
日本の場合は外壁がなくても誰も攻めてきませんでしたが、災害などの「天為」に見舞われてきました。
多数の死者が出ても、原因が災害では恨む相手がいません。
現代ならともかく、科学技術も発展していなかった時代ですから、災害への予測も備えもままならなかった。抗議する相手もいなければ、防ぐ方法もなかった。……
と、述べた上で、大石氏は論文をこうまとめています。
……このように、日 本人は中国や欧米のように理屈で説明できる「人為」でなく、「天為」で命を落としてきた民なのです。そして「天為」で命を落とした死者への思いは、「安ら かに成仏してください」というものにしかなりえない。人が大勢亡くなった時、あるいは愛する者の死に接したとき、人間は最も深くものを考えるものだと思う のですが、圧倒的な自然の力による災害で多くの人が亡くなる経験をしてきた日本人は、「ただひたすらにその死を受け入れる」民になったのです。
人間同士のいさかいではなく、自然のみが驚異であった日本人の精神性が、他国と違っていても全く不思議ではありません。

  
  
日本人にとって自然とは、善悪の価値観で捉える対象ではなく、受け入れざるを得ないもの、決して自分たちの都合でどうこうできるものではない対象でした。
自然は畏敬の念で全面的に同化する対象であり、日本人が類化思考を色濃く残してきた一因だと思われます。
  
  

●『日本の婚姻史に学ぶ、共同体のカタチ』「夜這い婚って何?」

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写真はこちらからお借りしました。  
   
(以下「夜這いの民俗学」赤松啓介著より引用)
梅雨どき、長雨にうんざりすると若衆たちは、気がねのいらぬ仲間の家の内庭や納屋へ集まって縄ないなどの手作業をした。君に忠、親に孝などというバカはいないから、娘、嫁、嬶、後家どもの味が良いの、悪いのという品評会になる。
「おい、お前、俺んとこのお袋の味、どないぞ。」
「わい、知らんぞ。」
「アホぬかせ、お前の帰りよんの見たぞ。」
「ウソつけ。」
「月末頃にまた留守にするで来てな、いうとったやろ。どアホ。親父に行くな、いうたろか。」という騒ぎになった。
「お前、今晩、うちのネエチャに来たれ。」
「怒られへんのか。」
「怒ってるわい、この頃、顔見せんいうとったぞ、味、悪いのか。」
「そんなことないけんど、口舌が多いでなあ。」
「そら、お前が悪い。いわせんように、かわいがったれ。」
(以上引用)
 一見、あけすけで品のない会話のようですが、貞操観念などという余計な観念を取り払って読めば、周りの女性達が充足できるように、皆で情報を交換し、性的な期待を掛け合っている姿は、非常に思いやりに溢れた光景であるといえます。
 これらの会話から、もともと日本では、性に対して開放的であり、戦後のように秘め事ではなかったことがわかります。
 最大の共認充足である性の充足は村の活力そのものですから、ムラ全体で性の充足を肯定的に共認し、共同体の規範として、皆が充足できるように期待を掛け合うのは当然といえます。
(中略)
 性の相手がみんなの期待によって決まり、性の充足がみんなの共認充足となっていた日本の性文化からみれば、現代の男発の独占欲から得られる性の充足とは、180度違う事が解ります。
 最初の問い「貴女のセックスの相手は誰ですか?」に対する本来の日本文化を受け継いだ女性たちの答はもうお判りでしょうか?
 女たちの充足を第一とした「夜這婚の基本は(性的年齢に達した者)みんなと充足」だったんです。
 日本の農村では、女たちが充足し、安心していることが共同体の維持・統制に必要不可欠であり、村の活力=皆の共認充足=性充足であることを皆で共認していました。
 したがって性充足を 村の重要な統合課題として、「性も公明正大」に男たちで課題共認し、皆が充足 できるような婚姻制度を作り上げたのが、夜這婚だったのです。

  
  
日本の農村では戦前まで(地域によっては戦後まで)「夜這い」が残っていましたが、好き嫌いや自分だけの充足を考えていては「夜這い」は絶対に成立しません。
村落共同体の人々にとっては、みんなの充足が自分の充足でもあり、自分の都合だけで思考し行動することは考えられない事だったのだと思います。
これも、日本人が類化思考を持ち続けてきた事例と言えます。
古代人の思考方法が類化思考(同化思考)であったのは日本だけではなく、私権闘争が始まるまでは、類化思考こそが人類共通の思考方法でした。
しかし現代社会においては、私権意識や個人主義を思考の原点としているのが当たり前であり、別化思考こそが人類の思考方法であるかのように世界中がなっていますが、その中で日本人だけは類化思考を色濃く残しているようです。
次回は本シリーズ最終回として、なぜ日本人が類化思考を色濃く残してこれたのか、そして世界中が直面している社会閉塞を突破する可能性は日本人にこそあるのではないか、を追求していきたいと思います。
ご期待ください。

投稿者 sinkawa : 2012年05月14日 List  

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コメント

【渡航至難の対馬海峡】
推進力の弱い古代船では、最短距離である対馬海峡を
渡航するには、とても至難である。
朝鮮半島南沿岸から出航すると、対馬暖流に流され
隠岐国・出雲国地方、時には能登半島あたりに漂着する。
従って、帯方郡・楽浪郡から倭国への遣使は朝鮮半島東沿岸の
“迎日湾“辺りから、南下する寒流のリマン海流と北上する
対馬海流そして季節風に乗って隠岐国を経由のうえ
東出雲・邪馬台国に到達する。
この古代からの“出雲航路”が最も安全かつ自然であり
難破遭難の少ない“視達距離航法”であった。
後世(大業四年・西暦608年)の『隋書』倭国伝に登場する
煬帝の答礼使裴世清と小野妹子たち一行も倭国と隋国都・大興城
への往復は“出雲航路”を渡海したと言える。
また、天智7年(西暦668年)以降も日本からの遣唐使
(留学生・僧)は“出雲航路”にて新羅国(朝鮮半島東沿岸)
経由のうえ長安(現・陝西省西安市)へ渡っている。
何故なら朝鮮半島の黄海側の中西海岸以南と南海岸は
きわめて複雑な海岸線。数千の島が点在の多島海であり、
西海岸の潮差が大きく中部の京畿湾(潮差8~10m)
南の群山(潮差6m)の航行は至難であろう。
対馬海峡は比較的距離のある海峡で海流も強く素人が船を作り
渡ろうとしても、山陰沿岸に漂流され難破遭難の可能性があり
現代人が挑んでも同じ結果になると言える。
邪馬台国論争で対馬海流は常に東北に流れていることを
前提に論ずる方がいるが、多分それは潮流ではなく
海流のことを言っている。
潮流と海流の区別もつかず邪馬台国論争を語れば、
もう対馬海峡を渡る最初の“要”で間違っているのだから、
せめて対馬海流とリマン海流のことは調べておく方が良いと思う。
2013年7月31日 小林 須佐男

投稿者 小林 須佐男 : 2013年7月31日 22:10

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