2016.05.20

大和朝廷以前に出雲王国が存在していた。

大和朝廷以前に出雲王国が存在していたことが、考古学の進展により明らかになりました。

日本書紀には出雲の記述は出てきませんが、藤原にとって大和朝廷以前に出雲王国が存在したことは、よほど都合が悪かったのでしょう。古事記においても出雲の神は悪役とされています。

いったい出雲とはどんな国だったのか?

数回にわたり出雲の真実に迫ります。

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2016.05.12

日本に渡来したのはまずは倭人(江南人)続いて朝鮮人

 

教科書的には朝鮮半島から稲作を携えて渡来した渡来人と縄文人が混血し弥生時代が始まったとされています。

しかし、考古学に調査により、弥生人にも2系統あり、最初は、長河南部の江南人が渡来し稲作を広め、次に北方モンゴロイド系が朝鮮半島から青銅器文化を携えて渡来したとする説が有力になりつつ有ります。

今回はこうした、倭人とは何者かの記事を紹介します。

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2016.04.28

「弥生人=渡来人」説の大嘘

今まで教科書では朝鮮半島から渡来した弥生人が稲作を始め、縄文人と混血しながら全国へ伝播したと教わってきました。

ところが、考古学の資料では、それを裏付けるものが一切存在しません。 それどころか縄文人は、世界4大文明よりも古くから、石器、土器、漆などの高度な技術を持っており、豊かな集団生活を送っていたことが明らかになりつつあります。

今回は、稲作は朝鮮半島からの渡来人が持ち込んだのではなく、縄文人自らが開拓し、朝鮮半島の米は逆に縄文人が持ち込んだという衝撃的な記事を紹介します。

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2016.01.01

次代は、ミルクを利用しない文明が中心になる

あけましておめでとうございます。本年も当ブログをよろしくお願いします。m034.gif

この年末に環境考古学の博士、安田喜憲氏の著書「ミルクを飲まない文明」という著書に巡り合った。安田先生は私の最も尊敬している縄文学の第一人者であるが、同時にこの著書で現在の西欧型市場・金融主義の文明原理を明確に否定し、それに代わる文明を提起されておられる。非常に共感を呼ぶ内容も多く、年始の縄文ブログの最初の記事として先生の著書よりいくつか引用させていただきたい。
膨大な情報量があるので、いくつかは先に類ネットで紹介させていただいた。
長江文明の誕生、文明史、消滅までの3部作である。長江文明を知る事がこの新しい文明原理のヒントでもあるのでまずはそちらを参照されたい。

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2015.12.30

古代の氏族社会についての考察

古代の氏族社会はどのような形態であったのか。日本に残る文献は記紀しかなく、そこに隠された暗号を紐解きつつ記紀の研究を続けてこられた小川秀之氏の仮設を紹介する。

以下、「古代天皇制研究~母系制の考察を基盤にして」より

日本古代の天皇家を中心とした豪族社会は、通説では男子継承の父権社会と考えられている。 しかし、そう仮定すると次の問題にぶつかるのである。

1、少なくとも平安時代には母系制の所産であるとみなされる”通い婚”が貴族社会では存在していたと考えられているのに、古代社会が父系制だとすると、何故母系制に転換したのか。

2、何故、父系社会なのに女帝が何人も立ちえたのか。

3、父系社会であるとすると、何故、その権力の掌握者である天皇の死後、皇位継承に関して死んだ天皇の意向が尊重されなかったのか。

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2015.12.15

中臣鎌足は、来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)である!

前回記事、「中臣鎌足は渡来人だった?!」の続きです。関裕二著「偽装!古代史」より引用、紹介します。中臣鎌足はずばり、来日していた百済王子・豊璋であるとの仮説です。

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●中臣鎌足は鹿島神宮の神官の成り上がりだった?

「日本書紀」の神話の中で、中臣氏の祖神・天児屋命は、天の岩戸に隠れてしまった太陽神・天照大神を表に引き出すために活躍している。だから、中臣氏は由緒正しい一族だったことになる。しかし。中臣鎌足の出自は実に怪しい。「日本書紀」は、中臣氏の祖は神話の時代から活躍していると記す。が、肝心の中臣鎌足の父母の名が見当たらない。古代史最大の英雄の系譜がはっきりしないのだ。

くどいようだが、「日本書記」編纂時の権力者は中臣鎌足の子、藤原不比等なのだから、中臣鎌足の系譜を記さなかったのは、「うっかり」ではなく、恣意的だろう。そしてその理由は、「中臣鎌足の出自を明らかにすることは憚られた」からに違いない。つまり、中臣鎌足の素性を表沙汰にできなかったのか、成り上がりだったのか、どちらかと言うことになる。

一般的には、中臣鎌足は成り上がりだったと信じられている。しかも、東国出身だったのではないかと疑われている。理由は簡単なことで、平安時代後期に編纂された歴史物語「大鏡」の中に、中臣鎌足は鹿島神宮(茨城県鹿島市)の神官だったと記されているからだ。

(中略)

しかし、筆者は、これを藤原氏による「アリバイ工作」「目くらまし」と見る。始祖の正体をうやむやにするための小細工である。

ならば、中臣鎌足の正体を突き止めることはできるのだろうか。筆者は、中臣鎌足の正体を人質として来日していた百済王子・豊璋(生没年不詳)とみる。

 

●行方不明となった百済王子・豊璋の正体

豊璋とは何者なのだろう。そこで、豊璋にまつわる歴史を「日本書記」やその他の文献から、拾い上げてみよう。豊璋は義慈王の子で、舒明3年(631年)に来日している。義慈王は即位後、自ら出兵し、新羅を圧倒した。皇極元年(642)のことだ。翌年には、高句麗とともに、新羅を追い詰めたが、新羅は唐に救援を求めたため息の根を止めることはできなかった。

そして、斉明元年(655年)には、高句麗と靺鞨と共に新羅を攻撃し、戦果を挙げている。

負け知らずの義慈王は有頂天となり、酒池肉林を繰り広げ、油断してしまった。結局唐と新羅の連合軍に挟み撃ちにされ、降伏した。義慈王は唐に連行され、ここに百済は滅びた。斉明6年(660年)のことである。

 

ただし、百済滅亡直後、武勇に優れ。絶大な人気を誇る鬼室福信(きしつふくしん)(義慈王の従兄弟にあたる)が、百済復興運動を起こす。そして、日本に預けてあった豊璋を本国に召還し、復興運動の旗頭に立てたのだ。

ところが、豊璋は「王の器」ではなかった。鬼室福信の人気の高さが気に入らず、謀反の嫌疑をかけ殺してしまう。鬼室福信の死を聞きつけた新羅は喜び勇み、攻撃をかけてきた。そして、救援にかけつけた倭国の軍団も奮闘するが、唐と新羅の連合軍の前に破れ(白村江の戦)、百済は完璧に消滅した。

では、豊璋はどうなったのだろう。「日本書記」に従えば、豊璋は高句麗に落ち延びたという。ただし、「三国史記」や「新唐書」によれば、豊璋は行方知れずになったといい。「資治通鑑」は、唐に捕らえられたとある。情報が混乱するのは、豊璋が戦場から消えてしまったからだろう。そこに去ったかと言えば、日本である。

 

なぜ断言出るかと言えば、いくつか理由がある。まず第一に豊璋は倭国の水軍が駆けつけると「あとのことは頼む」と言って、そそくさと城をすてた。「倭国軍を饗応する」ためだというが、これは言い訳で、豊璋は祖国を捨てたのだ。その豊璋が、百済復興に執念をもやし、「あくまで戦い抜く」と決心し、同盟国の高句麗に逃れたとはとても思えない。第2に豊璋は30年もの間、日本で暮らしていた。しかも、祖国を裏切り倭国の水軍に紛れ込んだ以上、行くべき場所は日本以外に考えられない。もちろん、唐か新羅に捕縛されれば別だが、それなら、しっかりとした記録が残っていたはずである。

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2015.11.24

中臣(藤原)鎌足は渡来人だった!

日本の対米追従路線がますます強くなっています。このような力追従路線は朝鮮から落ち延びた元朝鮮の支配階級が日本に渡来し、居座り支配してきたことが大きな原因となっていると言われます。

以下、「古代史の英雄」中臣鎌足は、渡来人であるとの説を紹介します。非常に説得力の有る説と思われます。

 

以下は、「教科書に絶対載せられない偽装!古代史(関 裕二) からの引用です。

 

●正体不明の「古代史の英雄」中臣(藤原)鎌足

 

中臣(藤原)鎌足といえば、誰もが知る、古代史の英雄だ。乙巳の変(645年)で蘇我入鹿暗殺を成功させ、すぐさま改革事業を手がけ、大化の改心をなし遂げ律令制度を根付かせたと信じられている。

 

しかし、この人物の出自が杳としてとしてつかめない。正史「日本書紀」を読む限り、どこで生まれ、誰が親なのか、まったく分からないのだ。天皇家を中興し、藤原千年の基礎を築いた男の正体が、なぜ不明瞭なのだろう。謎めく中臣鎌足に焦点を当ててみたい。

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皇極4年(645年)6月8日、飛鳥板蓋宮大極殿で、三韓の調を奉る日、蘇我入鹿は暗殺される。いわゆる乙巳の変だ。

 

これまで正義の戦いと信じられてきたこの事件だが、不思議なことはいくつもある。

まず、中臣鎌足が無位無官だったのに、大活躍していることが、不思議だ。中臣鎌足は蘇我入鹿暗殺のための人材を物色し、最初は軽皇子(のちの孝徳天皇)に接触した。軽皇子に寵愛されるも、「この人ではない」と感じ、有力皇位継承候補の中大兄皇子がお眼鏡にかなったと「日本書紀」はいうが、「何様のつもり?」と、中臣鎌足に突っ込みを入れたくなる。

 

天皇家の歴史を飾るために「日本書紀」が書かれたのなら、こういうあらすじにはなるまい。事実はどうであれ、中臣鎌足が中大兄皇子を「認めた」のではなく、「中大兄皇子が、身分は低いが優秀な中臣鎌足を大抜擢した」と書くのが普通である。なぜこのような記述になってしまったかと言えば、「日本書紀」編纂時の権力者が中臣鎌足の子、藤原不比等だったからである。

 

これまで何度も言っているように、「日本書紀」は天皇家の歴史を礼賛する目的とは別に、藤原氏の正統性と正当性を証明(正確には捏造)するために記された文書なのである。

 

さて、蘇我入鹿暗殺事件当日の中臣鎌足も奇妙だ。中臣鎌足のたち位置が、実に不可解なのだ。というのも、佐伯連子麻呂ら、刺客が蘇我入鹿に斬りかかったとき、中大兄皇子は「やあ!」とかけ声をかけ、ともに入鹿に斬りかかっていたが、中臣鎌足は何をしていたかというと、後ろで弓をもって傍観していたのである。

 

なぜ、有力な皇位継承候補が命を賭して戦っているのに、無位無官の中臣鎌足が、弓を持って遠くから高みの見物をしゃれ込んでいたたのだろう。どう考えても、不審極まりない。いったい中臣鎌足は、何をしていたのだろう。

 

(続く)

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2015.10.20

ワールドカップラグビー日本代表の外国出身選手が「日本代表」なのはおかしくない!⇒日本 & ポ○○○ア合同チーム!

縄文ブログの話題にふさわしくないのではという突っ込みが聞こえてきそうですが、ワールドカップラグビーでの日本チームの活躍が話題になっていますね。ノーベル賞の件といい、日本人頑張れという気持ちになってきます。

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ユーチューブで何度が見てしまいましたが、体格の違う選手相手に、最後まで粘り続ける様子はさすが日本人という思いがしました。

少し気になるのは、外国出身の選手が多いということ。登録選手のうち1/3が外国出身の選手とのことです。ラグビーでは、3年間居住していれば、その国の代表選手になれるというルールなのだそうです。ここ一番でボールを運ぶのは、外国出身選手が目立つような気もして、少し微妙な気持ちなったりもします。

 

ツイ・ヘンドリック ニュージーランド

リーチ・マイケル ニュージーランド

ホラニ・コリニアシ トンガ

アマナキ・レレ・マフィ トンガ

カーン・ヘンケス ニュージーランド

マレ・サウ ニュージーランド(サモア人)

体格の大きな南国出身の選手が沢山いますね。(他に欧米人3人)

 

ここで、縄文ブログをを読んでいただいている皆さんは何か気がつきませんか?

ニュージーランドというのは恐らく現地のマオリ族、あるいはサモアあたりからの移民でしょうか。そしてトンガ出身と、、、、、、、

 

これみなさん、「ポリネシア人」ですね。

 

ポリネシア人というのは、太平洋の島々の中でも、最も始原人類に近いと言われる平和民族。侵略のために現れた白人に対しても、歓待のため女性を差し出したといいます。

そして、タヒチでは、戦争や私有意識の元となる「好き嫌い」や「独占欲」を解消するため、性の相手は固定しないようにしているといいいます。

 

また、日本人とポリネシア人のことばは、単語が母音終わりの「母音言語」と呼ばれていますが、母音言語をは話す人々は、自然に存在する音(母音に違い音が多い)を言語として捕えることができるので、自然との同化や融合が簡単にでき、また、会話をしていくことによって、相手の潜在意識に合わせ、融合していくことができるといいます。

Karne Hesketh celebrates scoring the winning try with Male Sa'u during the Rugby World Cup 2015 match between South Africa and Japan played at Brighton Community Stadium.

そういう意味で、始原人類の共同体の意識を残しているという意味で、日本人選手と、ニュージーランド、サモア、トンガなど出身のポリネシア系の選手が、波長が合っただろうというのは想像できます。

リーチ主将が(日本暮らしが長いといえ)インタヴューで日本語で答える様子は、日本人として違和感ありません。

 

ポリネシア人も、日本人も、もとはスンダランド(東南アジア)出身。日本人は北へ、ポリネシア人は東へ向かった非常に近い民族。その後それぞれに混血が進んだので見た目は違いますが、共に古代人の、共同体の意識構造を残した民族なのです。

もちろん選手の皆さんの努力の賜物ですが、チームとしてのまとまりにはひょっとしたら、このような背景があったのかもしれません。

そういうわけで、彼らが日本代表としてチームを作っていることは全く問題ないと思います。日本とポリネシアの合同チーム?が、次回日本大会でさらに活躍してくれることは間違いないと思います。

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2015.09.15

大化の改新の真相とは

引き続き、大化の改新の真相をお伝えします。奈良、平安の時代は、突如として貴族支配の時代が始まる不思議な時代。戦争が繰り返され次第に支配体制が固まっていくというのでなく、突如として藤原支配の時代が始まる。そしてその時代は日本史上最もひどい搾取が行われた時代だった。

彼らは朝鮮半島からやってきた王族だったのだ。それならば全てつじつまが合う。

以下、るいネットより引用です。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307088

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2015.08.15

書き換えられた歴史・今も日本を支配する藤原氏の正体は?

こんにちわちわわです。

日本の政治・経済について考えるとき、当然に日本の歴史を理解しておかなければなりません。しかし、日本は国家としての成立過程そのものが、はっきりしていないのです。世界中にこんな国はありません。

その理由は、720年に編集された「日本書記」をそのまま今も大事にしており、突っ込んだ研究がなされていないからなのです。  教科書では「日本書記」の編者は舎人(とねり)親王となっていますが、実際は藤原不比等です。実質的に藤原氏の始祖です。 そして「日本書記」こそ「天皇家」を利用して大きくなり、現在に至るまでもその影響力を残している「藤原氏の正体を、うまく歴史上で美化して隠匿して、現在まで何の疑問もなく受け入れられているのです。

今回は、歴史上突如登場した藤原鎌足から繋がる藤原家の謀略が、現代の天皇家にも息づいていることを紹介したいと思います。

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