2017.08.18
「教科書の嘘を検証する」第3回~大和朝廷とは渡来民の国家
第3回は時代が前後しますが、大和朝廷の誕生から渡来人の流れを書かれた部分です。ここは日本史においても最も重要な所で、ここが正確に伝わらないと後の歴史が正しく読めないという弊害を生じます。現在の教科書はなぜかこの部分をぼかしかつ間違って書かれています。
今回も先に、教科書「東京出版の中学歴史」の記述を見てみましょう。 おかしな点にはアンダーラインを付けています。
「大和政権の発展」
3世紀後半になると、奈良盆地を中心とする地域に、王を中心に、近畿地方の有力な豪族で構成する勢力(大和政権)が生まれました。王や豪族の墓として大きな古墳が造られ、大和政権の勢力が広がるにつれて、全国の豪族も前方後円墳などの古墳を作るようになりました。古墳が盛んに造られた6世紀頃までを古墳時代と呼びます。
5世紀には王は大王と呼ばれるようになり、有力な豪族たちが、親から子へとそれぞれの役割を引き継ぎながら大王に奉仕する仕組みが出来上がりました。
「古墳文化」
~内容がないので割愛~
「中国・朝鮮半島との交流」
中国では4世紀ごろまでは国内が分裂し、5世紀から6世紀には、南北に分かれて、国々の対立が続きました(南北朝時代)。朝鮮半島では、高句麗と4世紀頃におこった百済、新羅の三国が勢力を争いました。大和政権は百済や伽耶地域(任那)の国々と結んで、高句麗や新羅と戦ったことが、好太王(広開土王)碑に記されています。
稲荷山古墳の出土の鉄剣や江田船山古墳出土の鉄刀と、前方後円墳の分布から、5世紀には大和政権の王は九州地方から東北地方に到る各国の豪族を従え、大王と呼ばれていたことが分かります。また、南朝の宋の歴史書である「宋書」には、同じ頃、倭の王としての地位と、朝鮮半島南部の軍事的な指揮権とを中国の皇帝に認めてもらおうとして、たびたび使いを送ったことが記されています(倭の五王)。
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2017.08.14
「教科書の嘘を検証する」第2回~架空の存在聖徳太子が実在した。
2回目は聖徳太子についてです。
まずは、教科書「東京出版の中学歴史」の記述を見てみましょう。 おかしな点にはアンダーラインを付けています。
「聖徳太子の政治」
朝鮮半島では、6世紀に百済や新羅が勢力を強め、大和政権と密接な交流があった伽耶地域の国々を併合しました。 このころ日本では、地方の豪族が反乱を起こし、また大和政権の中でも、蘇我氏や物部氏などの豪族が、それぞれの支持する皇子を大王にしようとして争いが続きました。この争いを和らげるために女性の推古天皇が即位すると、おいの聖徳太子(厩戸皇子)が摂政になり、蘇我馬子と協力しながら、中国や朝鮮に学んで、大王(天皇)を中心とする政治制度を整えようとしました。なかでも、かんむりの色などで地位を区別する冠位十二階の制度は、家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を、役人に取り立てようとしたものです。また、仏教や儒学の考え方を取り入れた十七条の憲法では、天皇の命令に従うべきことなど、役人の心構えを示しました。 中国では、6世紀末に、隋が南北朝を統一して強大な帝国を作り上げました。そこで日本は、東アジアでの立場を有利にし、隋の進んだ制度や文化を取り入れようと、607年に小野妹子などを送り、この後数回に渡って隋に使者を送りました。こうした遣隋使には、多くの留学生や僧が同行しました。
「飛鳥文化」
6世紀の半ばに、百済から朝廷に仏像や経典が送られ、仏教が伝わりました。それまで自然の神々を信じ、素朴な死後の世界を考えていた人々は、病気の回復や、祖先の死後の世界での幸福を祈る手段として、仏教を信じるようになりました。豪族たちの中には、それまでの古墳にかわって寺を作ることで権威を示そうとする者も現れました。 蘇我氏は、聖徳太子とともに仏教を広めようとしたので、大王がいた飛鳥地方(奈良盆地南部)を中心に、日本で最初の仏教文化が栄えました。これを飛鳥文化といい、法隆寺の釈迦三尊像などの仏像がその代表です。また、法隆寺の建物も、火災にあって再建されてはいますが、聖徳太子が建てた当時の姿を残しているといわれています。これらは、主に渡来人の子孫によって造られましたが、南北朝時代の中国や、さらに遠くインドや西アジアなどの文化の影響も受けています。
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2017.08.12
「教科書の嘘を検証する」第1回~あまりに少ない縄文記述
今回より教科書嘘シリーズを始めます。最初は縄文時代。
参考とする教科書は「東京出版の中学歴史」です。
書き方としては、まずは教科書の記述を記載し、嘘、おかしな点にアンダーラインを引き、当方で書き直した記述を後に添付します。
「縄文文化」
日本列島の人々は1万2千年ほど前から土器を作り始めました。これはどんぐりなど木の実を煮て食べるために考え出されたもので、世界的に見ても古い時代とされています。厚手で低温で焼かれたため、黒褐色をしたこの土器は、表面に縄目のような文様がつけられていることが多いので、縄文土器と呼ばれています。このため、このころの文化を縄文文化、この時代を縄文土器と呼びます。
縄文時代には植物の栽培が始まりましたが、海面が上昇し、海岸には多くの入り江ができたため、魚や貝が豊富にとれ、くり、どんぐりなどの木の実や、鳥、しか、いのししなど動物も豊かだったので、農耕や牧畜はあまり発達しませんでした。海岸や水辺には、食べ物の残りかすなどを捨てた貝塚ができました。
人々は集団を作って食料が得やすい場所にとどまり、地面をほったくぼみに柱を立てて屋根をかけた、たて穴住居に分かれて住みました。大人になったことを示す儀式として抜歯が行われ、霊の災いを防ぐためと思われる屈葬が行われていました。豊かな生産をいのるためのものと考えられる土偶も作られました。
このような縄文時代の人々と、その後に大陸から移ってきた人々が混じりあって、長い年月の間に共通の言葉や文化を持つ人々が日本列島に広がっていきました。(532文字)~東京出版より
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2017.07.27
シリーズ~教科書の日本史の嘘を検証する~
点数を取るだけの勉強は、子ども達の追求力を奪い暗記脳を作り出し、活力を奪い取っていく。学校教育の弊害はこの間、様々なところで言われていますが、もう一つの大きな問題点として「正しい歴史を伝えていない」「間違った歴史を教科書という形で摺りこんでいる」という由々しき事象があります。正しい歴史を知らない国民、これは日本が先進国の中でも最も傾向が強く、旧くは日本書紀や古事記、さらに明治以降に作られた教科書の影響は非常に大きいと言えるでしょう。
このシリーズではいくつか代表的な教科書の嘘を上げる事で、正しい歴史を知る上で重要な関所を考えていきたいと思います。
東京出版の中学の教科書「新しい社会歴史」をモデルにします。
まずは、前半の平安時代までです。以下に書かれた記述は全て嘘(または最も重要な事を書かない)です。
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2017.05.25
人骨は多くを語る~沖縄の石垣島で2万7千年前の人骨が大量発見
5月20日にプレス発表されたこのニュース。考古学的にはかなり大きな発見だ。
毎日新聞と琉球新報での記事全文を転載しますが、特に今回の発見での特筆すべき点を記事の中から抽出しておきたい。
時間のない方はその部分だけを読んでいただければと思います。
>7年間に渡る調査の集大成
2012年から継続した発掘調査は今年7月で終了。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土した。同時代の人骨が確認された遺跡としては東アジア最大級で、科学分析による新たな知見も得られており、日本列島の旧石器人の研究に欠かせない遺跡となった。
>高度な分析方法で人骨年代精度が高まる
今回の遺跡調査の特徴は、人骨の科学的分析を進めてきた点だ。
骨内のたんぱく質「コラーゲン」を放射性炭素年代測定にかけることで、人骨の年代を直接測定できるようになった。過去にも1万8千年前とされる湊川人の遺跡が発見されているが、年代は人骨に伴って出てきた遺物の測定によるものだったため、人骨が後世に流れ込んだ可能性が指摘され、沖縄での旧石器人の存在を疑う見解もあった。今回の調査は沖縄に確実に2万年以上前に旧石器人が居た事を証明するものとなった。
>2万年前の葬送方式は風葬だった
今回の発掘の最大のポイントは風葬という葬送方式が再現できる形で発掘できた事である。⇒旧石器時代の人骨が大量に出土した同遺跡は、墓地だった可能性が指摘されている。岩陰や洞穴の入り口に遺体を安置する、風葬に近い葬送法が考えられるという。
藤田研究員は「世界でも岩陰で人骨がばらばらで見つかることがあり、墓なのか分からなかった。世界的に価値が高い発見だ」と評価し「沖縄だけでなく、日本本土でも洞穴を墓に利用したのではないか」とも想像する。
死体を埋めずに空気にさらす「風葬」の決め手は岩陰で見つかった、国内最古となる全身骨格がそろった1体分の人骨だった。手足を折り曲げて葬られた姿勢が初めて分かった。それらを分析すると「古い人骨を押しのけて新しい遺体を置いたことが推測できる」
>DNAの抽出に成功、日本人のルーツ、食生活まで人骨から情報を得る
推定身長が165センチの人骨もあり、港川人など他の旧石器人骨より大柄だ。
当時の食生活についてもコラーゲンの組成分析から発見があった。同遺跡の旧石器時代の人間は、その後の時代の人間に比べ海産物を食べる割合が低かったことが判明した。氷河期のためサンゴ礁がなく、海産物が利用できなかった可能性が指摘できるという。
旧石器時代のものでは初めてで国内では最古となる、人骨からのヒトのDNA抽出にも成功した。そのDNAのパターンが、中国大陸南部や東南アジアなどが起源と想定されるパターンだったことが判明し、日本人のルーツを探る上で貴重なデータとなった。
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2017.05.02
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~最終回 「戦争をしない技術」は縄文由来
先週の実現塾で戦争の起源と歴史が扱われた。
戦争の起源は6000年前、地球規模の急激な寒冷化、乾燥化から中東で始まった。
遊牧民がオアシスの農民を襲って始まった戦争という(略奪生産)様式は、たちまち玉突きで周辺地域に広がり、ユーラシア大陸全体にその後2000年かけて拡大する。
しかし、中東からギリシャの戦争が皆殺しの民族闘争であったのに対し、中国以東での戦争は覇権闘争となり、戦争の様相も変わっていた。それでも日本に戦争が入ってくるまでにはさらに2000年を要し、弥生時代初頭にその始まりが確認されるが、玉突き的に拡がるものでもなく、たちまち縄文体質によって戦争をしない方法(古墳築造や、クニ連合の形成)を集団間で作り上げていった。
日本は縄文時代1万年間に戦争の歴史がないというだけでなく、その後も侵略戦争を受けておらず、金貸しと国内の田布施勢力によって仕組まれた太平洋戦争に巻き込まれるまで、ほぼ一貫して戦争を経験しない国であった。
戦争はなぜ起きるのか?は歴史書でもよく問いになるが、戦争はなぜ起きないのかという問いは少ない。しかし、日本人の最大の特徴は戦争を起こさない技術を有しているという事でも有り、現在金貸し主導の武器屋とその手先の安倍政権によって日本が戦争のできる国に変えられようとしている。北朝鮮による挑発も全て彼らの仕組んだ世論操作で、不安を掻きたて戦争国家へ誘導している。
今、最も日本人として踏ん張らなければいけないのは、このそそのかしの手口を見抜き自らの本源性をもって戦争をしない国を貫くことである。
これらを雄弁に示す、るいネットの4つの投稿を紹介します。
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2017.04.27
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第6回 「性は秘めるものではない、開くもの、皆で共有するものだった」
最後、もう一つ縄文と現代を繋ぐキーワードがありました。それは性の話です。
性を中心とした女と男の期待応望関係は縄文由来で現在まで確実に息づいています。
安田喜憲氏は8つの縄文文明原理の一つに女性を上げている。
>土偶に示されるように女性中心の文明原理に立脚していた。古代文明の多くは多かれ少なかれ母権性的であるが、とりわけ縄文時代においては、女性中心の文明原理が大きな役割を果たしたとみなされる。
縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。
そして今日、性が乱れた、性犯罪が増えた、浮気は大罪である、などとマスコミは煽るが性を忌避し性を密室化し、性を集団のものから切り離したのは明治以降に入り込んだキリスト教文化の西洋文明的価値観なのである。
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2017.04.20
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第5回「共同体社会としての日本」
縄文社会と現在の日本を繋いでいるのが集団形成のあり方だと思います。
現在の日本を見ると都市化、西洋式の個人主義がはびこり、最小単位は家庭になりいよいよ縄文的集団性は失われたかに見えますが、わずか70年前、昭和の前半までは農村を中心とした地域社会やその元となった生きる為の単位集団が残っていました。
それは青年会であったり寄り合いであったり、遡れば農村集団が全て自らの集団を自ら運営する自治集団であった事にあります。さらに農村の原型を遡れば鎌倉から室町時代にかけて畿内を中心に発達した惣村という自治組織がありました。
現在でも企業社会ではやはり個を抑えて集団のために力を発揮する集団力は日本人の特性として他国と比べると確実に残っており、他にもスポーツの世界ではチームで争う競技でたびたび驚くような成果を上げています。また、先の東北震災や熊本震災など有事の際にはその集団性、助け合いの精神が一気に表に出てきます。
形はどうあれ我々のDNAの中に縄文由来の集団性、共同体性が消えることなく存在している事はこれらを見ても明らかです。
第5回はこの日本人の共同体性を見て行きます。
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2017.04.13
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第4回「自然を肯定視した民」
桜が散るのを見て儚さを感じ、山に威厳を感じ、川や海には命を感じる。
文明が進み都市化が進んだ現在でも尚、地震や噴火、台風の度に文明の無力さを突きつけられる。
日本語、海洋民、受け入れ体質、先に3つの縄文由来の日本人の特性を見てきましたが最も重要で根源的な特徴が今回紹介する 「自然を肯定視した民」というテーマです。これは縄文人もそうですが、そもそも人類が洞窟に隠れ住み、ひたすら自然を注視する中で否定ではなく肯定すべき対象として自然を捉えなおし、その果てに精霊という今日の科学技術に繋がる統合観念を生み出した、その状態こそ自然を肯定的に見たことから始まったのです。
ところが、弓矢を発明し洞窟を出た人類は外的である動物と対等に闘えるようになっただけでなく、動物を家畜として飼いならし、科学技術の発見、発展と共に万能観を得てやがて恐ろしい自然であっても克服、支配できるものとして対象化していきます。それが多神教から一神教への転換、「自然が神」から「人が神」になり、「神が自然を従属させる」という奢った観念が登場する。それが西洋キリスト教社会の始まりでもあり、砂漠の中で登場したイスラム教の登場につながるのです。
一方で、豊かな自然に恵まれていた縄文社会は人類本来の精霊信仰がそのまま延長し、アニムズム、多神教、自然観を育み、激しい略奪に合わなかった島国ゆえの影響もあり、現在に至るまでその自然観は私達の“こころ”に存在しているのです。自然を否定し、コントロールするか、肯定し、畏れ敬い感謝するか、人類は5000年前にその岐路に到り、辺境の少数民族と日本人だけが自然を100%肯定視している民族として現在も残っているのです。
では、なぜ残ったのでしょうか?
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2017.04.06
日本史を学ぶなら「縄文」からがおススメ~第3回 舶来志向と工夫思考
縄文が現在の日本人まで貫通している~その事を最も象徴しているのが海外から流れてくる物資、技術、言葉をそのまま受け入れる舶来信仰と、受け入れた後すぐさま自らのものに変えてしまう工夫思考です。漢字文化からひらがなの発明、明治以降の西欧化から衣食住に到るまでの和洋折衷文化の発明など、外から中へ、そして日本風への流れは現在まで続いている日本人の本質です。真似文化、オリジナリティーがないなどとかつては自虐的に語られることもありましたが、この受け入れ(舶来)志向、工夫思考こそ縄文体質の延長にあるのです。
それでは過去2回と同様にるいネットと当ブログの記事から投稿文を紹介していきます。
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posted by tanog at : 2017年04月06日 | コメント (0件) | トラックバック (0) TweetList