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中臣(藤原)鎌足は渡来人だった!

Posted By tanog On 2015年11月24日 @ 8:41 PM In ⅩⅠエトセトラ(その他諸々) | 4 Comments

日本の対米追従路線がますます強くなっています。このような力追従路線は朝鮮から落ち延びた元朝鮮の支配階級が日本に渡来し、居座り支配してきたことが大きな原因となっていると言われます。

以下、「古代史の英雄」中臣鎌足は、渡来人であるとの説を紹介します。非常に説得力の有る説と思われます。

 

以下は、「教科書に絶対載せられない偽装!古代史(関 裕二) からの引用です。

 

●正体不明の「古代史の英雄」中臣(藤原)鎌足

 

中臣(藤原)鎌足といえば、誰もが知る、古代史の英雄だ。乙巳の変(645年)で蘇我入鹿暗殺を成功させ、すぐさま改革事業を手がけ、大化の改心をなし遂げ律令制度を根付かせたと信じられている。

 

しかし、この人物の出自が杳としてとしてつかめない。正史「日本書紀」を読む限り、どこで生まれ、誰が親なのか、まったく分からないのだ。天皇家を中興し、藤原千年の基礎を築いた男の正体が、なぜ不明瞭なのだろう。謎めく中臣鎌足に焦点を当ててみたい。

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皇極4年(645年)6月8日、飛鳥板蓋宮大極殿で、三韓の調を奉る日、蘇我入鹿は暗殺される。いわゆる乙巳の変だ。

 

これまで正義の戦いと信じられてきたこの事件だが、不思議なことはいくつもある。

まず、中臣鎌足が無位無官だったのに、大活躍していることが、不思議だ。中臣鎌足は蘇我入鹿暗殺のための人材を物色し、最初は軽皇子(のちの孝徳天皇)に接触した。軽皇子に寵愛されるも、「この人ではない」と感じ、有力皇位継承候補の中大兄皇子がお眼鏡にかなったと「日本書紀」はいうが、「何様のつもり?」と、中臣鎌足に突っ込みを入れたくなる。

 

天皇家の歴史を飾るために「日本書紀」が書かれたのなら、こういうあらすじにはなるまい。事実はどうであれ、中臣鎌足が中大兄皇子を「認めた」のではなく、「中大兄皇子が、身分は低いが優秀な中臣鎌足を大抜擢した」と書くのが普通である。なぜこのような記述になってしまったかと言えば、「日本書紀」編纂時の権力者が中臣鎌足の子、藤原不比等だったからである。

 

これまで何度も言っているように、「日本書紀」は天皇家の歴史を礼賛する目的とは別に、藤原氏の正統性と正当性を証明(正確には捏造)するために記された文書なのである。

 

さて、蘇我入鹿暗殺事件当日の中臣鎌足も奇妙だ。中臣鎌足のたち位置が、実に不可解なのだ。というのも、佐伯連子麻呂ら、刺客が蘇我入鹿に斬りかかったとき、中大兄皇子は「やあ!」とかけ声をかけ、ともに入鹿に斬りかかっていたが、中臣鎌足は何をしていたかというと、後ろで弓をもって傍観していたのである。

 

なぜ、有力な皇位継承候補が命を賭して戦っているのに、無位無官の中臣鎌足が、弓を持って遠くから高みの見物をしゃれ込んでいたたのだろう。どう考えても、不審極まりない。いったい中臣鎌足は、何をしていたのだろう。

 

(続く)


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