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古代の氏族社会についての考察

古代の氏族社会はどのような形態であったのか。日本に残る文献は記紀しかなく、そこに隠された暗号を紐解きつつ記紀の研究を続けてこられた小川秀之氏の仮設を紹介する。

以下、「古代天皇制研究~母系制の考察を基盤にして」より

日本古代の天皇家を中心とした豪族社会は、通説では男子継承の父権社会と考えられている。 しかし、そう仮定すると次の問題にぶつかるのである。

1、少なくとも平安時代には母系制の所産であるとみなされる”通い婚”が貴族社会では存在していたと考えられているのに、古代社会が父系制だとすると、何故母系制に転換したのか。

2、何故、父系社会なのに女帝が何人も立ちえたのか。

3、父系社会であるとすると、何故、その権力の掌握者である天皇の死後、皇位継承に関して死んだ天皇の意向が尊重されなかったのか。

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1については水野祐氏が指摘しているように、人類社会の発達において、母系社会から父系社会への移行はあっても、その反対は無いという

2については記紀に述べられている時代には、推古、皇極(斉明)持統の3人の天皇が立ち、その後にも、元明、元正、考謙(称徳)と女帝が立っていることから、日本の古代社会は父系制社会と言い切る根拠は全く無い

3については、記紀に記される限り、天皇の即位に何らかの問題や反乱、あるいは群臣の意向の関与・介入が無かった皇位継承がなされている例はほとんど無いことから、実際先天皇が新天皇の擁立に権限を振るえていたかどうかは、はなはだ疑問がある。

日本書紀は儒教の概念に沿うように書かれたが、それ以前に存在していた古代の氏族社会の制度と思想と完全に定職する訳にもいかず、その記事に折衷が行われたと考えられる。 大化の改新後では姓に関して特にいろいろな解釈の相違があり、「姓とは、天皇に対する奉仕、忠誠の度合いに応じて賜与されるものであり、奉仕忠誠の一定の結果に対して新たな姓が賜与されるのと同時に、今後の奉仕、忠誠を期待してそれ相応の姓が賜与される。」というような見解もあるが、単に自己の氏族の帰属を示す苗字とようなものと考えるのがシンプルな見方であろう。

日本書紀によると、初めて姓を賜与されたのは 天金田女命であり女性であった。つまり、原初においては、姓は母系に連なったと考えられる。このことを念頭において天皇の母と皇后の出自氏族について見て見ると、

天皇の母の出自氏族  尾張、磯城県主、穂積、大綜、葛城、蟻、蘇我、蘇我山田

皇后の出自氏族  尾張、磯城県主、穂積、大綜、葛城、葦田、大宅、蘇我、大伴、蘇我山田

であり、これらの氏族は次のような同祖系に分類される。

物部氏系 磯城県主、穂積、大綜

葛城氏系 葛城、葦田、蟻、蘇我、蘇我山田

その他  尾張、大宅、大伴

その他の氏族の中で大宅、大伴は天皇の系譜に何ら関与していないので除外すると、尾張氏は物部氏と近い関係であったようであり、天皇の系譜に関係があるのは母系においては、物部氏系と葛城氏系のみしか実際に関与していないようである。 そして、応神天皇から武烈天皇までの系譜では、母系-末弟の継承ラインが葛城氏であり、父系-長兄の継承ラインは物部氏であるということが推定できるのである。

すなわち、日本書紀において、葛城氏と物部氏は世婚とも言えるような関係であったのを、母系-末子の継承ラインを葛城氏で表し、父系-長兄の継承ラインを物部氏で表し、それぞれを一系に仕立て上げて、もともとの氏族の血統の正当性伝えたのだと思える末子相続で葛城氏の血統の概念を伝え、儒教の正統嫡子観の体現である父系-長子相続で物部氏の血統の概念を伝えさせたのではないかと考えられる。。

これらも踏まえ、記紀の記述から読み解けることは次の5つの点が上げられる。

1、古代において、貴族社会をなした氏族社会は母系制であったと思われる。

2、婚姻制は母系による異姓を単位とした族外婚であったと考えられるが、婚姻形態は、後代と同じような婿入りと嫁入りの2形式が存在した可能性がある。

3、氏族の正当な血脈は末子相続、家権は兄弟姉妹継承、家産は分割相続だったと思われる。

4、天皇家の系譜は氏族は母系に連なることを前提にしながら、儒教の父系継承の概念と折衷されて作り上げられたものと考えられる。

5、日本の古代の氏族制は、もともと、高句麗、百済の部族制と、原初は同様に近いものであったと思え、王家の世襲という概念は存在せず、その後の政治情勢、思想の変化に伴って、王家が固定化する傾向に傾いていったのではないかと思われる。そして日本書紀においては、儒教の概念を基本として、正当な王家は物部氏であったという意図のもとで書かれたのではないか。 その後、物部氏の婚族か同祖異姓氏族が蘇我氏に移ったものと考えられ、そしてその蘇我氏も大化の改新で滅び、その後なんらかの配慮で母系が隠匿された皇極天皇の系統が立ち、その後暫時藤原氏に天皇家が移っていったと考えられる。

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