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大化の改新の真相とは

Posted By tanog On 2015年9月15日 @ 8:24 PM In ⅩⅠエトセトラ(その他諸々) | 3 Comments

引き続き、大化の改新の真相をお伝えします。奈良、平安の時代は、突如として貴族支配の時代が始まる不思議な時代。戦争が繰り返され次第に支配体制が固まっていくというのでなく、突如として藤原支配の時代が始まる。そしてその時代は日本史上最もひどい搾取が行われた時代だった。

彼らは朝鮮半島からやってきた王族だったのだ。それならば全てつじつまが合う。

以下、るいネットより引用です。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307088 [1]

こうして、乙巳の変と大化改新の実態は、ようやくその全貌を見せ始めたのである。それは「日本書紀」のいうような「正義の戦い」などではなく、蘇我氏が中心となって推し進められた改革事業に対する「改革潰し」だったのである。

5世紀にはじまった部民制(べみんせい)は、やがて屯倉制(みやけせい)へと移行した。さらに、聖徳太子は、中国大陸に完成しつつあった律令制の導入を目論み、新たな政治システムへの道が開かれたのである。もちろん、聖徳太子が目指したものは、屯倉制の整備を急いだ蘇我氏の思惑を継承したものであった。しかもそれは、王権の強化が真の目的ではなく、合議制による中央政府の強化以外の何物でもなかった。

ところが、百済の衰弱が、思わぬ波紋を投げかけた。守旧派の中大兄皇子と百済王・豊璋(ほうしょう・中臣鎌足)が、百済遠征に否定的な蘇我政権打倒を目論んだからである。結果、改革派の巨魁(きょかい)・蘇我入鹿は暗殺され、蘇我入鹿の遺志を引き継いだ孝徳天皇も、中大兄皇子が岡本で展開したゲリラ戦、度重なる要人暗殺によって、失意の中、憤死するのである。

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いっぽう、孝徳天皇亡き後、即位した斉明天皇のもとで、中大兄皇子は民衆の非難を横目に、「岡本宮」周辺の防御を固めたうえで、百済遠征を強行する。しかし、誰もが予想したとおり、日本は唐と新羅の連合軍の前に、大敗北を喫し、亡国の危機さえ味わったのである。

百済が滅亡すると、百済王豊璋の子・藤原不比等は、日本での生き残りを賭け、最後の「蘇我」潰しに走ったのである。その結果、朝堂はほぼ藤原氏によって独占され、藤原不比等の孫・藤原仲麻呂(恵美押勝・えみのおしかつ。706~764)は、自らの館で養子のように飼い慣らした人物を天皇に推し立て(淳仁じゅんにん天皇)、天皇に「父」と呼ばせている。挙げ句の果てに、自らを皇帝になぞらえ、完璧な独裁体制を構築するにいたる。

この後、藤原氏は律令制度の致命的な欠陥を放置し、その欠陥を利用して領土を広げていった。それが荘園であり、律令制度の理念を根本的に否定する行為にほかならない。この結果、国家財政は藤原氏によってまかなわれる形で進められたほどであった。藤原氏は「日本」を私物化することにも成功してしまうのである。

また、日本でもっとも皇族を殺している豪族といえば蘇我氏を想像しがちだが、実際には藤原氏であり、彼らは天皇家をただたんに食いものにし、自家の繁栄だけを追い求めたのである。平安時代の藤原氏の天下の後にやってくる中世が日本のルネッサンスといわれるのは、このような藤原暗黒時代から解放されたからであり、ほぼ同時に聖徳太子信仰が隆盛するのにも、理由がないわけではなかったのである


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