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機は熟した。動きだせ、日本人!

今、世界が胎動している~2017年は日本人がいよいよ動き出す時、機は熟したのではないかと思います。
一昨年の年始記事に「立ち上がれ日本人!」というテーマで書かれたものがあります。
リンク [1]
昨年はその頃を考えると大きな変化が起きています。イギリスのEU離脱、アメリカではトランプが立ち、金貸し勢力が没落、プーチンが世界の中心に立とうとしています。そんな中、日本人は2020年東京五輪という時勢はあるものの、経済低迷、人々の意識は2年前に比べ決して高揚した状況にはありません。2017年、沈黙を破り、世界に先駆けて日本人が動き出す時ではないかと期待しています。
年始の今回の特集では昨年のるいネットから珠玉の日本人にまつわる記事を結集し、今年1年を期する投稿としたいと思います。全部読むには少し長いですが正月の余裕のある時間を使って気になる投稿を探してみてください。

m117.gif2016年るいネットで最も使われた言葉が“追求”の時代
その先駆けとなった投稿から紹介したい。
 追求充足の時代。我々は、活力革命の渦中にいる [2]

我々は、活力革命の渦中にいる

要するに、今起きているのは活力革命である。これはフランス革命や明治維新やソビエト革命等の近代の「革命」とは、全く次元を異にしている。近代の「革命」は現実のどこにも存在しない頭の中だけの架空観念に導かれたペテンのような「革命」であり、従って彼らのキレイ事(架空観念)は全く実現されず、当然見捨てられていった。
それに対して、今起きている活力革命は、言葉に導かれた革命ではなく、言葉よりも遥かに深い潜在意識の地平で現に生起している革命であり、教育革命がそうであるようにこれは本物の革命である。
つまり、現在、我々はすでに革命(命を再生すること)の渦中にいる。

今や、追求充足のある場に人が集まる。仕事も集まる従って、どこまで追求充足の場を形成できたかが、企業の盛衰を規定することになり、それが出来ない集団は淘汰されてゆくことになる。おそらく活力革命の渦中では、役所(公務員)や大企業はいつ解体されるか分からない最も不安定な集団と化してゆくだろう。
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m117.gifベーシックインカム、労働の解放である。人はその時、どこに向かうか?

ベーシックインカムは縄文精神の再生につながるのではないか [3]

ベーシックインカムを導入すると働かない人が増えるという批判があります。そういう人もいるかもしれませんが、それで社会や経済が停滞するようなことはなく、むしろ活性化する側面の方が大きいでしょう働くことの喜びは、むしろ自分が誰かの役に立つことや、何かを生み出すこと、必要とされていることのなかにあるからです。
太古の昔からこの列島の人々は自然を敬い自然に寄り添いながら、調和と共生のなかで生きてきました。近年の研究で、縄文と呼ばれる時代は「原始時代」などではなく、世界最古の高度で豊かな文化を持ち、1万年の長きにわたって奪いあいや争い(戦争)のない社会だったことがわかってきています。この列島には1万年にわたって調和と共生のなかで生きた縄文の人たちの心が刻みつけられていて、今も私たちのなかで息づいているのではないでしょうか。
外国からの観光客は商店の店先に積み上げられた商品を誰も盗っていく者がいないことに驚くそうです。この国にはベーシックインカムを実現する土台や条件がそろっているのです。ベーシックインカムに基づくゆるやかなわかちあいの社会の実現は、この国が世界に誇れる新しい社会のモデルとなり先駆けとなる道でもあります。

労働の基本は「自給自足」である [4]

中高年の「非正規雇用」がとんでもない数(270万人)になっていることが問題になっているとNHKが 「働き盛りがなぜ?”中年フリーター”270万人の衝撃」で報じていた。なんとか正社員を増やすべきだ、限定正社員でもいいではないか、という議論が展開されていたが、実は非正規雇用か正規雇用かということは問題の核心ではない。「雇用という形式」自体が制度疲労を起こし始めているのだ。大量の正社員を抱えられる古き良き時代はもはや終焉を迎えつつあると考えるべきだろう。解決策は「雇用されない働き方、雇用されているようには見えない働き方、自分で決められる働き方」になるはずで、これは「自給自足」に近い形式に逆戻りすることを意味する。

言うまでもなく、原始的な自給自足に戻るのはいろいろな意味で困難だしその必要もない。しかしそれにもっとも近いのが「自分の会社を作ってしまう」ことではないだろうか。現代社会における自給自足とは、とりあえず自分をすべての株式を保有する社長にしてしまうことなのだ。ここで様々な資本(人、モノ、カネ、時間など)に関する裁量権を獲得することからすべてが始まる。

「Work」と「働く」の違い~人の為に動くかどうか [5]

英語では「働く」にあたる言葉はWorkというが、机に向かって勉強してもWorkになる。日本では机で勉強するのは働く中に入らない。掃除をするとか物を修理するとか人のためになることをしなければ働くことにならないのである。
「働く」=人が動くと書くが、私は人の為に動くのが本意だと解釈する。
そして何の為に働くかという問いに対しては、人の為、それを楽しむ為と考えるといいように思う。勉強は勉めて強いるから苦しいものだが、働くには苦しい文字が一つも入らない。改めて勉強と働くは別物なのだ。

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m117.gif何の為に生きるのか?男は女の為に、女は男の為に、そんな時代があった。

かつての日本は、性の悦びが、生の喜びと一致していた=幸せな国 [6]

ひとつに絞るのはなかなか難しいが、しいて言えば「本能を育てる」ということになると思う。ビデオの現場だから本能的なる映像が求められるわけだが、これが一筋縄ではいかない。本能的になることに、どこかで躊躇(ためら)いや迷いが生じる。性に限らず、本能的なことを下品であり野蛮だと見なす空気が社会に蔓延している。
しかし、本能は生命誕生約40億年の記憶に根づいている。自然と湧き上がってくる本能を抑えるというのは、ある意味、自己否定に他ならない。だから、本能は抑えるんじゃなくて、育てて、成熟させなきゃいけないんだと、僕はある時期から強く感じるようになった。
現場で女の子に「本能というのはね、母性の赤ちゃんなんだよ」と言ったことが何回もある。本能が成熟すると、対人的感性が育ち、人を慈(いつく)しむ心が芽生える。そうして母性が開花するのだ。子どもに甘えられても抱きしめられないという女性に、ここ最近何人かお会いした。
男の草食化が取り沙汰されてもう何年にもなるけれど、これもまさしく本能が影響している。79歳にして「週2回ないとオレは頭がおかしくなる」と言ってのけた友人の話を前回書いた。「セックスができる・できないは、男性ホルモンが出ているか否か」だと。

活力再生のカギは、やはり性の充足(=本能の解放)が握っている。

風の言葉を伝えて ネイティブ・アメリカンの女たち [7]

●レッド・フォックスの言葉
白人の世界ではつい最近になってやっと、女性もまた知性があるのだから女性にも投票権をあたえてもよいだろう、ということがわかったのである。
インディアンはすでに原始の時代にそのことに気づいていた。
多くのインディアン部族のあいだでは、部族会議のメンバーになる男を女性が選んでいた
それらの男たちの誰かが何か不都合なことをしでかせば、女たちはその男を解任することができた。
女たちはまた、子どもが七歳になるまでのしつけには完全な発言権をもっていた。
ときには女たちも戦闘に参加し、敵の馬を追い散らしたり、おとりとなって主要な戦闘の場から敵兵を他の場所へおびき寄せたりもした。
かつてあるインディアンが言った。
われわれはずっと昔から、女たちのなかには男よりも賢いものがいることを知っていた。酋長の生みの親は女なのだから、彼女もまた酋長と同じように賢いにちがいない」(「白い征服者との闘い」より)
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m117.gif日本人は何ができるか、江戸にそのヒントが隠されている。そして現在・・・。

日本人は江戸時代~明治時代に何を失ったか、そしてこれから何を取り戻すべきか。 [8]

不文律規範とは「何も言わなくてもわかっている」集団規範である

或いは親から子へ、集団から個へ伝承される慣わしであり、守るべき「仁や徳や志」に他ならない。
この不文律規範を軸に集団として結束し、仕事も教育も生きる価値や意味さえ何も迷わず考えずに個に染込んでいた、それが江戸時代の日本人の姿だったのだろう。
(中略)
しかし、現在でも日本人の中には”不文律規範”はまだ残っている。
共同体的集団性が解体しつつも各個にまだ残っているのと同じように、成すべき事、してはいけない事は法で決められていなくても持っている。人の役に立ちたいもそうだし、自然の摂理に従うもそうである。
今の日本人は江戸時代の正反対で最も不幸な民族に世界からは映っているかもしれない。

私たちが次代に向けてなすべきは集団の再生と同時にその前に不文律の再生ではないだろうか?誰しも言葉にはしないが心の奥底で求めているもの、それが次代の不文律になる。
誰もが求めている「社会、集団をどうする?」を夫々が考え追求していくこと。その志を持っているか否か、それが次代の不文律規範になっていくように思う。

この世は神々からの預かり物 [9]
江戸から昭和中期にかけてまでの日本では、この世は神々からの預かり物であり、自分の肉体も、道路も家屋敷も道具類も土地も、すべては神々のものであって、人はそれを生きるために「使わせていただいているのだ」という意識が社会の中核をなしていた。この観念が壊れるのが、明治維新からで、薄汚れたこころが正当化されてきた。

目先のお金儲けのことしか考えない姿は、本当に文明人といえる姿なのでしょうか。
もしかしたら、文明人ほど、野蛮人に成り下がっているのではないでしょうか

数学者の岡潔博士が面白いことを書いています。
「日本はいま、
子供や青年たちに「自分」ということを
早く教えようとしすぎている。
こんなものはなるべくあとで気がつけばよいことで、
幼少期は自我の抑止こそが一番に大切なのである。」

「自分を大切に生きる」、それはとても大切なことだろうと思います。
けれど、自分にできる精一杯の行動を、みんなのためにする。
誰に褒められなくても、みんなのために役立つことが普通のことと思う。
私たち日本人は、冒頭の写真にあるように、とても美しい国を、みんなで築いてきたのです。
未来を担う子供達に恥じることがないように、いまからでも遅くないから、日本人は、日本人としての美徳を取り戻していくべきなのではないかと思います。

原始日本人の感覚は、「ひらがな」によって継承されている [10]
文字を持たない時代の言語とその感覚を、現代まで引継いでいるのは、世界の中でも「ひらがな」のみという。どんな文字も、「てにをは」のひらがなにし組み立てることで、話し言葉しかなかった原始日本人の感覚を伴った理解ができる。「ひらがな」が、日本人の縄文体質を継承する基盤になっているということだろう。
英語の文化は始まった時点で話し言葉と文字の両方を持っていました。それは文字を持った文化から継承したものだからです。最初から話し言葉と文字が一緒にあるのが当たり前の環境だったのです。
ところが日本語の文化は文字としての漢語が導入される以前にも話し言葉しかない原始日本語としての「古代やまとことば」が存在していたことが確認されています。

したがってどんな言葉を使用するにしてもすべてひらがなとして表記し「ひらがなの音」として発してみることが日本語の持っている基本的な感覚を確認するための一番良い方法となります。日本語の感覚はすべてひらがなによって継承されてきているのです。

文明とは何か~人類が自然をコントロールし始めた事が文明の始まり [11]
先日文明史を扱われた実現塾の会議の中で、
「文明とは何か?」という問いが突きつけられた。

人類文明の向かった方向は自然界を”コントロール”から”支配”へと進み、今その自然から大きなしっぺ返しを受けようとしている。
そして会議ではこのような事も語られた。
「人類も生物同様に逆境において進化した。ただ、進化の方向が正しいのか否かである。必ずしも進化=正しい方向性とは言えない」
文明が始まって1万年を超えて、この進化は間違っていたと気が付く時が近づいている。文明の転換期を迎え、人類が存続しえる為には、現在の逆境を前に1万年前とは別の選択肢を模索する事が必要。少なくとも正しい方向性に向かわなければ次の進化はない。それは自然をコントロールする事と反対の、自然の摂理に従い、自然に学び、自然から恵みを得る方向に人類の叡智を使って転換していく事が求められているように思う。

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