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2012年02月07日

庶民が作りだしたお上意識3~天皇の大衆化を担った商人たち~

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歴代の天皇(画像はこちらから)
前回の記事で天皇制の庶民に対する歴史的位置と浸透度合いを探ってきました。
その記事の最後に、「江戸時代に天皇の大衆化は起きたのか?」という疑問が投げかけられています。今回の記事はそれを受けて、この江戸に起きた転換点とその要因を探っていきたいと思います。
まずこの転換点は江戸時代のちょうど真ん中あたり、17世紀半ばから始まる元禄時代にありそうです。この元禄時代とは江戸の豊かさを背景にまさに日本の諸子百家の時代であり、朱子学や陽明学、その流れで国学が立ち上がります。また一方で大衆文化である浄瑠璃や歌舞伎、狂言といった芸能も起き、江戸は一大商業都市に成長していきます。
天皇の大衆化とはこの日本の思想開花の時期に起きるのです。それではなぜ天皇がこの時代に大衆化したのか、またその大衆化とはどのようなものであったのかを明らかにしていきたいと思います。
天皇の大衆化のヒントは商人にあると見ています。さらにその商人とは京都の町人から発した町人文化にありました。今からその仮説を時代を追って組み立てていきたいと思います。
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天皇や公家を支えた京都の町人の台頭
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江戸初期:見世物や物売りで賑わう京の鴨川(画像はこちらから)
まず、平安時代後期に遡ります。
日本は大和朝廷以来続いてきた正統天皇制が武士の登場によって揺らいで行きます。後白河天皇の平家との戦乱は現在のNHK大河ドラマでも描かれていますが、その後、承久の乱により、天皇家は事実上、武家に敗北します。鎌倉と京都という2つの中心をその後の日本は抱える事になりますが、実質上京都の公家の地位はどんどん低下していきます。室町で一旦回復しますが、彼ら公家を支えたのは京都町人でした。室町時代の京都は日本最初の商人都市を形成します。消費者は公家であり、公家に使える神仏僧侶やその下で様々な公家の為の道具を作る工人達です。商人は彼らに金を流通したり、物資を日本中からかき集める交易商として成長していきました。京都の近郊で成長した近江商人もその典型です。このように公家と商人は一蓮托生、商人なしでは公家は武士に勝てず、商人も公家の威光を使って方々で商売を拡げていきました。
この天皇家と京都町人の関係は室町に出来、その後江戸においても度々、京都の力を江戸に示す事になります。
京都・大坂の豪商が担った元禄文化(市場社会の幕開け)
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紫衣事件の際には幕府への抗議の意思を込めて譲位を行った後水尾天皇(画像はこちらから
さて、時代は江戸に移ります。江戸時代は再び京都から関東に中心が移動します。徳川は幕府を江戸に持ち込んだだけでなく、早晩朝廷を打ち倒す思想をもっていました。3代目家光までは朝廷―幕府は非常に緊張状態にありました。
徳川の為政に危機感を感じた朝廷は天皇の威光を高め天皇制を再確立しようとしたのではないでしょうか。実際「禁中並公家諸法度」によって権限を奪われた朝廷は、幕府から許された「学問」と「芸能」にしか道が残されておらず、そこに収束していくしかありませんでした。
それもあって、江戸時代はまず京都・大坂といった上方を中心に元禄文化(町人文化)が広がります。元禄文化とは17世紀半ばから18世紀はじめ、幕藩体制が安定し町人の台頭がめざましくなってきた時代に生まれた文化で、鎖国時代を反映して外国の影響の少ない、日本独自の文化が生み出されました。元禄文化の主な担い手は、京都・大坂などの上方の豪商で、豪華な桃山文化や江戸初期の寛永文化の伝統をうけつぎました。
文化の中の天皇
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本居宣長             近松門左衛門の浄瑠璃
元禄文化の中で天皇の大衆化に繋がる事例を2つ挙げます。
一つ目は国学の始まりです。国学により天皇の学術的体系化が成されました。特に本居宣長(1730~1801)は、儒教(中華思想)を批判し、縄文以来の日本の八百万の神に至る精神文化を明らかにし、それが天皇家に繋がると主張しました。縄文精神が学問的に注目されたとも言えますが、裏返せば万世一系の天皇制を正当化するための新しい歴史史観を生み出したとも言えます。
二つ目は近松門左衛門(1653~1725)です。彼は塩の商人で、塩を介在して皇室に繋がり、天皇家を常に身近に見てきました。江戸で彼が戯曲に度々天皇を登場させ、時にそれを喜劇の対象としたのは、天皇を卑下して軽視したのではなく、逆に天皇の存在を大衆に広げていく契機になりました。喜劇という分かりやすい形で庶民の中に天皇の存在を知らしめ、それによって幕府と天皇という構図を人々に示す事になります。このように江戸時代の天皇の力の低下ゆえに商人を用いた天皇主義の再構築が成されていったのが江戸中期であり、以後の現代まで至る天皇の大衆化に繋がる転換期だったのだと思われます。
このように元禄時代とは江戸からはるか離れた京都で町人を中心に新しい認識が登場した時代でした。言い換えれば日本での市場社会への幕開けです。そこにそれまで京の文化の中心であり情報源でもある朝廷が濃厚に係っているのです。
では、当の幕府はこの時代、天皇の存在をどのように見ていたのかについても触れていきたいと思います。江戸幕府形成時には朝廷討伐も企てた幕府ですが、数代でその意識が弱まります。
むしろ、京都の商人をまとめる公家の存在は市場拡大を目指す幕府にとって都合がよく、目先の権威より実質的な支配秩序の維持を選択したのです。天皇を残し重宝する事で秩序が形成され、その中心にある商人もコントロールできると踏んだ幕府は途中で方向転換します。つまり、朝廷―幕府―商人の利害がこの時代に一致するのです。
天皇の大衆化と市場拡大
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【寛永】風神雷神図屏風      【元禄】元禄小袖    【化政】寺子屋
さらに元禄文化の後に18世紀末には江戸で化政文化が発生します。このころの江戸は上方と並ぶ全国経済の中心地に発展し、多数の都市民を対象とする町人文化が最盛期を迎えます。
このように幕府と朝廷に後押しされ、寛永文化を始点として、元禄文化および化政文化を経て、国学や芸能を通じ、天皇の存在が江戸の町人や大衆に広がっていきました。それが、日本史上初めての天皇の大衆化に繋がる契機になった可能性があるのです。以後は、商人を通じて、文人の全国的な交流、出版・教育の普及、寺社参詣の流行など中央の文化は各地方に伝えられ、文化の内容も多種多様なものとなっていきます。具体的には、華やかな宮中への憧れを誘った雛祭りが庶民にまで浸透したり、お伊勢参りが広がったり、さらに町人文化が地方に拡大して寺子屋を中心に大衆の中に文化・教養が浸透します。このようにして市場拡大の基盤が出来上がっていったのです。
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そんな中、江戸末期に起きた尊皇攘夷思想の背後には、庶民上がりの下級武士をベースに再び京都の町人を使って裏で糸を引く海外の金貸しの暗躍がありました。土佐の名士、武市半平太は京都の公家や国学の影響を受け、土佐の片田舎で尊皇攘夷論を立ち上げます。彼は後に幕府勢力に消されますが、同様の勢力は日本中に「天皇」を旗印にして拡がっていきました。
まとめ
つまり天皇を使った思想や運動は少なからず市場を開く意図と連関しており、それは歴史を紐解けば、天皇自身が最初からその配下に自由に動ける供御人(天皇の使う物を用意する直属民)を有して、彼らが商人として発展していった事と少なからず関係しているのではないかと推察します。
このように、天皇とは商人と切り離せない、だから天皇の大衆化とは市場の大衆化によって推し進められていったと仮説を提起した次第です。江戸と明治の境界は維新とし、黒船の到来から文明開化と教科書的には表現されていますが、実はこの元禄の時代から明治に繋がる市場大衆化に向かう社会変動は胎動していたのだと思われます。
第3部「庶民が作り出したお上意識」はこれで終了します。第4部はいよいよ明治時代に入っていきます。お楽しみに~

投稿者 mituko : 2012年02月07日 List  

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 島根県の安来は古事記では根之堅洲国というところでスサノオの活躍地ですね。正確には十神島根之堅洲国となりますが長いので古事記では省略されています。この省略された、十神島というのは出雲国風土記では砥神島という陸繋島であったであろう現在の安来市の十神山です。この島は安来市のシンボルと見いわれ、きれいな円錐形をした小山ですが、古代の人たちの崇敬の島だったらしいです。この十神というのはイザナギ・イザナミを含むそれ以前の時代を、神世といってその後の神代の時代と分けて表現されますが、神世七代には十の神がおりそれからつけられた神聖な島だったのだと思われます。ここがオノゴロ(淤能碁呂)島と考えると、近くにイザナミの神陵地もあることから合理的なのではと思われます。

投稿者 根の国王権の語部 : 2013年1月2日 14:06

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