シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」10~中国の大衆史②”幇”の構造。切っても切ってもつながる中国人~ |
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2012年02月11日
第4部 「明治以降の支配者の変遷」~明治以降変質した支配者の意識
<黒船来航 こちらより引用>
今回から、シリーズ「日本人はいつものを考えはじめるのか?」の第4部に入ります 😀
第1部では、弥生時代を解明していき、第2部では、支配者の属国意識を解明していきました。第3部では、庶民が作り出したお上意識を追求中です。
そして、今回からスタートする第4部では、明治以降の支配者の変遷を扱っていきます。
第4部の初回となる今回は、『明治以降変質した支配者の意識』に焦点を当てていきます。
日本の歴史において、とかく注目される明治時代ですが、支配者と庶民との関係にも大きな変化が見られます。
これまでの記事でも明らかなように、明治時代以前までの支配者と庶民の関係は、支配者は一定庶民に配慮し、庶民はお上(捨象)意識で支配者に世の行く末をまかせている関係にありました。しかし、明治時代に入ると、これら上と下とのバランスがくずれ始めるのです。
一体、明治時代に何があったのでしょうか
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それでは、さっそく明治時代になにが起こったのか?から見ていきます
今から約160年前の1853 年、明治時代前夜の幕末と呼ばれる時代に、歴史の教科書でも有名な「黒船来航」 を代表とした欧米列強からの圧力が日本に押し寄せてきます。
当時、世界は欧米列強による帝国主義時代に突入していました。
産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国(清)への市場拡大を急いでいましたが、後にそれは、熾烈な植民地獲得競争となります。競争には世界の中でいち早く産業革命を成し遂げたイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカは、西欧との競争に勝つために、清の獲得を目指したのです。そこで太平洋航路の確立の必要から、アメリカは日本の支配に目をつけたのです。
このような対外的な圧力を受け、日本の支配者の意識は急速に変化しました。
当時の日本の支配者は、みすみす植民地になる選択肢は選ばず、『富国強兵』の道に舵を切るようになったのです。
<富岡製糸場 こちらより引用>
<戦艦三笠 こちらより引用>
それでは、富国強兵とは具体的に何か?を見ていきます。
<Wikipedia 富国強兵より引用>
富国強兵(ふこくきょうへい)とは、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策をいう。
明治政府は尊王攘夷派主導で確立された政権であったが、成立後は開国和親政策に転換するとともに万国並立・万国対峙を掲げて列強に国力・軍事両面で追い付くことによって条約の改正と国家の保全を目指した。そのため、西洋文明の積極的導入(「文明開化」)を推進し、地租改正や、殖産興業で経済力をつけ(=富国)、徴兵制や軍制改革により軍備を増強(=強兵)することで国家の自立維持を図った。陸軍はフランス後にドイツを模範とし、同様に海軍はイギリスを模範とした。
やがて、日本の国力が一定水準に達すると、条約改正とともに列強と同様の植民帝国建設を目指すようになり、中国・朝鮮・南方への経済的・軍事的進出を模索するようになった。条約改正の達成と日清戦争・日露戦争の勝利が、これまで国家指導者や知識人の理論・目標に過ぎなかった「富国強兵」を一般の日本国民にも現実として認識させ、明治初期以来の「富国強兵」「文明開化」史観を定着させることになる。
明治時代の支配者の意識が、それ以前と明らかに異なる点は、「富国強兵というお題目(=課題)が加わったことです。
一方、庶民側の視点に立つと、お上から与えられた地租改正や殖産興業による経済力の上昇や徴兵制や軍政改革による軍備増強による富国強兵路線は、それまで村落共同体で農業を担っていた多くの庶民にとってみれば、配慮に欠けた方針といえます。
したがって、ここではじめて、支配者の意識の中で、庶民のことは二の次になったと見ることができます。
しかし、これまで下への配慮を欠かさなかった支配者が、対外的な圧力が高まったからといって、こうも簡単にしかも短期間で庶民のことを二の次とした富国強兵路線を実現することができるものなのでしょうか?
そこには、大きな力が背後に働いたと見る方が妥当です。
そこで、面白い視点で、明治時代の支配者層の意識変化を捉えている記事を見つけたので紹介させていただきます。
民の生活派VS金貸し派
るいネット『近代日本史を民の生活派VS金貸し派という支配者の対立構造から捉え直す』冨田彰男氏の投稿より引用
>これを海軍は裏から仕組んだ金貸しの手先と見れば歴史の流れは見えてくるのではないか?つまり明治以降、それまでの属国天皇主義の支配者に代わって、金貸しの手先として動くもっと劣悪な勢力が登場したと見るとどうだろうか?
「明治以降変質した支配者の意識とその正体とは!」258190
戦後の経世会VS清和会は民の生活第一派VS金貸し屈従派の争いだと捉えると、その構図はそれ以前の近代日本史を貫いて存在しているののではないでしょうか。
明治以降、支配者内部の対立がいくつもあります。
例えば、
・明治政府VS西郷隆盛→西南戦争
・海軍VS陸軍
・北進論VS南進論
・陸軍内部でも皇道派VS統制派、また、石原莞爾VS東条英機
・戦後は、吉田茂VS鳩山一郎~経世会VS清和会
これらの対立は全て、民の生活第一派VS金貸しへの屈従派の争いだったのでは?
例えば、2・26事件などは、東北の農民の窮乏を憂う青年将校が決起したものですが、支配者内部にも民の生活第一という伝統を受け継ぐ層がいて、それと金貸しへの屈従第一派との争いだったのでは?
2・26事件で青年将校たちが「君側の奸」として狙ったのが、財閥大企業と癒着する政治家たちです。例えば、日露戦争時にヤコブ・シフらに公債を買ってもらい戦費調達した高橋是清(2・26事件当時は蔵相)が「君側の奸」として槍玉に挙げられた代表格です。高橋是清に限らず、青年将校たちが「君側の奸」として狙った政治家たちは金貸し屈従派だったのではないでしょうか。
そして、金貸し派が民の生活派を制圧してゆくというのが近代日本政治史の構図なのではないでしょうか?
日清日露戦争までは支配者もまともな判断をしていたが、大正以降失策だらけで敗戦に至ることから考えて、明治末までは(幕末の志士→)民の生活派が主導権を握っていたが、大正以降は金貸し派が主導権を握ったのでは?
例えば、世界大恐慌直後に日本の大蔵省は金解禁というトンでもない愚作をやって、日本経済を苦境に陥れますが、これも民の生活派ではなく、金貸しの策動だと考えて間違いないでしょう。
戦前に戦争を煽ったのは海軍というのはその通りで、満州事変に乗じて、上海事変を起こしたのは海軍です。
満州事変を起こした関東軍参謀石原莞爾は、陸軍大学首席という試験エリートですが、現実世界でも相当な切れ者だったそうです。
彼は東北の出身で農民の苦しみを何とかしなければという問題意識を持っていたのでは?
それに対して、石原の陸軍大学の同期が東条英機でこれは絵に書いたような試験エリートだったそうです。
有能な石原が満州事変後に左遷され、無能な東条が陸軍大臣→首相と出世していったのはなぜか?
これも民の生活派が金貸し派に制圧されてゆく現れなのでは?
いずれにしても、近代日本史を民の生活派VS金貸し派という支配者の対立構造から捉え直せば、明治以降支配者の意識がどのように変質していったのかが見えてくると思います。
記事にあることが事実であるならば、明治政府が打ち出した富国強兵路線も、市場拡大を目論む金貸し派の思惑により実現されたとみることもできそうです。
参考記事 <6/5なんでや劇場(8) ロスチャイルドに乗せられた明治維新と日露戦争>
また、庶民の意識に目を向けてみると、金貸し派に引っ張られた支配者が大きく意識を変化させた一方で、庶民は相変わらずお上捨象意識は保ったままでした。そのため、支配者の様々な方策に対して、(一部で反乱はあったものの)基本的には受け入れていきました。
今回見てきた富国強兵(近代化)が、驚くほど短期間で実現できた要因は、金貸し派の策略のみならず、それらの策略をお上捨象意識で受け入れてきた庶民の存在も大きいのだと思われます。
●まとめ
明治時代の支配者の意識変化をまとめると、一見、対外的な圧力が高まり、日本の支配者は庶民への配慮を2の次にしてまで富国強兵路線を切り替えた。しかし、富国強兵路線含めて、その背後には、市場拡大を画策している金貸しに取り込まれた支配者と、これまで同様庶民に配慮を行う支配者とのせめぎ合いが続いていたということになりそうです。
さらに、支配者の中で金貸し派と庶民派との争いが行われているというこの構造は、明治に限ったことではなく、戦後から現代にかけても続いているとみることができます。
日本の近代史を俯瞰してみると、時代時代の優勢度に応じて、庶民に配慮する支配者、庶民は二の次で金貸しに寄り添う支配者が出現していると大きく捉えることができそうです。
今回は、明治時代から第二次世界大戦あたりまでの支配者の意識変化を見てきましたが、敗戦を経験して日本の支配者の意識はどのように変化していったのでしょうか?
この続きは次回の記事で展開します お楽しみに
投稿者 marlboro : 2012年02月11日 TweetList
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コメント
投稿者 風雅こまち : 2012年12月15日 12:45
音楽でも西洋の拍とはちがって、わずかな休符が1拍目の前に入る等、東北の民謡にも古い時代から受継いだ言葉のリズムが感じられます。
今後、再びアジアの人々が渡来して、言葉も変わっていくのでしょうが、歩んできた歴史の結晶と思うと「言葉の重み」を実感します。