2016.08.16
新説「日本史」第7回~藤原(秦)時代~《後半》
第7回は藤原時代の後半を描いてみます。後半は藤原支配が東国武士に取って代わる時代です。不比等が作った百済系日本は平安朝でその栄華を極めますが、日本を統一的に支配していた訳ではありません。平安時代とは文字通り平安を願った百済系天皇桓武が起こしたのですが、平安とは名ばかりでこの400年間は日本史の中でも最も不安定な時代でした。これは日本にあった東と西の別々の国が対立を深めバラバラになる可能性があった時代です。
西は藤原が率いる朝廷国家―貴族社会、東は高句麗人が土着縄文人と形成した続縄文国家です。西は律令制により地域の掌握が浸透していきますが、東は全く受け付けず逆に土着の共同体は強固になり独自に自衛組織を持つ武士集団を抱えます。日本史は専ら朝廷中心に書かれており、都合の悪い東の歴史などは正しく書かれず、ゆえに東の存在は蝦夷討伐や反乱といった表現になります。朝廷が征夷大将軍と名づけて時の武将を持ち上げたのは東の悪しき高句麗人、縄文人を征夷せよという意味合いが入っています。従って初代征夷大将軍の坂上田村麻呂が成した蝦夷討伐は英雄物語として称えられたのです。(実際には蝦夷討伐などは全く達成されておらず、その後の混乱、武士の誕生へと繋がっていきます)
そして武士の時代が始まります。10世紀半ばに始まる武士の時代とは力の中枢が朝廷から武士に移行した時代であり、藤原支配から高句麗系武士(坂東武士)へ力が移行した時代でもあったのです。言い換えると西から東へ力の中心が移行し、その後誕生した鎌倉時代とは日本的に言えば百済支配から(一旦は)脱却した画期的時代でもあったのです。
時に朝廷から派生して生まれた源氏、平氏は彼ら武士を統合し、朝廷と繋げる役割を果たします。出自も含めて源平は謎だらけですが、藤原家と付かず離れずで動いた彼らこそ、その後の武士社会を動かしていきます。
新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
藤原時代は藤原京、平城京、平安京とそれまでの既存勢力を排斥する目的で遷都を繰り返し、平安時代以後は百済一色の藤原支配が確立した。
668年に滅びた高句麗は、その一部が関東、東北に渡来。その後の武士に繋がる勢力を形成していく。高句麗勢力の国内の拡大に危機を持った朝廷は平安時代に入ると度々蝦夷討伐で兵を繰り出し、801年蝦夷征伐に成功する。しかし、東北に拠点を得たに過ぎず、完全に征伐されていない高句麗残党は100年間で力をつけ、武士団として再生する。
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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平安時代とはどういう時代だったか
平安時代は百済系桓武天皇が伽耶、新羅系を完全に押さえきり、百済一系で皇族を押さえた現在にいたる皇室体制の始まりの時です。桓武、嵯峨天皇は着任すると同時に唐からの文化を強力に取り込み、厳格な律令制と仏教を用い、それまでの日本で育まれた縄文土着と大陸渡来文化の混交社会からの脱却を図ります。平安京には1600人の貴族が集結し、あらたな百済系中心の日本社会が形成されていきます。
平安時代は女にとって、男にとって受難の時代だった。
藤原の最大課題は高句麗残党の居た蝦夷討伐
蝦夷を配下に置くことは大和朝廷からの積年の課題であった。
古くは斉明天皇時代の阿部比羅夫の658年蝦夷進行に始まる。
以降、奈良時代にも数回に渡り蝦夷へ兵を送り柵を造営する。
唐の圧力が弱まった平安時代、兵力を一気に国内に向け、本格的に蝦夷制圧が始まる。788年から攻め続け、アテルイ初めとする東北の縄文末裔の集団である陸奥制圧に50年かけて到達する。
平安時代の年表(武士の歴史は私権社会に対する集団防衛から始まった)
東にあったもうひとつの日本とは
高句麗は6世紀末に唐―新羅の連合軍によって滅ぼされますが、滅ぼされた一派は北へ逃れ、沿海州方面にいた靺鞨(マッカツ)人と共に渤海という国を作ります。東北地方に高句麗勢力が入り込んできたのはこの時代からではないかと思われます。727年に始めて渤海使が出羽国に到着する以前から、日本海を挟むネットワークはあったものと考えるからです。
また、同時期に百済も滅亡し、大和朝廷は国内の高句麗勢力殲滅の為に関東に百済の居住民を数百人規模で植民し、農業を広げていきます。関東の高句麗勢力がそれに伴い東北に移動した可能性もあります。大和朝廷は後の平安時代9世紀に征夷大将軍・坂上田村麻呂を送り込み、再三東北に攻め込みます。これは一説には蝦夷(縄文人の末裔)の征伐と言われていますが、本当のところは、大和朝廷に逆らう東の勢力、高句麗残党が勢力をもった東国を意識していたのではないでしょうか? 大和朝廷が数度の進行を経てようやく征圧したと言われていますが、只の縄文人支配にこれほど手間と時間がかかるとは思えません。アテルイやモレはおそらく高句麗系の騎馬民族であった可能性が高いと思われます。アテルイの肖像はそれを示しています。
日本の源流を東北に見る(9)~大和支配の外にあったもう一つの日本
武士の起源は坂東にあった
坂東侍を抜きにして武士の歴史を語ることは出来ない。坂東の侍は気性が激しく、土地を中心とした結束が固く主従の関係も強い絆で結ばれていた。坂東とは箱根と碓氷を結んだ線の東側にある相模(神奈川)武蔵(埼玉、東京、神奈川東部)安房(千葉南部)上総(千葉中部)下総(千葉北部、茨城南部)常陸(茨城)上野(群馬)下野(栃木)の八カ国の地域を指す。坂東の人々は農耕と同時に狩猟生活も営んでいたので、気質は勇猛果敢、特に馬に乗り弓矢を使うことが巧みで武芸に優れていることから、九州防衛の防人(さきもり)や蝦夷鎮圧のために多くの坂東人が駆り出された。
また、奥羽地方では度々大規模な反乱が起こった。しかし朝廷には常備軍がいなかった為に、朝廷はそのたびに征夷大将軍を任命し、征夷大将軍に任命された者は坂東に来て討伐軍を募集、編成し反乱鎮定のために奥羽地方に向かった。従って事がある度に坂東の武者達は駆り出された。このような条件の下、坂東人は鍛えられ戦闘に巧みな者が育っていった。
坂東武士の基本構造
武士と朝廷を繋いだ源平
都では平安初期に東国を攻め、9世紀初頭までに東北地方各地に城址を築く。それまで東国を運営していた高句麗人+縄文人の土着集団を解体する目的で、武術を有する蝦夷の民を都に連れ帰り 組織化した。それが俘囚制度である。彼らがその後に国家の常備軍として戦地に送られるが、平時には京で武術を教える人材となる。
坂東で盗賊蜂起による混乱が発生すると、手柄によって位を上げたがっていた平氏達は進んでその鎮圧に動いた。平氏は武力で混乱を制するとそのままその地の受領として定着する。武士第一号が平高望で、彼は坂東の地で英雄になっていく。
その後高望率いる平家一族が別れて坂東の地で分割統治する。これが坂東武士の起源である。
平将門の乱
なぜ中世の武士は源平に収斂したのか
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posted by tanog at : 2016年08月16日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2016.08.12
新説「日本史」第6回~藤原(秦)時代~《前半》
第6回はいよいよ国号「日本」の始まり、そして同時に天皇制の始まり、それらを演出した藤原氏政権の始まりを書く事になります。いわば日本書紀に書かれた以降の歴史の始まりです。しかし残念ながら我が国は日本という国号ができた時が最も本来の日本、縄文とはかけ離れた時代にありました。日本という名前を付けた百済だったのです。
日本にはそれまで江南人を始め高句麗、伽耶、新羅と大陸から様々な渡来民を受け入れ、彼らは少なからず現地の縄文人や弥生人と混血、文化交流し日本的なる物に変わっていきました。そういう意味では渡来人でありながら日本人な訳です。ところが7世紀前半に入り込んできた百済人だけはそれ以前の渡来民とは大きく性格を異にしています。
一番異なるのが、彼らは本国を失い行き場をなくし、日本を第2の百済にしようと考えたのです。あわよくば日本を拠点にして百済を奪還しようと試みていた。それがあの勝ち目もないあり得ない戦争、白村江の戦いです。そして本国奪還が不可能となると今度は日本を昔から居たと欺きその中心に君臨した。それが藤原不比等であり、偽書日本書紀です。
不比等は自らがひたすら百済人であることを隠し、それ以前の日本の歴史(記録)を抹消しました。その挙句に出来上がったのが百済人の系譜を連綿と続けてきた天皇制なのです。
現在のこの情報化時代の中にあっても日本の国の始まりや天皇制の本質はタブーとされ追求されていません。追求した学者はこれまで少数ながら居ましたがいずれも迫害、除籍されその立場、存在を失っていきました。新説「日本史」の最も伝えたい一つがこの時代の中に結集されています。
新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
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■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
645年大化の改新(一巳の変)で蘇我氏が暗殺されると藤原政権が始まる。
藤原は中臣氏が変名した氏族だが、この時代突然現れ、その出自も明らかになっていない。
歴史上では突然現れた藤原氏が大量渡来した百済人をバックに大和朝廷を乗っ取ったように取れるが、蘇我氏から藤原氏に切り替えることを画策したのも秦氏であった可能性が高い。秦氏は後に奈良時代には藤原氏と血縁の関係になり、藤原氏率いる天皇一派と接近する。
朝鮮半島は660年に百済が滅亡、大量の百済人が日本に流れる。藤原氏は百済出自でこの時代の百済人を組織化し、秦氏の支援をバックにそれまでの伽耶―高句麗勢力を組み入れた。鎌足は百済奪還を目指して朝廷軍を繰り出すが、白村江の戦いで失政。
鎌足の後に登場した藤原不比等は持統天皇を初代天皇として天皇制を立ち上げ、それまでの蘇我、葛城時代の日本の歴史を全て無き物とする為に嘘の歴史書、日本書紀、古事記を編纂する。自らは右大臣に就任し、以後の藤原氏の政治権力を万全のものとした。
藤原時代は藤原京、平城京、平安京とそれまでの既存勢力を排斥する目的で遷都を繰り返し、平安時代以後は百済一色の藤原支配が確立した。
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
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藤原不比等は百済系~奈良時代は日本を百済に染め上げる為の時代
百済~藤原氏は渡来して直ぐに日本を支配できたわけではない。奈良時代を通じて周到な地固めをした後、平安時代でその栄華を得る。
>不比等は藤原鎌足の息子と成り代わり、持統天皇の元、太政大臣に昇格。その後の日本の律令を定めていく。ただし、不比等は渡来して百済の後ろ盾がなく、止むを得ず土着伽耶系の豪族と手を組む。奈良時代とは百済系不比等と伽耶系豪族の連合政権であった。奈良時代に勃発した権力闘争は、百済系対伽耶系での主導権争いで、そういう意味では奈良時代は百済系の純粋王朝ではなかった。不比等が最も消したかったのは蘇我が立ち上げた高句麗系の日本の律令史であり、自らの百済の出自だった。不比等の系譜を日本古来から存在する藤原に仕立てたのだ。日本書紀、古事記はその為の歴史書として編纂され、日本の捏造史と併せて百済、伽耶が都合よく書かれた。
大和朝廷の誕生から明治維新まで~不比等を百済系として組み立てなおす
百済はことばを通じて日本人の意識に浸透していった
百済は朝廷、公家を押さえると知識層を中心とした言語を用いて日本人の意識に長い年月かけて浸透していった。逆に言えば大衆はつい最近までその影響を受けなかったとも言える。
奈良時代前にあった藤原京
>司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。
「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。
百済が日本にもたらしたもの~文化でなく言語にその本質があるのではないか
百済支配の最も罪深い事
>藤原氏は、陰謀・テロによって政権を奪取、殺戮した王族の業績や正当性を隠蔽するために、それまでの日本の歴史を根こそぎ抹殺した。そして、日本において自らを正当化するために、古事記・日本書紀を捏造したのだ。
これが現代に至るまで、日本の歴史を捻じ曲げ、謎だらけにして混乱させている元凶であるが、現在の教科書や学者の言説を見ると彼らの狙い通りになっているように見える。
645年のクーデター・大化の改新の折、『天皇記』と『国記』が焼失しているのである。これらは、大化の改心の折、蘇我氏によって火が架けられたと通説は説く。しかし、これらの史書は620年の蘇我氏の政権下に編纂されたものである。
クーデターの首謀者・藤原氏と中大兄皇子にとって都合が悪いモノであったと考えて始めて説明がつく事である。
中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子にとって、『天皇記』と『国記』に記載された日本古代史を消さなければならなかった。
百済王族、藤原氏3 ~それまでの日本史を根こそぎ抹殺した藤原氏~
なぜ日本の原点、日本書紀は誰も追求しないのか?
>日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。
その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。
教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。
そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏」の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。
書き換えられた歴史・藤原氏の正体 その1
藤原氏が日本に食い込めた最大の影の力とは・・・。
秦氏は5世紀に日本に1万人規模で渡来した新羅系(古くは中国系)技術者集団ですが、日本での最大の影響力は蘇我氏時代に張り巡らした神社ネットワーク。後発で来た藤原氏が力を発揮するには秦氏の支援を受けずにはあり得ないはずです。蘇我に見切りをつけた秦氏は藤原氏に乗り換えたのです。決して歴史上には現れない秦氏ですが、神社ネットワークを残し続ける事で、その情報力、影響力は現在に至るまで厳然と残っています。
>藤原家は、確かに秦氏とは婚姻関係にありますが、秦氏ではありません。藤原の祖は鎌足で、元は中臣(なかとみ)と言います。中臣氏の一族が鎌足の代になって帝より藤原の名を頂いて、それから藤原家が始まっているのです。元々は卜部(うらべ)氏や忌部(いんべ)氏など神道の神事を行っていた一族の血筋です。(中略)
天皇家の名のもとに色々と動かしていたのは藤原の事。秦氏が建立した全国の神社は八万社。関係している社をあわせると九万社に及ぶ。天皇家よりも古くから神事に関わっていたのは忌部氏。忌部氏は、物部の血筋。日向族から天皇制度が始まり、物部も秦氏も天皇家に支配される。秦氏の一部は山背の鴨川流域に拠点を置き‘鴨’を名乗り‘賀茂氏’となる。
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posted by tanog at : 2016年08月12日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.07.28
新説「日本史」第5回~蘇我時代
6世紀半~7世紀半にかけて大和朝廷は最もその勢力を拡大するが、その中心に蘇我氏が君臨していた。
大和朝廷は高句麗渡来への危機感から徐福の末裔である葛城氏が3世紀に全国より徐福系豪族を集結させて巻向(現在の桜井市)に造り、その後伽耶から渡来した物部氏、秦氏を取り込み、西日本を中心に巨大古墳を作り拡大してきた。
遠く離れた大和とはいえ、3世紀以降は常に朝鮮半島の戦乱の外圧を受けながら変動していく。古代日本の力学は朝鮮半島の戦乱とパラレルにあった。
朝鮮半島には超巨大な高句麗と弱小国百済、新羅の3国がせめぎあっていたが、6世紀に入り首都漢城を陥落されると、真先に百済が危なくなる。百済から王族が日本に拠点を求めて渡来してくる。後の藤原氏に繋がる流れである。
半島の情勢を察知していた葛城は落ち目の物部を切り捨て蘇我氏に乗り換える。蘇我氏の出自は未だ歴史書では明らかになっていないがおそらく高句麗出自。であるとすると、半島の高句麗勢力の拡大、日本侵略を恐れ、また百済支配を阻止すべく当時最も有能であった高句麗出自で既に倭人化していた蘇我氏を大和に呼び寄せたのではないかと思われる。物部同様に既に葛城氏も力を失っており、蘇我氏と組んで制度を国内に広げたのは当時最大勢力をもっていた秦氏の可能性が高い。
蘇我―秦氏が組んだ大和朝廷(飛鳥王朝)が継続すればその後の日本の歴史は大きく変わったに違いない。しかし、既に百済敗色が濃厚で大量の百済人の受け皿を狙った藤原勢力が蘇我から権力も大和朝廷が作った日本の歴史も丸ごと奪い取っていった。
蘇我氏が暗殺された645年の大化の改新(一巳の変)は百済支配の始まりであり、日本にとっては狂った歴史の始まりだった。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
高句麗由来の蘇我氏が仏教と政治手法で台頭する。587年に神道の物部を排除し、実権を取ると蘇我氏の時代が始まる。その政治手法の能力の高さは聖徳太子として書記で書かれるが、太子は実在せず実際には蘇我馬子がその後の奈良時代に繋がる律令の基礎を作った。
蘇我氏が突然登場し、その手腕をふるった事に違和感が出るが、背後で秦氏が支援していたと見ると整合する。
朝鮮半島ではこの頃、百済が攻め込まれ600年代に入ると百済王族が友好の印として王子を日本に送り込む。百済王子豊章がその後の中臣鎌足の名前を得る。
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
飛鳥王朝と葛城、物部、蘇我氏が建てた連合政権だった。
>飛鳥王朝までは縄文―弥生の土着人との融合集団が支え共存した勢力とみる事ができる。一方、同じ飛鳥時代でも藤原王朝以降は、国を失った百済の渡来人集団が土着勢力を支配し乗り込んだ略奪集団であった。
この藤原一派が担ぎ上げたのが天皇家であり、自らは政治という実権を握りながら、既存集団を天皇家として奉りあげた。
飛鳥王朝の前後で変わった日本の歴史(1)
飛鳥王朝の前後で変わった日本の歴史(2)
蘇我氏は高句麗出自の根拠とは
>蘇我稲目の父親の名前が高麗(こま)ということが分かっています。高麗とは「日本書記」ではまさに高句麗を意味する言葉なのです。
蘇我満智や蘇我韓子などの名が「日本書紀」に出てきますが、彼らが蘇我稲目の先祖でないとしても、全く関係がなかったともいえないでしょう。満智(まち)とは、百済人によく見られる名前です。韓子は原日本人と韓人の混血のことを指して言う場合が多いようです。蘇我氏は、渡来系の集団のリーダーとして力を持ってきたということを思えば、当然、蘇我満智や蘇我韓子といわれた人たちとも、無関係であるはずがありません。蘇我氏の一員である聖徳太子の17条憲法を思い出してください。第一条は和の精神です。この和の精神に因って、出自の異なる渡来人をまとめて、力をつけてきたのが蘇我氏です。
以上は、名前を理由に高句麗から来たという説です。
蘇我氏の出自
蘇我氏が日本の国体を作った
>恵慈の来日後、蘇我・推古天皇のブレインとして恵慈による日本の国体形成作業が始まる。当時、国体を整えるということは中国から国土と王の身分が保証されることであった。したがって中国への使節と中国からの派遣使の受け入れなどが重要なテーマとなった。
また、独立国として重要な制度が官僚機構(冠位十二階)であり、王の家系であり国史であった。このため、恵慈と馬子は十七条の憲法を中国の梁にならってつくり、国王の家系として「帝記」をつくり、国史として「国記」をつくった。
それまでは「倭国」と称されていたが、新しい国の名前として以前大和地方の部族が使用していた「ひのもと」の呼び名をとり「日本(にほん)」と称するようになった。これにより倭国でもなく、ヤマト国でもなく、まったく新しい「日本」という国の誕生になった
蘇我氏による国体形成
突如やってきた百済人
>7世紀以来、千数百年にわたって日本の最高の名門貴族の座を手にした藤原氏とは何者なのだろう。藤原氏最大の謎は、日本で最も高貴な一族でありながら、未だにその出自がはっきりしていない、ということである。
疑問点として3点が挙がるという。
第一に、中臣(藤原)鎌足の登場(645年頃)まで、中臣氏の活躍がほとんど見られないこと。
第二に、その中臣(藤原)鎌足も、何の前触れも無く、唐突に歴史に登場する。しかも、正史・『記紀』にさえ、その父母の記載が確認できない。
第三に、中臣(藤原)鎌足の末裔・藤原氏はどういう理由か、常陸国(茨城県)の鹿嶋からやってきたと捉えていたと推定できる。正史・『日本書紀』の中で証明された正当性を、自ら疑ってかっかたのかが、証明できないという。
>百済王子・豊璋(ホウショウ)という人物が突如、日本古代史に登場する。
『日本書紀』によると、舒明3年(631年)3月、百済の義慈王の子・豊璋(ホウショウ)は人質として来日したのだという。大化の改新・蘇我入鹿暗殺の14年前のことである。
百済王族、藤原氏1 ~藤原氏とは何者か?~
百済の歴史(天皇家は百済の王族そのものでは?)
これほどの実力者、蘇我氏の歴史はなぜ消されたか?
>蘇我一族は実力に秀でており功績も偉大であった。天皇制維持すら危機的な状況であった事に、藤原不比等の政権維持と、一族継続の為に血縁関係にあった天皇家との関係は絶対的。その為に、蘇我一族の過去の功績を天皇家の功績に転換する事が狙いで『日本書紀』が編集された。その功績を虚構の聖徳太子と推古天皇に移す事が目的で歴史の改ざんが行われた。
藤原不比等は天皇との血縁関係で藤原家の権力継続の為に、「日本書紀」で天皇と聖徳太子の功績を捏造する
posted by tanog at : 2016年07月28日 | コメント (3件) | トラックバック (0) TweetList
2016.07.21
新説「日本史」第4回~葛城・高句麗時代(大古墳時代とは何か)
第4回は4世紀から5世紀に登場した大古墳時代を扱います。
古墳は日本古代史の中でも最大の謎といわれ、誰が何の目的であのような巨大古墳を築造したのか学会でも諸説が溢れています。最も中心的な説が渡来人が土着人を支配する上で巨大古墳を作る事で権威を示したとする支配拠点作り競争、強制労働説。
しかし、先日の実現塾で展開された古墳築造の根拠は支配でも競争でもなく、単純に水田開墾の土木事業で古墳は開墾の残土であったという説です。実はこの説は昔の日本では結構知られていた説で近年の歴史学者が「そんな簡単なはずはない」として様々な屁理屈をつけて歴史を曲げていたというのが実態のようです。従って古墳の中をいくら探しても財宝はおろか埋葬された古代人の墓は出てこないのです。(一部残土でできあがった古墳の上に象徴として部族の首長を祀った場所、墓もありますが、あくまで後付です)
一方、水田の大規模な開墾、残土を計画的に積み上げた古墳はいずれも高度な土木技術を要します。この古墳時代に大量に渡来し、活躍したのが秦氏であることも古墳築造が爆発的に行われた事と符合します。秦氏は秦の時代に万里の長城に携わった技術者集団で新羅にその拠点がありましたが、半島内での高句麗の新羅進出が強まる中、伽耶に拠点を移し、葛城が率いて日本に大移住をした一派でした。
今回はいかに教科書的な認識が事実と異なり、それが私たちの歴史認識を狂わしているか、顕著な事象としてもこの古墳のテーマを扱っておきます。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
朝鮮半島ではこの時代、高句麗が広開土王の元、最大勢力を誇り450年ごろには高句麗の高官が日本を新たな支配拠点とすべく渡来した。葛城は大陸の情勢を見て、高句麗と手を組む選択をする。同時に盟友であった物部は没落していく。
500年代は大古墳時代となり、河内、吉備に大型前方後円墳が誕生するが、古墳は広域の開墾、ため池施設の造成に伴って築造された可能性が高い。532年金官伽耶が消滅し渡来した伽耶人達を、秦氏率いる開墾部隊が組織し、秦氏はこの時代に国内で力を付けていく。秦氏も葛城同様の手法を取り、神社(八幡、稲荷)を各地に作ることで渡来人と土着縄文人を組織化していき、500年代に巨大ネットワークを構築する。八幡、稲荷神社は現在でも全国の神社の中で最大勢力を占めている。(一説には9割がたが秦勢力)
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
教科書の認識)教科書 Finderより
古墳が権力者によって盛んに造られていた3世紀半ばから7世紀におよぶこの時代を古墳時代といいます。
機械のなかった時代に古墳を造るのは当然人力です。
つまり大きな古墳を造ることで、それだけの労働力を支配できるという権威を誇示出来るのです。
それに対して最近のるいネットでは以下のように展開されています。
「日本の古墳は権力の象徴ではなく、開墾の残土の盛り土であった。」は戦前の常識であった。
豪族たちが自分の墓を作るために民衆を使役して盛土したのではなくて、その豪族さんを中心に、みんなで努力して新田を開墾し、結果として残土処理のための小高い丘(盛土)ができたから、そこにあとから中心者となってくれた豪族さんをお祀りしたのです。
そこにあるのは、「あの人のおかげで、こうして広い土地ができ、田んぼができ、お米がたくさんとれるようになって、みんなが腹いっぱい飯が食えるようになった」という感謝です。
古墳築造はなんのため?
3世紀~6世紀頃のおびただしい数の古墳築造の理由として、権威の誇示や戦争回避のための古墳築造競争などの説がある。しかし、これらは現実の集団統合という視点を欠いた観念論だと感じる。
まず、集団統合のためには、その統合者と民が暮らしていける生産力の確保が必要で、開墾はその実現のための課題であった。そして何十年もの間、普段の生産を行いながら、その開墾を続けるだけの、集団としての肯定的な課題共認が成立していなければ、この大事業は実現しない。
輝ける古墳造成時代
要するに「空白の四世紀」とは、全国的に開墾、灌漑が盛んに行なわれ、米の収量が飛躍的に伸びた時期である。やはり「大和時代」の呼称のほうが良いだろう。七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ。
多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。
また、ネットで検索してみるとこんな動画サイトもありました。
古墳時代という嘘
実際古墳が位置する周囲には水田が隣接します。
松山市北梅本町にある葉佐池古墳は、1992年(平成4年)6月24日、開墾中の当時の地権者により、発見された前方後円墳です。
名称は、墳丘の東すそにあるため池「葉佐池」にちなんで命名されました。
こちらより借用しました。
古墳築造と秦氏の分布した範囲は以下のように重なります。
秦氏が水田開墾にも古墳にも深く関与していた事が伺えます。
秦氏もまた徐福同様に渡来人として迎え入れられ、日本の中に深く根を張っていったのです。
>秦氏は、日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる。その分布は32カ国・81郡に及んだという。
こちらより借用しました。
続きを読む "新説「日本史」第4回~葛城・高句麗時代(大古墳時代とは何か)"
posted by tanog at : 2016年07月21日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList
2016.07.14
新説「日本史」第3回~葛城・物部時代
呉越、徐福、いずれも大陸で戦争圧力を受け日本に逃げ延びたボートピープルです。
2世紀に日本に辿り着いた高句麗人は、明確な意図を持っており朝鮮半島支配の延長に日本を捉えていました。ただ、半島での戦争に兵力を割かれていた為、日本は支配の対象ではなくあくまで拠点づくり、既に鉄を産出していた出雲を押さえる事で鉄資源を補給していました。出雲から東に50キロ離れた青谷上寺地で本格的な戦争の跡があり、出雲には明確にこの時期に高句麗が建てた遺跡があります。後に武士勢力に繋がる高句麗の日本進出はこうやって始まりますが、既に日本各地に縄張りを広げていた徐福ネットワークは強者高句麗を恐れ、対抗する為の拠点を大和に作り全国から結集していきます。それが後の大和朝廷-飛鳥王朝につながっていくのです。
「大和朝廷」ともう一つの勢力、高句麗勢力が作った「関東日本国」がこの時代拮抗していました。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
150年に高句麗から使者が渡来し、出雲に拠点を作ると危機を覚えた葛城率いる徐福ネットワークの長が大和に集結。大和、飛鳥に豪族たちの部族連合国家を立ち上げる。物部は伽耶から少し前に渡来した鉄の商人であるが、葛城と手を組み出雲の拠点を取り返す。葛城が大和を、物部が出雲、吉備を押さえ九州を除く西日本をコントロールするようになる。同時期、高句麗勢は出雲から尾張、長野、関東にその拠点を移して(広げて)いく。
それぞれの拡大の戦略は古墳、神社を基盤としたが、特に葛城ネットワークの特徴は神社を各地につくり、時々の渡来人の拠り所として機能した。
この時代に東の高句麗系、西の葛城系とその後の日本を東西に2分する勢力の基礎が確立する。また、特筆すべきは400年ごろに秦氏が新羅から伽耶を経由して日本に10000人の技術者を連れて渡来している。万里の長城にも従事した彼らの土木技術が、500年以降に登場する大古墳時代に繋がる。
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
※今回も関連するるいネット投稿を紹介しながら、この時代を文章と写真で紹介していきます。
高句麗は、中国東北地方南部の山岳地帯におきた騎馬民族である。この地域に最初に勢力を拡げた民族は、夫余であった。伝説では高句麗王は夫余族の末裔で紀元前37年に国を興したことになっている。高句麗はいくつかの部族の連合政権であった。
~高句麗の歴史(高句麗は日本にどのように入り込んできたか?)
出雲に登場した高句麗の拠点
↑出雲に登場した四隅突出墓(高句麗に同様の形態がある)
2世紀後半に鉄を求めて高句麗から出雲に渡来人集団が定着。古墳様式が登場しその後の古墳時代が始まる。出雲に居た既存集団は戦争圧力で押し出され、大和に拠点を求める。それが大和に登場した大国主信仰であり、出雲からの神譲りの理由である。
~出雲は古来からの渡来人の拠点になっていた。
徐福ネットワークは大和に結集
各地で縄文人と融合した徐福集団は徐々に勢力を拡大していき、またそれとは別に朝鮮半島からの渡来人らも受容れられ、伊豆、九州、紀伊、瀬戸内、美濃、北陸、高知などに融合部族の拠点をつくっていきました。
それが、葛城氏、蘇我氏、平群氏、大伴氏、巨勢氏、紀氏、物部氏など、古代有力豪族たちであり、同族意識を有した豪族だったのです。
彼らはお互いに闘争せずに共存することを目指しました。縄文人の受容れ体質、融合による発展、つまり「闘争支配より共認共存」の融合路線で争いを避けながら、共存を図っていったのです。
古代の有力豪族は互いに勢力争いをしていたのではなく、ネットワークで結ばれて互いに情報を共有しながら共存を目的として連帯していたと見る事ができます。
~「大和政権の源流と葛城ネットワーク」~2.徐福と縄文の出会い
秦氏の渡来
↑秦氏率いる伏見稲荷神社の鳥居
秦氏は技術に優れるとともに、八幡神社、稲荷神社、日吉神社、松尾大社、愛宕神社といった多くの神社の創建にも関わったとされている。秦氏が使えていた弓月氏は中央アジアの弓月国の王の末裔だとされるが、弓月国は、シルクロードの北方ルート上に属しており、絹ビジネスで栄えた国で世界に散ったユダヤ人がシンジケートをつくっていたとされる。神道とユダヤ教のつながりはいろいろと取りざたされるが、秦氏が日本に技術と同時に宗教と、商業ネットワークのシステムを持ち込んだのかもしれない。
~葛城は徐福の末裔であり、秦氏もその一党であった。
秦氏は400年頃に新羅から伽耶(加羅)経由で1万人の技術者集団をまとめ、日本に入ってきたチベット系の末裔となる。
また、その信仰にはユダヤ系が入っており、さらなる出自はユダヤ人である可能性もある。
渡来時から既に最大勢力のまとまりを持っており、その後の日本史の中で「財力と労働力を提供して政治を動かしている隠然たる実力者」「黒幕的存在」となっていった。秦氏は黒幕たる所以は日本史の中では表舞台に登場せず、従って日本書紀にも日本史にも全く登場しない。
蘇我氏や藤原氏、平安遷都、室町時代の南北朝、明治維新、日本の支配者が移り変わる過渡期には背後で秦一族が動いていた可能性が高い。
~秦氏は日本史を見る上で重要な位置にある。
posted by tanog at : 2016年07月14日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.07.07
新説「日本史」第2回 徐福ネットワーク時代
呉越人の渡来の後にやってきたのが、大和朝廷の創設者の本丸、徐福一派です。
徐福は秦の始皇帝の圧政に見切りを付け、村丸ごとで日本へ逃亡した史上最大の移民集団です。
それも当時最大権力者だった始皇帝を不老長寿の薬を蓬莱の島に採りに行くと欺き、舟と技術者を携え、それも2度にわたり日本へ向かって大船団を繰り出したのです。追っ手が来ることを恐れ、日本には敢えて少人数に分けて各地へ潜伏しました。始皇帝の圧制が終わって追っ手がなくなると日本で頭角を現し、文字通り技術と当時の中国の文化、文明を伝える先鋒になっていったのです。
元来、渡来の民を歓迎で迎える縄文の民は徐福一派の持ち込んだ文化を進んで吸収し、各地で徐福は伝説となっていきます。
今でも日本で徐福伝説が残る地は西日本を中心に各地に残り、その影響力の大きさを図ることができます。
征服でも支配でもなかった彼らの渡来は土着縄文人と混血し、各地で勢力を形成していきます。徐福という名を残しながら繋がった事で、土着混血し日本人になって以降も連綿と徐福一派としての横の繋がり、連携は残しており、後の大和朝廷を作った葛城ネットワークの母体となっていきます。
第2回はこの徐福ネットワークの時代を見ていきます。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
秦の始皇帝の強権支配から逃れるべく徐福村率いる徐福は技術者3000人を集め、蓬莱の国で不老長寿の薬があると王を欺き、日本へ分散して各地に漂着。その後彼らは土着縄文人と混血し、日本に農業技術を初めとする大陸の文化を伝播させる。各地で豪族として頭角を現すが、遠隔で繋がり神社ネットワークと商業ネットワークを形成する。徐福ネットワークを統合していたのが200年頃に大和朝廷を立ち上げた豪族の長、葛城氏であった。
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
秦の始皇帝命ず
徐福村から出ずる
各地にばらばらで入る⇒現在でも残る徐福伝説
日本列島各地には今も「徐福伝説」が数多く残されていますが、どれも渡来人徐福集団と争ったというものではなく、様々な先端技術をもたらしてくれたありがたい存在として伝承されています。
徐福伝説が残るのは、例えば佐賀県武雄市、福岡県八女市、鹿児島県串木野市、宮崎県延岡市、広島県宮島町、京都市伊根町、和歌山県新宮市、三重県熊野市、愛知県熱田神宮、静岡県清水市、山梨県富士吉田市、青森県小泊村、東京都八丈島、東京都青ヶ島などがあり、20ヶ所程度に分散して日本列島に渡来しています。
鹿児島での銅像
徐福伝説について
銅鐸で広げた徐福ネットワーク
先に渡来した呉人の好戦性を最も現すのは青銅器文化の銅剣である。
銅剣は首長の埋葬に際して遺体に抱かせて埋蔵したと言われている。
同時期に畿内で見られた青銅器には銅剣がほとんどなく、専ら祭具としての銅鐸だった。畿内と尾張に見られる銅鐸はおそらく徐福一派率いる集団が広げていた可能性があり、平和裏に縄文人と融合していた証左でもある。
日本の豪族の最初の出自、最初の黒幕が徐福ネットワーク
但し、徐福一派が平和主義者で日本支配を全く考えていなかったかというとそうではない。
その後、大和朝廷に繋がる葛城氏や各地の豪族出自を繋いでいたのも徐福関係者であった可能性がある。
古代豪族とは何か?⇒豪族は渡来人が日本人になる過程で生まれた
豪族は最終的には大和に集結するが、同時に各地に地方豪族も存在している。豪族の最初の起点はおそらく中国の秦時代に各地にバラバラに逃げ延びた徐福一派(3000人)が作ったのではないか?その根拠は豪族のとりまとめに徐福一派の末裔と考えられている葛城が最初に大和を統合した事である。
日本での最初の黒幕(裏の支配者)もまた徐福であった可能性が高い。
弥生時代再考(5)徐福がつくった日本支配の地下水脈
posted by tanog at : 2016年07月07日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.07.01
出雲を恐れた天皇家
天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏。
天皇家が出雲を支配したはずなのに、実際には重視し祀っていた。 日本書紀では明らかにされないこの矛盾はどこからくるのか?
今回は何故、天皇家が出雲を恐れたのか真相に迫ります。
posted by tanog at : 2016年07月01日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.06.30
新説「日本史」第1回 呉越人時代
日本国には明確な異国征服の歴史がなく今日まで連綿と縄文、弥生由来の歴史が継続している。海で隔てられ大国中国の圧力を果敢にあるいは奇跡的に乗り越えてきた歴史であった。しかし、日本史をつぶさに見れば渡来民が稲作を伝え、戦争を伝え、私権社会のしくみを伝えてきた数々の段階が有った。
時々の支配者は日本に定着し、土着人を取り込むことで勢力を伸ばしていく手法は変わらず、時に武力で、時に神話や物語を使った神話的手法で巻き込んでいく。弥生時代以降の日本史を支配の歴史と捉えれば大きく8つのステージに分かれることがるいネットで提起された。
新説「日本史」~前半
新説「日本史」~後半
当ブログでは今後8回に渡りこれらの時代の記事を一時代ずつ特集していきます。
るいネット投稿と関連する地図や資料によってその時代の空気、その支配者の支配構造を表していければと思います。
■呉越人時代(前500年~前210年) 300年間
前500頃年に呉越戦争の敗者 呉人が日本列島に渡来。北九州に着き、水田稲作を開始する。呉人は土着民である縄文人と混血しムラを作るが、ムラ同志は縄張り争いを起こし、日本で最初の戦争が始まる。負けた集団は追われ、中国地方へと流れる。広島や吉備にも呉人集落が登場する。越人が渡来したのは同じく戦争で楚に破れ、大陸を終われて日本に渡来。呉人が住み着く九州を回避し、日本海側(出雲、北陸)を縄張りとした。
■徐福ネットワーク時代(前210年~200年)400年間
■葛城・物部時代(200年~450年)250年間
■葛城・高句麗時代(450年~550年)100年間
■蘇我(秦)時代 (550年~645年)100年間
■藤原(秦)時代 (645年~900年) 250年間
■武士時代(900年~1860年) 960年間
■藤原時代再来(1860年~現在) 150年間
まずは春秋戦国時代の呉越の場所です。
戦国の七雄には入っておらず両国とも戦国時代には追われた国であった。
呉越は長江下流域に位置し、長江文明の後継者が移動した。呉越とも公開技術に富む漁労民であった。
~江南の民は、水田という軛(くびき)によって被統治能力を高められていった民だった
呉人の渡来経路~海を伝って北九州に渡来した。わが国に最初に来た渡来人集団が高い船舶技術を持った海洋民であった事が伺える。後にその海の民は海浜沿いに舟で移動し、日本全国に稲作を広げていく。
呉人が作ったと思われる吉野ヶ里遺跡~2重の環濠が敷かれ明らかに戦争の様相がある。わが国の戦争は呉人によってもたらされた。
~北九州に呉人が持ち込んだ力の原理
越人の渡来 ~文字には2300年前~2000年前にかけて渡来
出雲、北陸、新潟に集中している。先行して列島に渡来した呉人とは明らかに棲み分けが成されていた。一説には呉人が越人の列島渡来を誘引したとも言われているが、越人が先行して定着していた呉人の縄張りを避けた可能性が高い。
~弥生人は呉越人との混血によって形成された②
呉人は九州に渡来後、瀬戸内海を経由して近畿まで至る
高地性集落の分布。移動した部落は警戒心が非常に高かった
広島の地名「呉」は呉人の名残である
~高地性集落の分布
posted by tanog at : 2016年06月30日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.06.23
出雲の鉄を支配したスサノオ
鉄を求めて渡来した新羅人がスサノオで、出雲王国を支配した。
日本書紀神代第八段一書第四によると、『高天原で乱暴狼藉を働いた須佐之男命は、追放され、子供のイタケルを率いて、新羅国のソシモリに舞い降りたという。ところが須佐之男命はこの地にはいたくないと言い出し、船を造って東に向い、出雲の斐伊川の川上の鳥上峰に至った』という(海峡を往還する神々より)。
posted by tanog at : 2016年06月23日 | コメント (1件) | トラックバック (0) TweetList
2016.06.17
出雲を王国に導いた、たたら製鉄
中国しかり、鉄を制する者が国を制します。
秦の始皇帝は四川での製鉄技術により中国を統一しました。
古代日本においては、出雲国が、たたら製鉄により、一大王国を築き上げたと考えられています。 恐らくこの技術は除副一行によってもたらされたものでしょう。
今回は出雲のたたら製鉄に迫ります。
posted by tanog at : 2016年06月17日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList