2017.03.30
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第2回「海洋民としての縄文」
第2回は海洋民としての縄文を見ていきたいと思います。
縄文時代は日本海という温暖な海流が入り込んで大陸と切り離されたことによって始まります。降雨による豊かな水資源、それによる広葉樹域の広がり、採集食料の拡大、さらには暖流によって運ばれた大量の水産資源がありました。縄文時代の始まりにはこの海の存在が密接に絡んでいます。
参考⇒「日本人の起源」を識る~1.日本海の形成によって始まる縄文文化
縄文人といえば採取狩猟民としてイメージされる事が多いでしょうが、その本流は漁労民、海洋民にあるのではないかと思っています。というのも他地域と異なる最大の縄文人の特性は非常に広域な黒曜石、ヒスイ等の贈与ネットワークの存在と既に縄文時代に拡大した共通言語=日本語の存在です。縄文早期には釣針がつかわれ、網の技術も中期には開発されています。また東日本で見られたサケマス漁は縄文人の複数の共同体を巻き込んだ組織性、共同性、その後の祭りの文化を創出しました。大量の貝塚、縄文中期から始まる製塩技術など海と共に縄文文化は存在してきたのです。
当然穀物も必要だったので海と山の中間に居を構え、海の幸、山の幸を季節、場所に応じて採取したのでしょう。そういう意味では豊かな食資源を生み出したのは海洋民としての縄文の方だったに違いありません。
もう一つの根拠が、縄文人はどこから来たのかという事で、朝鮮半島、シベリア、中国江南地方、縄文時代の早期から彼らは丸木舟に乗って漂着しています。日本列島に辿り着いたという事は裏返せば海を渡りきる技術を有しており、漂着した時に既に海洋民だったと考えれば合点がいくと思います。
☆この海洋民としての縄文人はその後どのように展開していったのでしょうか?
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2017.03.23
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第1回
歴史を学びたいという人が近年増えてきています。自らの生きている日本をもっと深く知りなおしたい、日本史を古来から学びなおしたい、先行きが不透明になる現在だからこそ沸き起こる未知への希求かもしれません。
ただ、歴史を学びなおす時に往々にして弥生時代から始める方が多いようです。
教科書にも巷の歴史書でも日本の通史は確かに弥生時代辺りから始まります。それ以前は史実がないからで、敢えて分類すれば考古学になってしまうからかもしれません。しかし弥生時代以降はたかが2300年、それ以前の縄文時代は10000年間あります。時間の長さだけでなく、戦争の歴史がなく、高度な共同体社会を既に作り上げていた縄文時代に日本人の基層があるのではないでしょうか。
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posted by tanog at : 2017年03月23日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2017.01.01
機は熟した。動きだせ、日本人!
今、世界が胎動している~2017年は日本人がいよいよ動き出す時、機は熟したのではないかと思います。
一昨年の年始記事に「立ち上がれ日本人!」というテーマで書かれたものがあります。
⇒リンク
昨年はその頃を考えると大きな変化が起きています。イギリスのEU離脱、アメリカではトランプが立ち、金貸し勢力が没落、プーチンが世界の中心に立とうとしています。そんな中、日本人は2020年東京五輪という時勢はあるものの、経済低迷、人々の意識は2年前に比べ決して高揚した状況にはありません。2017年、沈黙を破り、世界に先駆けて日本人が動き出す時ではないかと期待しています。
年始の今回の特集では昨年のるいネットから珠玉の日本人にまつわる記事を結集し、今年1年を期する投稿としたいと思います。全部読むには少し長いですが正月の余裕のある時間を使って気になる投稿を探してみてください。
2016年るいネットで最も使われた言葉が“追求”の時代
その先駆けとなった投稿から紹介したい。
posted by tanog at : 2017年01月01日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.12.31
織田信長の真実
旧来の秩序を壊し、戦国乱世を切り拓いた「破壊者」――。日本史上、最も有名な男と言っても過言ではない織田信長に対して、多くの人がそのような人物像を思い浮かべることでしょう。
しかし近年、そんな従来のイメージに囚われない、「新たな信長像」が提議されています。新史料の発見、あるいは史料の解釈の変化によって、これまで常識として語られてきた「通説」が改められることは、歴史研究ではしばしばあります。
今回はそんな織田信長に関して見直されている史観と謎をいくつか紹介したいと思います。
posted by katsuragi at : 2016年12月31日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2016.10.20
日本人は元来“陽気”な人々だった
電車の中向かいに座っている人々の顔を見ると、みんな疲れている、なんだか心が暗そう。
逆に旅行客の西洋人は快活に話している。対照的。日本人は暗いのだろうか?
確かに、経済も社会も、会社も学校も決して楽しいとは言えません。
しかし、日本人とは元来、陽気な民族なのです。今から150年前その姿は全く逆でした。
楽しく生きるとは何か?
”「陽気」(万物が今まさに生まれ出で、活動しようとする気)をもって、自分の心を支配できる人物”
無能 唱元著 「小さなサトリ ミニ・エンライトメントが人生を変える」から抜粋。
江戸時代の庶民を時の外交官が驚きを持って綴った文章があります。
るいネット外国から見た江戸時代以前の日本の姿1~「逝きし世の面影」 渡辺京二著より引用~
■第二章 陽気な人びと ―――――――――――――――――
●ボーヴォワル
この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。
●ルドルフ・リンダウ(スイス通商調査団の団長)
日本人ほど愉快に成りやすい人種はほとんどあるまい。良いにせよ、悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように、笑い始めたとなると、理由もなく笑い続けるのである。
●A・ベルク(オイレンブルク使節団報告書の著者)
彼らは、話し合うときには冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである。
●リンダウ
いつも農婦達の素晴らしい歓迎を受けたことを決して忘れないであろう。火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、直ちに男の子か女の子があわてて火鉢を持ってきてくれるのであった。
私が家の中に入るやいなや、父親は私に腰掛けるように勧め、母親は丁寧に挨拶をしてお茶を出してくれる。・・・最も大胆な者は私の服の生地を素手で触り、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪の毛に触って、笑いながら同時に恥ずかしそうに、逃げ出して行くこともあった。
いくつかの金属製のボタンを与えると・・・『大変有難う』と、皆揃って何度も繰り返してお礼を言う。そして跪いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、まったく驚いた次第である。
私が遠ざかっていくと、道の外れまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、
『さようなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった。
●ジョン・R・ブラック(『ヤング・ジャパン』著者)
彼らの無邪気、素直な親切、むき出しだが不快ではない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持ちよくした。
一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。
さらに、通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され、『おはよう』という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった。
「陽気」を大辞泉で見てみます。
よう‐き【陽気】
[名・形動]1 気候。時候。「春らしい―になる」2 万物生成の根本となる二気の一。万物が今まさに生まれ出て、活動しようとする気。陽の気。⇔陰気。3 気分。雰囲気などがはればれしていること。にぎやかで明 るいこと。また、そのさま。
この万物が今まさに生まれ出で、活動しようとする気を持って、自らの心を支配するということは、途轍もなく大きな天地の力をお借りして人生を切り開いて行くということなのだろうか?
~「忠さんの徒然草」より紹介
日本人は自然の力、人と人の共認充足の力を得て、心で触れあい、感謝する事で自然と明るく陽気に生きる術や、活力を得ていたのだと思います。毎日人と会い、まっさらな気分で挨拶をし、心を通わす。他愛もないそうした事が子供も大人も女も男も大切にし、きっと生命力=陽気さを作り上げてきたのでしょう。
自然が豊かで、共同体が温存されていた江戸時代の日本人の楽しく生きる力は、これから私たちが様々な新しい外圧の中で難解な課題に取り組み社会を作り上げていく上で持っておきたい心のありようだと思います。
ずっと繋がりたい~江戸時代の子供達のこんな仕草が心に響いてきます。
>私が遠ざかっていくと、道の外れまで見送ってくれて、ほとんど見えなくなってもまだ、
『さようなら、またみょうにち』と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった。
posted by tanog at : 2016年10月20日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2016.10.06
諏訪と縄文第2話~出雲族とは何か?
第2回は諏訪を語る上で触れておきたい存在で出雲族の話である。
出雲族と言えば出雲に集まっていた古代人と捉える向きがあるが、実際には中国の夏王朝の時代に黒竜江から日本列島に流れ着いた製鉄技術の民の一派、総称である。
出雲族は樺太―小樽―日本海側を経て最終は出雲に辿り着いた。もう一方の流れが諏訪にあった。従って諏訪の出雲族は出雲から来たのではなく、出雲と同時期(3000年前頃)に日本で拠点を築いた製鉄部族なのである。まだ弥生時代が始まる前である。
第2回はこの出雲族の事を書いた随筆を紹介してみたい(出典はなかったが、おそらく梅原猛氏の文章だと思われる)
出雲族は諏訪土着の縄文人と神社を作る事で融和し、御柱祭りを催す事で縄文ー弥生部落の結集を成した。おそらく、渡来人が日本で定着し縄文人と融合していったというくだり、決して簡単な事ではなかったという事を慮る。彼らは融和しなければ生きていけないという切実な状況にあった。
出雲族
縄文と弥生のはじめての接触という歴史的役割をはたしたのは出雲族であった。西村真次博士の著書「大和時代」によれば、出雲族は黒竜江あたりのツングース(女真族)で、BC1800〜1000 年頃、船で日本海を南下して、樺太―小樽―陸奥―出羽さらに出雲に進出したという。そして出雲の地が良質な砂鉄が取れる為、ここに大きな王朝を作ったとある。
当時の縄文人は、森に近い乾燥した高台に住み、その土地では合理的といえる竪穴式住居に住んでいたが、一方の出雲族は、木造の高床式の住居文化を持っていた。この高床式は湿気の多い平地でも作ることができ、変化に富む住宅形式であった。一言で言って、日本の縄文人たちとは異質のより高い文明をもっていた。
この出雲族が日本大陸で出会ったのが、武力争いとは無縁の、平和な交流しか知らない縄文人たちであった。この集団が日本列島に入ってきたとき、どのように縄文人たちと接したのだろうか。その舞台はまず、新潟から北陸、そして諏訪でおきた。
出雲族の勢力範囲
出雲族はどのように諏訪に定着していったか~諏訪大社は誰が作ったのか?
さてこれほどの縄文銀座であっても、諏訪湖周辺に注目すれば、諏訪湖湖畔には遺跡は発見されていないのだ。縄文遺跡はすべて水面から 800mより上に存在しているという調査結果がある。水位が変化しても土地が浸水しないところでないと竪穴住居はできないのだ。
この地を代表する4つの諏訪大社も見事にその線上にある。これが縄文由来の神社である証拠でもある。現代の湖畔は高級リゾートで開発され尽くしているが、諏訪湖南東の湖畔にぽつんと遺跡がある。これが数少ない弥生遺跡なのだ。
さてこの地に落ち着いた建御名方命の集団はまず諏訪湖湖畔に耕筰地を開き穀類の栽培を指導した。先に示した湖畔にわずかに残る弥生時代の遺跡だ。縄文人たちはおずおずと800m 下の湖畔に降り立った。ここはアイヌ語で言うサハ(平野)だ。弥生文化の特別な意味を込めて湖畔をサハと呼び、やがてサワ(沢)からスワ(諏訪)と呼ぶようになっていったのではないだろうか。
諏訪の名前を得た出雲族即ち建御名方命の集団は、この地の成功を元に、次々と南下していった。勢力範囲を広げないと生きていけなかったのだ。農耕を初めて、収穫にいたるには何年もかかる。その間は狩猟採取の縄文部落からの貢物で生きていかなければならない。その生産力は低いので、ひろく多くの縄文部落を支配下に収めなければならなかった。各地に見る諏訪神社はその浸透の地域を示すものであろう。
諏訪大社は出雲族が建てたが、縄文人と一体となって信仰していたのでは。
切りとった4本の巨木を立てて聖地を囲むのは縄文由来の祭りに違いない。三内丸山の 6本柱,チカモリ遺跡 真脇遺跡の列柱は太陽の祭りに関係付けられたが、諏訪の4本の巨木は聖地を聖別した。柱の巨木はここでは杉だ。栗の木のようには長持ちはしない。7年毎に立て替えになる。祭りにするには良いタイミングかもしれない。八ヶ岳の西山麓は縄文遺跡の宝庫だが、ここで御柱の原木が取り出されるまでには多くの準備の神事がある。そしてこれを縄文の各村を通って、諏訪大社まで運ぶのが御柱祭だ。途中の山おろしの勇壮なところだけが有名だが、この全行程で全部落総出で担ぎ送るのが、縄文から現代まで続くお祭りなのだ。最後にこの高さ16m もの巨大な宮柱を綱で引き立てて終わる。
縄文人たちは、自然に出雲族の指導に服しながら、狩猟採取の山麓生活から平野でも農耕生活に移行していった。その過程で諏訪地方の神事もその支配体制に準じていった。最高権威である大祝(おおほうり)という生神は建御名方命の子孫を名乗る諏訪氏が任じ、縄文信仰の神官守矢氏はその配下に置かれた。生神様がいるのは、明治時代までは良かったが、天皇御一人が現人神でおられる明治政策ではゆるされなかった。誇り高い先住の出雲族としては、大祝(おおほうり)の地位家系をそのまま継続したかったが、抵抗むなしく明治の宗教政策に屈し廃止された。
縄文人の子孫は、多分神社の上層部のことはどうでもよかったのではないか、この御柱祭の祭りの熱狂さえ残れば。
第3回は諏訪で現在でも活躍する人、これまで歴史上活躍した人物を追いかけてみたい。日本人の中の縄文性とは何かに一歩でも近づきたい。
posted by tanog at : 2016年10月06日 | コメント (4件) | トラックバック (0) TweetList
2016.09.29
諏訪と縄文 ~なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか
今年の夏に諏訪に行ってきました。たった2日の滞在でした。
出雲と並んでずっと一度は行きたいと思っていた縄文の聖地です。
諏訪大社 秋宮参道から見た諏訪の山々(私が撮影しました)
戻ってきて何か書こうと考えてきましたが、なかなか出てこない。ただ圧倒されて言葉も出てこなくて私の拙い文章で表現するにはあまりにも巨大な対象だと感じていました。
1ヶ月経った今、諏訪の事も少しネットで調べ、私の体験と併せて諏訪とは何なのか?諏訪から縄文や日本を見ると何が見えてくるか、とんでもないテーマを追求してみたいと思いました。果たして何が書けるか、楽しみにしつつゴールを設定せずに始めてみたいと思います。
まず諏訪には大きな湖、諏訪湖がありますが、湖の美しさより湖を囲む山の美しさに圧倒されました。
特に諏訪大社上宮から幾重もの山を越えて顔を出す八ヶ岳は何とも言えず神々しい。
なぜ諏訪に縄文人が住みつき、現在までその文化が御柱際として残り続けたか、それは湖というより、この山々にあるように思いました。縄文人は山を神として崇め、山から昇太陽、沈む太陽を命として拝んだのだと思います。
この山から一旦しずんだ諏訪盆地こそ、信州の山を見上げ崇めるに実にすばらしい立地だったのでしょう。
諏訪湖と八ヶ岳
さらに縄文人は定住しながらも実はかなりの交易範囲を持つ贈与ネットワークを中心とした交易民としての特徴を持っています。諏訪湖は中央構造体の結節点に位置し、縄文時代の広域の黒曜石やヒスイなどの物品が通行する位置にあったと言われています。八ヶ岳山麓から諏訪湖に到る谷にはおそらく縄文メッカと言われるぐらいの中期の縄文集落の遺跡が集中しています。諏訪湖はこれらの造山活動の境界、ひずみとして誕生し、それら山の恩恵、山の影響、エネルギーを深く受けた古来からのパワースポットなのです。
八ヶ岳山麓に集まる縄文遺跡(赤印)こちらより借用しました。
諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。
おそらくは弥生時代前期~中期、紀元前200年~紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。
諏訪大社の位置 上社前宮(私が撮影)
上社 前宮の御柱
さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。
2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。
現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。
現在では毎年8月15日の夜に行われる日本一の規模の花火大会が有名ですがこの花火大会には毎年50万人の人が全国から諏訪に集結し、湖上の花火を堪能するそうです。諏訪の人口の10倍の人々が一夜に集結する、これも一つの祭り場です。
花火もまた諏訪の祭性、縄文性を象徴する行事の一環なのかもしれません。
何が諏訪に人々を惹きつけるのか、諏訪が人々に何を与えるのか、まだはっきりした事はわかりませんが、おそらく人智を超えた何かを伝えているのではないかと思います。諏訪大社の造形の迫力はそれらを私達に無言で伝えているのかもしれません。
下宮 秋宮〈私が撮影しました)
次回からは様々なネットで語られている諏訪の謎、魅力、歴史を紹介していきたいと思います。
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posted by tanog at : 2016年09月29日 | コメント (2件) | トラックバック (0) TweetList
2016.09.02
新説「日本史」最終回~藤原時代再来
武士の時代は徳川慶喜の大政奉還をもって終焉する。
教科書を始め多くの日本人の常識は明治維新は近代化において歓迎すべき輝かしい時代の曙で、それまでの旧くて時代錯誤の徳川時代は成るべくして終焉したと捉えられているし、実際日本は明治の富国強兵から太平洋戦争敗北後まで経済が発展し続け欧米に肩を並べる経済大国に成長した。それがこれまで学校教育で正しいと教え込まれた近代日本史観である。
しかしそれが大きな間違いで、事実と反する事がいくつも介在しているしたらどうだろう。日本史は百済・藤原によって乗っ取られ、天皇制というなにやら訳のわからない制度がはびこり、事実無根の日本書紀や古事記が唯一最古の日本の史書と信じ込まされ、そして明治以降はロスチャイルドやロックフェラーという世界の金貸しの罠にまんまとはまり込んでいった。その先鋒を担ぎ日本人を歴史書ごと騙したのもまた百済由来の田布施勢力であり、明治天皇を輩出し現在の安倍総理まで権力の一手に掌握し日本を食い物にして滅亡させようとしている裏の勢力である。
現在彼らがやらかす、不正選挙やお上の暴走に目を光らせ、黙らせない声としてネットや書物、さらに薄々感じ始めた大衆の違和感をベースにしてそれらの日本をダメにする塊が浮き上がりつつある。最終回はそれらの記事、声、そして教科書で正しいとされていた事を覆す事実を並べ読者に日本史の事実を考えていただくネタとして提供したい。
教科書で教えられた常識を捨て、事実を求めて探索してほしい。
新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間前半
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間後半
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
それまで長く続いた高句麗―武士時代が幕を閉じたのも秦氏の力による。
秦氏は神社、商業ネットワークをバックにそれまで潜伏していた裏天皇(南朝)を使い、明治以降の日本の政権交代劇を画策する。
当時、日本を取り巻く外圧は高まっており、徳川の鎖国政策では太刀打ちできない状況になっていた。金貸しロスチャイルドと手を組んだ秦氏はかねてから逆転を狙っていた百済系、南朝の力を持ち上げ政策能力の無い天皇を中心とした国づくりを始める。
秦氏が舵取りを誤り、日本にとって不幸にも最大の失敗は、この時代に立った田布施出身の百済系の連中が国家や国民の事をまったく考えない連中だった事だ。彼らは己たちの私財、権力の拡大のみにしか関心が無かった。
明治以降、市場時代が拡大するとそれまでの力の源泉であった商業ネットワークを持っている甘みは消滅し、同時に秦氏の力も失われていく。秦氏の舵取りを失った権力志向の藤原ー百済系は天皇の力を武器に戦争を繰り返し財力を蓄え、日本を廃土にしながらも自らの資産を増やしていく。
何百兆にもふくれ上がった天皇財閥はスイスに埋蔵されているらしい。
百済人の部落であった田布施からは明治天皇が替え玉で登場しただけでなく、伊藤博文から現在の安倍総理に至るまですき間無く日本を支配している。しかし最大の力の源泉はいまだ残り続ける根強い天皇制の力である。この天皇制の悪しき実態を世に表し、万人の審判を仰ぎ、本来の大衆自治に変えていかない限り日本の次の時代は無い。
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徳川は大政奉還によって日本を植民地化から守った
~徳川は既に幕末に金貸しの意図を掴んでいた。
金貸しが作り上げた驚異的な武力国家がまずは脅す。国家の政権勢力は金貸しから金を借りるか、組み込まれるかの選択に迫れる。同時に金貸しは国内の反対勢力に優先的に融資し、武器を売り込む。やがて、国内で力が拮抗し内乱が勃発する。既に金貸しに実権を握られた反対勢力が政権を執り、その後は金貸し支配の下、半植民地として吸い取られていく。
江戸晩期には薩長がその策略にはまり、倒幕勢力にまで昇りつめた。
徳川の大政奉還とはそういう中で実施されたのだ。既にフランスから240万ドルの融資を受けてはいたが、15代慶喜は薩長が勢力を付けていく過程のどこかで金貸しの真意に気がついた。「国内の内乱を引き起こし、最後は西洋の金貸し勢力がこの国を手中にする」と。大政奉還を施行する前には徳川と薩長との間で話し合いが持たれ、金貸しの真意を理解し「江戸城の無血開城」を合意したという。大政奉還によって日本の植民地化は回避されたのだ。
徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?より抜粋
明治維新を画策したのは金貸し〈ロスチャイルド〉
~諸外国同様、日本もまた近代化には金貸しが深く潜入している。
日本の幕末~明治維新にかけて、欧米列強(ロシアを含む)による開国要求、植民地支配の圧力が強まって行きますが、それらの対日工作を裏で画策していたのもロスチャイルドです。直接的には日本の開国は米国の黒船の圧力によるものでしたが、その後の倒幕~明治維新を裏で画策したのはロスチャイルドです。日本支配に向け、佐幕派(幕府支持、水戸藩、会津藩)に金を貸したのは仏ロスチャイルドで、倒幕派(薩長土肥)に金を貸したのは英ロスチャイルドです。どちらが勝っても儲かるように対立する両勢力に金を貸すのが金貸しの常套手段であり、倒幕派(薩長土肥)によって明治維新を実現させた黒幕はロスチャイルドと見ておくべきです。
日本の支配構造② 明治天皇がすり替えられたのはなぜか?より抜粋
明治天皇から現在の安倍総理まで連なる田布施システムとは
~山口県の小さな町から、なぜか多くの首相や重要人物が出ている
>伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。
明治維新後、田布施出身の多くの志士が明治政府の重要なポストに就くこととなります。そしてその流れは受け継がれ、現在の安倍首相へと繋がっているようです。この明治維新から受け継がれてきた一連の流れは、「田布施システム」と呼ばれています。
「田布施システム」と明治天皇替え玉説1より抜粋
実は明治天皇は孝明天皇の子ではない
~明治天皇は替え玉説、これは最近かなり言われてきている事だが、マスコミどころか一般の人はほとんど知らない。あまりに以前の天皇(麻呂顔)と顔が異なる。
孝明天皇(北朝系)はいよいよ大政奉還、明治維新というときに急に殺されて崩御になり…睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇(南朝系)の第 11番目の皇子光良親王の子孫で長州萩で毛利氏が守護してきた。
薩摩と長州の間には、この南朝の末孫を天皇にすると言う密約があり、これが王政復古御一新を志した勤皇の運動である」(田中光顕)
「田布施システム」と明治天皇替え玉説2より抜粋
太平洋戦争がなぜ勃発したのか?
~教科書では太平洋戦争の勃発の理由は書かれていない。それは書けないからでもある。
>226事件は、公表的には帝国陸軍:皇道派の青年将校たちが「 昭和維新・尊皇討奸 」「 天皇親政 」をスローガンに企てたクーデター未遂とされていますが、これは事実のホンの一部分を取り上げたものにしか過ぎません。
実際には、昭和天皇を捕獲:廃帝にし、一応公表上、昭和天皇の弟とされている秩父宮を新しい天皇に据えるべく起こした帝国陸軍最強の第2師団( 仙台師団 )に依るクーデターで、青年将校たちの決起はその先遣隊だったのです。
先遣隊の暗殺&天皇捕獲に続いて、仙台から上野に秩父宮と共に向かっていた仙台師団は、帝国海軍陸戦隊が戦車隊まで繰り出して青年将校の先遣隊が完全制圧したため、プランを断念せざるを得なくなってしまいます。
太平洋戦争は旧陸軍vs天皇・海軍の戦争だった ~日本の2つの勢力~より抜粋
明治天皇になって最もそれ以前と変わったのは軍の全権を法的に与えられた事
~それによってその後の日本は狂った。国民の事などどうでもよかった朝鮮人の出自(田布施システム)は己達の利益が一番重要だった。
明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸し付けていた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。
日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。
この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。
国民を売って金儲け、正真正銘の売国奴=天皇より抜粋
スイスに金塊を隠し続けている天皇一族
~天皇が戦争で大儲けして金塊をスイスに預けているという話は事実のようだ
>近衛文麿首相はいく度も天皇に戦争の中止を訴えた。
天皇一族は、日清戦争や日露戦争を通じて多額の賠償金を手にしており、その一部はスイス銀行に預けられた。それは日本の天皇だけでなく、ルーズベルトやチャーチル、スターリンなどもそうであり、このような悪事を通じて彼らは国際銀行家(イルミナティ)に弱みを握られることになった。フルシチョフ元首相の『フルシチョフ回顧録』にはそれらのことが克明に書かれており、明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座はスキャンダルの種になり得るものであった。そしてここに、近衛首相の忠告を無視して、再び太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源があるのだ。
太平洋戦争と政府、天皇、そして赤十字の関係より抜粋
posted by tanog at : 2016年09月02日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2016.08.25
新説「日本史」第8回~武士時代
藤原支配から脱却した日本は新たな自治の時代、武士時代を迎える。
平安時代後半から始まるこの時代は江戸末期までおよそ900年間継続した。武士時代とは葛城が治めた大和朝廷と似ており、それまでの中央集権から封建へ、連携、連合、持ち合い、共存が力学としてあり、最も激しい戦乱にあった戦国時代にあっても信長や秀吉は常に武のない世、太平の世を求めて天下統一に励んだ。さらにそれを継いだ徳川にあっては東を抑える事で、260年間続く安定基盤を作り上げた。その手法は藤原時代が権力と富の集中で作りあげた中央集権とは相対しており、地方自治誘導、中央へは専ら地方の力を結びつけ交流を図る参勤交代という自治を重んじた中での緩やかな中央集中政治を実現した。
武士の時代とは通じてみれば東国(縄文由来)の時代であり、東に拠点を置く時代(鎌倉、江戸)が最も安定した政治、治安をなすことができた。一方で西側は京や大阪で市場が拡大し、東の政治、西の経済という構図がこの時代ますます進んでいく。
また、この時代の庶民の動きも武士時代に合わせて作られていく。惣村という村落共同体の基本が作られたのも鎌倉から室町時代にかけて、庶民もまた、自治の有り様を模索しながら自然発生的に各地にその縄文的体質をベースとした共同体が作られていったのは特筆すべきことだろう。
一方で武士に実質上の支配権を奪われた藤原家率いる天皇一派は南北朝に分かれ、その力を分断されながらも、水面下で脈々と温存され、やがてくる明治天皇の時代に再び復興した。北家も南家も藤原家だが、南家に百済直系の一派が残りまた惣村や共同体から離れた自由民(エタ、非人)が加わり裏勢力を形成、後の明治天皇を生み出す山口県の田布施を中心に潜伏した。
今回の記事はその集大成とも言える江戸時代にスポットを当てて記事紹介をしていきたい。
新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間前半
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間後半
■武士時代(900年~1860年) 960年間
荘園制度の転換に伴い、各地に治安不安が生じると部落ごとに自衛の必要が生じた。武力を持っていた坂東武士を中心に護衛の役として武士が誕生する。武士は専ら東日本に誕生し、後に西日本にも武士が登場するがそれは関東のそれを真似た物に過ぎなかった。
関東の武士団はたちまち力をつけ、横の連携を持つと朝廷に対抗する勢力に成長していく。その延長で誕生したのが源氏率いる鎌倉幕府である。以後、自治を旗印に武士中心の政権が継続する。
朝廷、天皇も制度として残されるが、その統治力も権力も無く江戸時代に入るとその存在意義すら失う目立たないものに成り下がった。武士が天皇を残したのは、いかにも縄文由来の日本人的発想で、天(自然)に抗えない、天を奉るという畏れ意識に起因した可能性が高い。事実最大権力者の信長ですら天皇をほぼ無視しているが滅ぼしてはいない。
武士時代は江戸時代も含めると900年以上続くが、その裏では秦氏率が支える藤原ー天皇が脈々と続いており、また同時期に秦氏は商業ネットワークと諜報ネットワークを全国網で形成することで武士を骨抜きにしていく。
武士支配の世界に反旗を翻したのが後醍醐天皇が引き起こした南北朝戦争だったが、天皇家は北朝を表、南朝を裏に建て江戸時代は潜伏した。
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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江戸幕府の自治
押さえておきたいのは、江戸幕府は中央集権ではなく封建制でもなく、地方の事は地方に任せるを徹底した「村の自治」、「藩の自治」をベースにした信任関係を機軸にした世界でも稀に見る政府だったという事です。家康自身が乱世、戦国時代の教訓を基に作り出した政治手法だったのでしょうが、大衆(=農民)を支配する発想を全く逆転させたところに徳川家の凄さがあります。参勤交代とはそういった中で、地方と中央を繋ぐ位置にあり、間接的かつ奥ゆかしく地方を配下においたのです。そういう意味では既に市場経済が開花し、富と貧困が拡大する中でとった手法としてはこれしかないといった“バランス感覚”に優れた政治でした。
~「地域再生を歴史に学ぶ~第8回 江戸時代は惣村自治の集大成」より抜粋
江戸は縄文の再生
戦乱の世を経て蓄積された家康の平和・安泰への希求が、天海の持つ争いとは無縁の縄文的思想に触れることで施策として結実したのが江戸時代だったのでしょう。だからこそ、江戸時代を通じて様々な施策が平和、再生、集団、自然志向といった縄文的価値観に貫かれて生み出されていったのです。
しかし、国家規模で社会変革を引き起こした江戸のシステム、これは家康や天海の個人の才覚だけでは成り立ちません。それを受け入れ下支えした東国人、さらに日本各地の地方では庶民にまだ縄文由来の共同体資質が色濃く残存していた事もまた押さえておきたいと思います。こうして江戸は天海―家康が導く縄文的社会の再生として日本史の中に登場したのです。
~「江戸時代は縄文の再生~1.家康が江戸を目指した本当の理由」より抜粋
江戸社会の理とは何か
江戸時代は、集団の自立した活動に権限をゆだねることで個々の活力を創出し、中央と地方の交流により同類圧力を生み出し、さらなる活力上昇へつなげることができたまれに見る社会だといえます。
◆規範による自我の封印
技術革新により開かれた私権追求の可能性から生じる自我を、末端の集団規範で完全に封じ込めることができました。さらに、中央からの質素・倹約の規範を、武士から末端の農民に至るまで浸透させた事も、自我の封印に大きく寄与しました。
◆石高制による実質経済
石高制という実質価値に基ずく力の尺度を用いることで、金融による架空経済の暴走を阻止し、地に足の付いた生産活動を主体とする実質経済を成立させることができました。
◆幕藩体制と参勤交代で同類活力を上昇
蕃毎の自給自足と、自立した地方自治が主体性を向上させ、さらに参勤交代という地方と中央を交流させる政策により同類圧力が高まり、末端までの活力を上昇させました。
このように江戸時代は、豊かさ欠乏と倹約の精神がバランスし、経済活動も地球環境においても究極の循環型社会が実現した、世界でも類を見ない奇跡の時代であったと言えるでしょう。
~「江戸は縄文の再生3.~中央と地方を逆転させた江戸の理(ことわり)」より抜粋
惣村とは
そもそも惣村とは何かという部分ですが、非常にわかりやすく言うと「自治の村」です。
それまでは、領主や荘園主が農民を管理して世帯主(あるいは家族)から上がりを徴収するという形でした。農地と居住地は同居しており、逆にそれぞれの住居は離れています。
惣村になるとこの状態ががらりと変わります。村請と言って、徴税の単位が個人から村単位に変わります。また居住地は農地から距離を置き、農民は1箇所にまとまっ て暮らすようになります。これが現在の農村の原型と言われる所以で、惣村以後の村はいずれも農地と居住地が離れる職住分離型となっているのです。村請となる事で、お上の税の取立てについても村単位で陳情を出すことができるようになり、過剰な徴税に対してブレーキがかかるようになります。
西洋式の民主主義の導入する以前に既に日本にはお上にブレーキをかける民衆主体の基盤(共同体基盤)ができていました。
~「地域再生を歴史に学ぶ~第4回 惣村の形成とはなんだったのか?」より抜粋
南北朝とは何か?
下記の記事に裏の支配者南朝について詳しく、かなり正確に書かれています。
「裏天皇の正体6~裏天皇(南朝系伏見殿)の諜報ネットワーク」
【1】南朝(後醍醐天皇)の支持勢力は、散所、つまり非農業民の市場勢力(非人経済)であり、北朝の支持勢力は、武力支配による農民からの収奪に立脚した勢力、つまり、貴族をはじめとする荘園領主であったこと。
【2】日本における市場勢力の源流は2つある。一つは百済の滅亡後~鎖国まで続いた大陸・朝鮮からの流入民であり、彼ら流入民が散所(市場)の住人となっていった。もう一つは、百済系の北朝の収奪と寒冷化によって農業で喰えなくなった農民たちが逃散し、都市の市場に流入した。
【3】彼ら市場の住人となった非農業民たちは、非人・河原者と呼ばれ、差別の対象となっていったが、そのまとめ役を担ったのが秦氏であり、秦氏が支配する市場勢力こそ南朝の支持勢力である。
明治天皇の出身「田布施」の場所
posted by tanog at : 2016年08月25日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.08.16
あまりにも平穏な、権力者と人民の闘争=百姓一揆
虐げられた農民たちの怒りが頂点に達し起こるのが、武装蜂起「百姓一揆」である。最新の教科書にも「幕府や諸藩は一揆の要求を一部認めることもあったが、多くは武力で鎮圧し、指導者を厳罰に処した。しかし一揆は増加し続け、凶作や飢饉のときには全国各地で同時発生した。」と強調されるように、権力者と民間人の衝突の最前線とみなされている。
「江戸時代=百姓一揆の時代」とイメージする人も多いのではなかろうか。
また、百姓一揆といえば、打ちこわしをともなう乱暴なものであり、鎮圧せんとする領主側と血で血を洗う武力抗争に発展し、多くの命が失わ
れたと思われている。
しかし、そのような一揆像に訂正を迫る研究が進展している。
様々な事例を見ていこう。
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posted by tanog at : 2016年08月16日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList