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大和朝廷以前に出雲王国が存在していた。

大和朝廷以前に出雲王国が存在していたことが、考古学の進展により明らかになりました。

日本書紀には出雲の記述は出てきませんが、藤原にとって大和朝廷以前に出雲王国が存在したことは、よほど都合が悪かったのでしょう。古事記においても出雲の神は悪役とされています。

いったい出雲とはどんな国だったのか?

数回にわたり出雲の真実に迫ります。

祟る出雲(八百万)の神々リンク [1]より

学校の日本史の教科書は、ほぼ7世紀から始まっている。これは、『日本書紀の記述は6世紀以前は全く信憑性が無い、ましてや神話なんて、、』というのが史学会の常識だったからであろう。

今山陰地方の考古学が進展したことにより、『出雲王国』が実在していたことが確証できた。古事記には、葦原中国(出雲王国)はわが子が支配する国だとして、神々を次々に降臨させるが、帰伏させる事が出来ず、ついに天照大御神は天鳥船神と建御雷(たけみかずち)神を大国主神のもとへ遣わした。そしてこの国は『天照大御神のご子孫に差し上げましょう』と言わせたのである(天孫降臨より)。

8世紀の大和朝廷は、出雲王国の実在を知っていたからこそ、出雲を神話にしてしまい、日本の歴史を抹殺しなければ政権の正当性と正統性を証明出来なかったのだ。すなわち大和朝廷が出来る以前に日本には別の王国、出雲王国が存在していたことを、神話が語っているのである。この王国が倭国の中心として、日本海沿岸はもちろん遠く瀬戸内海や中国,朝鮮半島と盛んに交易が行われていた。

日本で文字による記録が残されるのは奈良時代の古事記(712年稗田阿礼が暗誦していた帝記を太安万侶が編纂した)と日本書紀(720年天武天皇の命を受け、舎人親王らによって編纂された日本最古の国史)である。しかし古事記の内容は、大化改新(クーデター)を起こした天智天皇と藤原鎌足の正当性を主張し、蘇我氏と須佐之男命を悪者扱いにしているが、その内容からは古代の人々の考え方や習慣が読み取れる。古事記の神話の1/3は出雲に係わった神話で占められている。 出雲の神様は、大国主命(別名大黒様)、恵比須様などの現世利益の神様と、須佐之男命のように祟りと暴れん坊の神様がいる。
何故出雲の田舎(?)に日本一大きな出雲大社が出来たのであろうか?

出雲風土記は713年五月に中央政府から出された命令により製作に着手させ、733年に完成した。出雲の由来が『八雲立つ出雲』とか、国引き『新羅の岬が余っているから綱をかけて引いて縫い合わせた』とか記載されている。

 島根半島と朝鮮半島は300Kmの距離である。冬を除けば波穏やかな日本海であり、大陸との往来や西は九州、東は東北ともつながっていた。lこのように出雲は僻地ではなく、大陸や半島との文化の玄関口であった。

紀元前600年頃中国大陸や朝鮮半島から稲作と金属器を持った弥生人が対馬海流に乗って出雲に渡来して来た。渡来系弥生人と縄文人との間で衝突が起ったが、青銅器と鉄器を持つ弥生人が優位に立ち、縄文人は東に追いやられ、須佐之男命と奇稲田姫のように混血も進んでいった。

紀元160年の頃になると、新羅から渡来した須佐之男命の一族が出雲王国を作り上げ、山陰一帯を平定化すると、須佐男命は、今度は主力の一部を北九州に向わせ、不弥国、奴国を攻略し、次いで伊都国を攻撃した。これが倭国大乱(後漢書の146-189年)の始まりであり、ここ出雲は、北陸地方、近畿地方、東日本へ鉄素材を流通させる拠点となり、日本列島の中でも重要な地位を占めるようになった。

弥生時代の出雲は、稲作農耕に関する祭祀に用いられた光り輝く銅剣、銅矛や銅鐸など青銅器の文化が華やかであった。倭国で最も繁栄していた出雲王国(須佐之男命の子孫の大国主神)は、4世紀中(350年頃)に倭建命(景行天皇の子、仲哀天皇の父)によって滅ぼされた。

なのに古事記では戦いではなく話し合いで国譲りが行われたと記されている。これは天照大神と須佐之男命の争いでもあり、中国長江流域(呉の国)からの渡来人と朝鮮半島(新羅)からの渡来人の争いでもあった。

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